大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 天地人or直江兼続 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
天地人と、宮城カンガルー


 景虎や景勝など新潟の酒を飲みつつ、天地人総集編、見るのどうしようかなと迷ったがTVつけて、酔いが覚めた。
  
 オープニング、すごかったですね。
まるで、戦国●双、●ASARAのゲームじゃないですか。笑
 いえ、いいんですけれどね。笑

 与六&喜平次のちび主従は、相変わらず可愛かった。
秋山好古とかぶるが、謙信の姿が見られて嬉しいです。
来年は、正岡子規と岩崎弥太郎が、早速かぶりそう。笑

 ところで、宮城県岩出山に野生のカンガルーが出る?そうな。
ほんとかいな?!
 カンガルーに車を追い越されたとか、寝床とフンを見つけたなど目撃情報続出。
 車、追い越したのは、西濃運輸のカンガルーマークのトラックではないのか?

 カンガルーは、寒さを嫌うため、宮城県の動物園では夜間はヒーターのある部屋で過ごし、暖房なしの野生で生きていくのは難しいとのこと。
 それでもカンガルー酒なぞ売り出され、話題になっている。笑。

 岩出山と言えば、伊達政宗の居城があった所だ。
秀吉の命で米沢から転封され、仙台に行くまでの12年間、岩出山城に政宗は暮らしている。
 そこにカンガルーか。う〜ん。
政宗公、どうお思いですかね?笑

【2009.12.22 Tuesday 11:49】 author : いづな薫 
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兼続の愛の旗


直江兼続が使った、本物の愛の旗です。
 この本物の愛の旗、崩し字でよく分からないが、愛と書いてある。
この旗に見慣れていた私、天地人オープニングを昨年の今頃初めて拝見した時、たまげた。
 例の赤い愛の字の旗を担いで、兼続が田園風景の中にいるではないか。笑
 
 この旗、今は佐久市立近代美術館にあるが、現在公開していないかも。
新しい展示室を建設中なので、また公開すると思います。

赤りんご本日の●HKスタジオパーク、兼続公がゲストでしたね。
 映画のため、染めた金髪に驚きましたが。笑
 朝日新聞の連載小説「悪人」を演じるられると聞き、ややびっくり。
おどろおどろしい絵が印象的だったので。
 兼続公いわく、「殿のような彼女が欲しい。」には笑いました。ひげが生えているのか?猫か?猫
殿は、かいがいしいんだよね。名君だけど小姓の才もお持ちか。笑

【2009.11.20 Friday 21:45】 author : いづな薫 
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切断して送る、直江兼続の密書
先日、新たに発見された直江兼続の密書を公開すると言うので、見てきた。
兼続が、会津の蘆名氏の家臣に宛てた書状である。
実はこの書状、あるのは私も以前から知っていたが、行方不明になっていたのである。
 兼続の書状はたくさんあるわけではなく、密書となるとさらに貴重だ。
書状は一行ずつ裁断され、”こより”にして運ばれたとみられる。
密書は数々あるが、切り刻んだ密書は極めて珍しい。



右の図、赤い線が、裁断された箇所を私が眼で確認できたところ。写真禁止なので、いづなの絵で説明。


 日付は1584(天正12)年4月13日、本能寺の変から2年がすぎた頃である。
この年の3月、上杉家家臣で屋代秀正という人物が上杉を裏切り徳川家康に寝返るという事件が起きている。
今回の密書は、まさに屋代秀正が出奔して行方不明と言う場面から始まるのだ。
これを、受取人の同盟者である葦名家家臣に知らせ、治安を厳重にお願いします。と兼続は、言っている。
 
 そして、「上杉家家臣新発田重家が謀反をおこし、景勝が出陣するので御加勢お願いします。」と書いているのである。
 景勝は、同年4月に景勝が屋代秀正を討伐している。
 
 屋代秀正と言う人物について、語る。
『風林火山』に、村上義清と言う武将が出てきた。
 信玄と謙信の、川中島の戦いの発端となった武将である。
はじめ信玄が村上義清と信濃の覇権を争い、戦をしていた。
 この村上義清小領主なれど、武田信玄を相手に2度も勝つなどなかなかどうして戦が強い。

 戦闘で敗れたなら、調略を得意とする信玄、村上義清方の武将を切り崩して行くのである。
 これが、葛尾城の戦いと言う。
 信玄に切り崩されたのが、屋代政国。
直江密書の文中に出てくる、秀正の伯父さんである。
伯父さんが川中島の戦いで戦死したため、甥っ子の秀正が後継ぎになる。
 秀正は武田信玄に仕え、勝頼の代まで仕える。
信玄亡き後、信濃を占領していた織田信長配下の森長可に仕えていたらしい。
(森長可は、信濃海津城の城将だったことがある。ちなみに森蘭丸の兄。)

 信長が死ぬと、海津城は上杉領になり、上杉家家臣山浦景国と言う人物が城代になる。

 山浦景国、これが誰かと言うと村上義清の実子なのである。
 上杉謙信のもとに逃げた村上義清には、息子がいて、謙信の養女と結婚し、越後の名門山浦氏を相続するという幸運に恵まれる。
 それが、この山浦景国。

上杉景勝の時代、海津城の城将は山浦景国、副将が屋代秀正となる。

屋代と言う人、村上→武田→織田→上杉と、仕官先を替えながら、勤務地はずううっと信濃にいるのが面白い。

 しかーし、この上司と部下、因縁の対決があった。

 山浦景国の実父村上義清が信玄に敗れたのは、屋代の裏切りが原因である。
父義清は城も国失い、母も亡くしている。
 ってなわけで、山浦景国と屋代秀正うまく行くはずもなく、兼続の密書にある如く、逃亡。 
 この屋代秀正、徳川方として大坂の陣を戦い、褒美として甲斐に領地をもらう。
 そして、徳川3代将軍の座を争った家光の弟、駿河大納言忠長の家老となる。
 さて、見えて来ましたね。

 駿河大納言忠長は将軍秀忠の三男に生まれながら、兄家光との争いに敗れ、お家はお取り潰し切腹になった大名である。
 家老であった屋代も、蟄居謹慎の身となる。
 しかし、子の代で許され、安房国北条藩1万石(千葉県館山市)の城主となるが、財政難を理由に改易された。
 子孫は3000石の旗本として、生きたと言う。

直江兼続の密書に1行出ていた屋代秀正、なんともドラマティックな人生を送っている。

【2009.11.17 Tuesday 11:01】 author : いづな薫 
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天地人ドラマストーリー完結編


 天地人ドラマストーリー出てたので、名将の決断「上杉景勝」とともに購入。
 表紙で、主人公がここまで老けたのも珍しいかも。笑
神指城のことが詳しく書かれていて、興味深いです。
 実はいづな、先月会津で神指城と岩崎城を見てから、景勝の人物像が変わった。
 いづなの中に、今までとは違う景勝が棲み始めています。
 これはまた別日に、書きます。

 ドラマストーリー見るまでもなく、前田慶次郎が出ないこと決定だが、
天地人プロデューサーいわく、多くの人の思い入れの深い慶次郎を中途半端に出せないので、台本から外したとのこと。
 まあ、そうだけれどね。思い入れの深い人間がここにも一人いるし。笑
米沢の慶次郎グッズや旗を見るたび、ビジュアルでも見たかったなーと。
 派手だしめでたいし?慶次郎でお正月ドラマでもやらないかなと思いましたが、いねむり磐音と柳生武芸帳じゃった。
 いいんです、あたしゃ箱根駅伝なので。

 ちょっと気になっていた映画が、2つある。
2010年正月公開と言われていた映画「桜田門外の変」、秋公開になったそうです。
あと、「沈まぬ太陽」。
ジャンボ機墜落事故を扱った社会派作品だが、かつてこの小説がかなり好きで読んでいた。
 
歴史学と言うのは、政治史、経済史が圧倒的に多いが、現代モノも社会派作品が好きである。

【2009.10.24 Saturday 19:27】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 8 最終回
直江兼続は長谷堂城から領国へ引き返し、あるじ景勝は翌年七月上洛、八月十六日家康に謝罪した。

翌日の十七日、米沢三十万石(伊達、置賜、信夫)に減封。
同二十日、上杉領は四分の一、家臣の知行(給料)は三分の一となることを言い渡す。

十一月二十八日、景勝は6,000名の家臣とその家族、計1万5千名を連れ、米沢に移住。
 この数に、馬の世話などをする名のない召使たちは含まれていないので、人数はもっと多い。
 
 徳川に意思を反する大集団を怖れ、家康は3ヶ月前から、周辺の大名に国境警備を命じるという厳戒体制を取っている。

 
 そんな中、上杉家の高潔な精神は人々に愛され続けた。

 直江兼続は、敵将に評されている。
最上義光の言。

「直江は、少しも臆せず心静かに陣を払い、撤退に慌てふためく気色もなく、あまつさえ会津へ帰陣。
 真に謙信の武勇がまだ残っている。」


後に、兼続を駿府に招いた家康は、

聞きしに勝る、武功の者。と、褒め称えたと言う
 そう称される頃の兼続は、米沢30万石の治政に追われる頃であろう。
打ち続いた戦乱、6000名の家臣とその家族を、わずかな知行で養わねばならない米沢時代。
 彼らの苦労は、想像に難くない。
一軒の家に、幾つかの家族が同居し、収入も3分の一である。 
 食べるのにも、困ったであろう。



 目の前の、自分を賞賛するかつての大敵。

 様様な方向の違う想いが交差しすぎて、兼続はどんな思いがしたであろう。
 
どんな辛いことも、黙って受け止めた景勝、
どんなに過酷でも、あるじと選んだ道を最大限に生かしきった兼続。

 私は、この二人を尊敬し、人間として愛おしくてならない。

                     いづな版 「関ヶ原と上杉家」終

【2009.10.02 Friday 22:47】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 6 運命の手紙




 長谷堂城を攻める直江兼続のもとに、一通の書状が届く。

関ヶ原で、西軍敗れる。
 
 そして、その返書が最近になって見つかっている。
差出人は、直江兼続。
 以前の研究では、兼続が西軍敗れるの知らせを受け取ったのは、慶長五年(1600年)9月29日とされて来た。
しかし、新たに見つかった文書の日付は、慶長五年(1600年)九月二十一日、関ヶ原の戦いのわずか6日後である。

 上方散々まかりなり候由聞き申候(秋田藩蔵文書)

上方で大敗してしまったのを聞きました。

 これを書いた兼続の心中を、沈痛な想いで読んだ。

長谷堂城の兵は当初1000人余と見ていたが、山形城からの援軍で、予想以上の兵が集結していた。
 西軍敗退が、明らかになった以上、上杉軍は即刻この戦をやめねばならない。
 もはや勝負の駆け引きではなく、兵の損失を最小限に食い止め、一刻も早く居城に撤退しなければならない。
 山形城からの援軍で、最上軍は意気揚々である。

兼続は、会津や米沢から遠い地から、2万の兵を帰さねばならなくなったのである。
 傷病兵を抱えながらの退却は、困難を極める。
当然、殿(しんがり)が必要である。

殿(しんがり)とは、味方を逃すために敵と戦う、命がけの戦闘部隊である。
 これは、史上名高い退却戦となった。
上杉謙信の得意とした、懸かり引きと言う戦法である。
退却すると見せながら、果敢に攻撃を仕掛け、敵を追い込む。
大将・最上義光(もがみよしあき)自ら、追撃軍に加わり、敵味方入り乱れての大混戦となったに違いない。
 
 事実この戦いは、一連の上杉対最上戦の中で、最も激しい戦になった。

最上義光歴史館には、上杉軍水原親憲隊に浴びせかけられた鉄砲傷のある、最上義光の兜が現存する。
 
 兼続が退却の途中、命を絶とうとしたと言う。

大将たる人物は、むやみに死んではならない。」と、

止めたのが、前田慶次郎である。
 
 次回は、前田慶次郎の登場です。

【2009.09.30 Wednesday 14:41】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 5 最上義光
 家康が革籠原に来ることなく西へ引き返してしまい、兼続は次に最上義光領を併呑しようと試みる。

 会津移封の時、上杉領は、会津、佐渡、米沢、庄内に飛び地している。
これを最上領を得ることにより、地続きにしてしまおうと言うわけである。



 直江兼続は、愛情あふれた人であったと、私も想像するが、一面ではこう言う冷徹な政治家の一面も持ち合わせていた。

 小さくとも弱くとも人の物を奪ってはいけないと言うのは、現在は当たり前の考えだが、
戦国時代において、景勝・兼続の師・上杉謙信は真に稀有な存在であった。 
 侵略が当たり前の時代、侵略を嫌い義の精神を持つと言うのは、一般論ではなかったが、中央政権が弱体化した時代を生きた謙信は誰に従う必要もなかった。

 しかし、兼続らは違う。
最も大事な越後を、奪い取られているのである。
 越後奪還は、彼らの至上命題であったろう。
謙信の義を守りつつ、政治的な一面も見せている。

 兼続率いる上杉軍は、1600年9月8日、最上領へ出陣するのである。
12日に、畑谷城(山形県山辺町畑谷)を落とし、長谷堂城(山形県長谷堂)を包囲。
兼続、正確に言うとお船の子分・志駄義秀が六十里越を経て、最上領に進軍している。
 谷地城、寒河江城、白岩城などを攻略する。

 長谷堂城は、最上義光は本拠地の山形城から7kmしか離れておらず、最終防衛線であった。
 長谷堂城の兵およそ、1000人。
単独では、上杉軍と対抗できない最上義光は甥っ子の伊達政宗に援軍を頼む。
 親戚でも、この二家は仲が悪い。
しかし、政宗は秀吉によって追い出されてしまった会津を奪還したいので、伯父の最上義光と手を組む。

 上杉も伊達も、旧領地奪還を悲願にしている。
諸将の悲願と策謀が入り混じり、史料を読む度、息苦しさを感じるほどである。


 9月21日、長谷堂城を攻めている直江兼続のもとに、上杉家の運命を変える1通の書状が届けられる。 
 
 関ヶ原で、西軍敗れるとの知らせであった。

                            続く                         

【2009.09.21 Monday 19:29】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 4 革籠原(かわごはら)
徳川軍を迎え撃つ場所に、兼続らが選んだのは、革籠原(かわごはら)である。

 革籠原(かわごはら)、この変わった地名は、源義経を奥州藤原氏のもとへ逃がした、金売り吉次に由来する。
 奥州の金を、京で商う商人である。
彼が、奥州の白河付近で殺害され、金の入った革籠を奪われたことで、この地を革籠原(かわごはら)、と呼ぶようになった。


  宇都宮城にいた徳川軍が、奥州街道を北上したところを、上杉軍が攻撃を仕掛ける。
 攻撃し、すぐに後退、追いかけて来る徳川軍を、国境を越え、会津領まで引き込む。
 引き込む場所が、革籠原(かわごはら)と計画した。


革籠原の作戦、直江兼続が考えたと言う、確たる証拠はないが、決定には彼の意志が大きく影響したはずである。


この地に、土塁を築き、奥州街道を徳川軍が通った後、街道を遮断する。
この防塁が、現在も残っている。
土塁など、築城術には家々に特徴がある。
革籠原の防塁には、上杉家築城術の特徴である、文字通り二重に土塁をめぐらす”二十土塁”が作られている。
 

 徳川軍を革籠原におびき寄せる先発隊と、革籠原に入った徳川軍の後ろに回り、景勝軍が挟み撃ちをするという、戦法である。

 じきに徳川の援軍が到着すると思われるが、それには、兼続と常陸の佐竹義宣(よしのぶ)が攻撃すると言うものである。

 この、佐竹義宣(よしのぶ)、実は徳川方の武将で、徳川方の駒として、
戦いの計画に入っている人物である。
これが、密かに上杉家と内通していたというから、驚きである。ちなみに伊達政宗の従兄弟でもある。

 兼続が、三成の使者や佐竹家の使者が来たことを伺える、書状が現存していて興味深い。
 日付は慶長五年、八月六日、関ヶ原の40日前である。
関ヶ原の戦いの迫った、この時期、上杉、石田三成、佐竹義宣(よしのぶ)が、連携しているのが推測できる。

ちなみに書状宛名は、景勝の側近中の側近、清野助次郎(長範)である。
  清野ってだれ?の方は、以下にどうぞ。
http://cafe.kenshingen.fem.jp/?day=20090421

【2009.09.18 Friday 09:22】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 3 直江状




 家康の上杉家への詰問状は、兼続とも親交のあった、
京・相国寺の高僧、西笑承兌(せいしょうじょうたい)によって書かれている。
 この書状は、米沢に現存し、国宝である。

 その文面は、言葉柔らかく丁寧であり、家康に弁明謝罪するため、すみやかに上洛せよ。とある。
 
 直江状は具体的には、”上杉に謀反あり”と家康・秀忠への直訴した藤田信吉(注1)に関する返答、
 堀秀治と上杉家の年貢問題(注2)に対する弁明などに関する答えである。

(注1)藤田信吉、以下の、当ブログ参照。
   http://cafe.kenshingen.fem.jp/?day=20090914

(注2)新たに春日山城主となった堀秀治と、上杉家の間に年貢の取り分を巡って問題が生じている。
 会津の前領主の蒲生家は宇都宮に転封になるが、この時会津の年貢を持って行った。
 なので、上杉家も越後から年貢を会津に持って行く。
 しかし、越前から越後に転封になった堀氏は、年貢を持って来なかった。
困り果てた堀家は、上杉家に苦情を言ったが、相手にされない。
 ”豊臣政権下では、半分は後の領主のために残しておく”、と言うルールがあった。
    
 謝罪のための上洛要求を、兼続はすべて拒否する。 

赤い旗 「景勝は国替えになったばかりで、また上洛せよとは、国許の政治をいつ行えばいいのでしょう。
 当国は、雪国で、10月から3月までは何事も出来ません。
何者かが、景勝に謀反ありと、言いふらしているのだと思います。」


 また、上杉家が武器を集め、土木工事を進めていると、非難する文に対し、兼続はまた反論する。

赤い旗「武器を集めていると内府様はおっしゃいますが、上方の武士が趣味で焼き物を集めるのと一緒で、道を整え、橋を造るのは、統治者の務めです。
嘘つき者言うことを信じ、真実を調べないのであれば、内府様が、嘘をついています。」
  


 家康が、いたく立腹したと記録が、五奉行の長束正家、増田長盛の書状に見える。
 直江状は写ししか現存せず、後世の付けたし、脚色がされた可能性はあるが、内容は、家康を激怒させる物だったに違いない。
いや、激怒する振りをしたのかもしれない。
 家康にしてみれば、五大老の1人、上杉軍団率いる景勝を蹴落とせる千載一遇のチャンスである。

 家康は、6月16日諸大名に、上杉討伐の触れを出す。
これより少し早い、六月初旬、上杉景勝は、京に置いた家臣より、内府の上杉討伐計画を察知している。
 おとなしいけれど、言うときゃ言うぜの景勝、

 上杉家重臣たちに宛てて、上洛拒否の理由を書き、続けて、

家康との一戦を受けて立つ者は、戦の準備をせよ。
滅亡すると思うものは、いとまを与える。
 しかし、厳しい戦になるので、領地や家族に憂いのないように。


と書き送っている。

 景勝は、生か死かの戦に望み、決死の覚悟と、家臣団とその家族を思いやっている。  

 そして、両軍激突か!?の火蓋は、切って落とされたのである。 

【2009.09.16 Wednesday 21:03】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 2 神指城




上杉軍団の総帥・景勝は、慶長五年二月、関が原の戦いの7ヶ月前、
執政直江兼続に、神指城築城を命じた。
 

普請奉行直江兼続以下、小奉行に大国実頼、甘粕景継などが連なり、
動員された人足、延べ12万人の大工事であった。

 平城で、本丸は東西100間(180m)、南北170間(306m)、二の丸は東西260間(468m)、
南北は290間(522m)と記録に残る。
 若松城の、2倍の巨大城である。
 これが、7ヵ月後の関ヶ原の時、5〜6割出来上がっていたらしい。
まさに、突貫工事である。

 家康の疑惑と、家康の強引なやり方を嫌う世間の期待との間で、工事は昼夜問わず進められた。
 
 しかし、関ヶ原での決着後、米沢に転封されてしまうため、未完成の城となる。
 上杉家が会津に移ってから、若松城の支城は蒲生時代の倍以上の32(or28)を数えている。
 大国実頼を鴫山城(しぎさんじょう・別名南山城)、甘粕を白石城などに配置している。

 この城着工の1ヶ月前の慶長五年正月、上杉討伐への火種となる事件が起きている。
 
 上杉家家中で、津川城主(現・新潟県東蒲原郡)の藤田信吉(のぶよし)という人物がいる。
これが、上杉家名代として大坂の秀頼・家康のもとへ年賀挨拶のため参上している。
彼は、すでに天下を掌握したかのような家康の権勢におののく。
そして藤田は、国許へ急ぎ帰り、家康に付くよう、執政の兼続に訴えるのである。
 しかし、家康に対抗姿勢を取る兼続の理解は得られなかった。
さらに兼続は、藤田の行動を不審に思い、また藤田も謀反の疑いを掛けられたと思い、出奔してしまう。
 上杉家臣団全員が集まるはずの、謙信公法要・三月十三日に、藤田は会津にいない。

 家康は、上杉征伐に踏み切ろうとするが、毛利輝元、宇喜田秀家らに止められ、書状にて先ず詰問することとなった。

 この返書が、世に名高い直江状である。

【2009.09.14 Monday 21:03】 author : いづな薫 
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