大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
運慶展


東京国立博物館の運慶展に行って参りました。

私は、日本の美術の中でも、運慶が好きである。
ダイナミックで写実的で、筋肉の動き血管までが今にも動きそうな彫刻である。

以前、スポーツ選手のようだと運慶の彫刻のことを書いたことがある。
武士たちか、労働者か、おそらく運慶が日常見る人々の中にモデルがいたに違いない。

運慶一派が作成した、無著(むちゃく)世親(せしん)は5世紀インドに実在した高僧であり学者の兄弟である。
深淵なる思想、深い慈悲の心をたたえた眼差し。上写真の一番左が無著(むちゃく)である。
苦難も、人々に施す大きな慈悲も全てを含みながら我々を今も見ている。
無著世親が生きて1600年、運慶がこの彫刻を彫って800年もの間。
兄弟学者の偉大さを、2mもの実際の人間にしてはかなり大きな彫刻として表した。

これらの仏像は、通常奈良興福寺の国宝館に納められている。
私も、奈良で何度か拝見した。
興福寺が修復中なので、東京での開催となったが、部屋が暗い赤や青に塗り分けられ、ライトの当て方なども 工夫が凝らされている。
運慶は、仏像の目に水晶をはめ込み、裏から瞳を描いている。
白目の所は真綿をはめ込み、眼頭の血管までも再現する。
ライトの反射もあって、キッとにらんだ眼差しはまるで生きているようである。

平たく言えば、躍動感と目力の強さが運慶の魅力である。
父康慶、運慶、その子ら、弟子たちで作る慶派、その魅力を存分に楽しめる展示である。

【2017.10.30 Monday 17:09】 author : いづな薫 
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謙信、鷹山、官兵衛、加藤重徳

昨日、仕事仲間の学者にくだらない説明を強要され珍しく頭痛になった。
そんなもの一般人ならわかるよって言う内容である。

実は私は本を書く人間である。
上記の学者は共同著作になる人である。
最近書籍どの分野も落ち込みが激しいので、本は儲からない。
今回の本は大学で使う専門書なので、そう多くはないがまあシェアは失わないのが救いか。

頭痛が一晩寝ても治らないので、午前中寝ていて、布団の中で上杉鷹山の家系図を見ていた。
上杉鷹山と言えば、日本近世史屈指の名君である。
現代のバカ政治家に比べたら天と地ほどの開きがある。
鷹山は、謙信の10代後に現れた上杉家の当主である。

上杉鷹山のひいお祖父さんの父は、吉良上野介。
鷹山のお母さんは黒田官兵衛を輩出した黒田家の人である。
黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉されていた時、親切な牢番がいた。
加藤重徳である。

官兵衛は、敵方の荒木家臣でありながら官兵衛に親切にしてくれた加藤にこう言った。

「もしも、運よく私がここ(牢)から出られたら、あなたの子供を私に預けて下さい。私がわが子同然に育てます。」

信長の有岡城攻めにより、官兵衛は忠臣たちに救出された。
約束通り、牢番の子は引き取られ、官兵衛は養子として実子の長政同様大切に育てた。
黒田の苗字を与え、黒田一成となった。
三奈木黒田家の初代当主で、黒田家重臣筆頭である。
官兵衛は、牢番加藤重徳の恩に報いたのである。

上杉鷹山には、黒田官兵衛とこの黒田一成の血が流れている。
そして、上杉謙信の義を誰よりも濃く受け継いだ人物である。

彼らの清々しい生涯に想いをはせていたら、頭痛がいつの間にか消えていた。


【2017.09.16 Saturday 16:22】 author : いづな薫 
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「松島瑞巌寺と伊達政宗展」


「松島瑞巌寺と伊達政宗展」を見て来た。

政宗、誕生して450年。
宮城県の瑞巌寺(ずいがんじ)国宝本堂の平成大修理完成と伊達政宗生誕450年記念の展示会である。
場所は、東京の三井記念美術館。

東日本大震災復興を祈念して五大堂の33年に一度しか公開されない秘仏五大明王像(重要文化財)も特別展示してあった。

政宗より350年くらい前の鎌倉時代に、北条政子が夫頼朝の菩提を弔うため、瑞巌寺に水晶五輪塔型容器に入った仏舎利を奉納した。
その仏舎利は、頼朝が厚く信仰していたと言う。
当時、瑞巌寺の高僧は、当代一の学僧と考えられていたのである。
瑞巌寺は、平安時代に慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺が、鎌倉時代に臨済宗寺院円福寺となり、
鎌倉・建長寺の開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を迎えて、東北の臨済宗建長寺派の拠点となった。

政宗の墓所から発掘された太刀の拵えなど見ごたえ十分。
発掘された時は、ボロボロで傷みが激しかったが修繕されて、今は輝きを取り戻している。
私も発掘時の写真を書籍で見たことがあるが、刀身はかなり朽ちていて展示にはなかった。

あと、政宗の正室愛姫(めごひめ)が使用した大きな茶の湯の茶碗も面白い。
今の茶道に使う茶碗の倍はあろうかと思う、大きな赤楽茶碗である。
政宗は幼少の頃から茶の湯をたしなみ、紀貫之や藤原定家の書を収集したり、文化人としての深い素養が伺える。
政宗の作成した茶杓が展示にあった。
新しい茶杓を買おうとしている私だが、作ると言う手があったか。笑
茶聖千利休も削って作っている。
愛用する道具をゆったりと時間をかけて制作する。
買うのが当たり前でない時代、戦国時代と言う大変な時代にあっても、その余裕があるのである。

【2016.10.28 Friday 11:49】 author : いづな薫 
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見てしまった「信長燃ゆ」
燃えて死んだから、信長燃ゆ?
最近、テレビをほとんど見ていなかったが正月だからか、見た。

相変わらず、切れやすい信長。笑
脳に異常があるんじゃないのか。
ドラマでも、家臣が「苦労した」と言ったら「苦労とはなんだっ!!」と突然激高し殴る蹴る。
敵だと認めたら片っ端から首をはね、僧侶を塔頭ごと焼き殺す。
マザコンから来る残虐性、賢い人にだけ優しいと言うのが信長の特徴である。
ドラマで、光秀は晩年の切れやすい信長にいじめまくられたが、そうなるまでは非常に重用された寵臣であった。
浪人上がりだが教養もあり、実直な光秀は、税の管理に抜群の才能を見せている。
信長ががなり立てて苦労して徴収する税の2倍くらいを、にこやかに集めてくるようなタイプである。

光秀が、真実ボコボコにされていたかどうかは不明だか、信長の方は光秀を追い落とそうとは思っていなかっただろう。
むしろまだ、信頼していたはずである。

潰すつもりなら盛り立てておいて、油断させておいてさっくり殺るのが常套手段である。

信長が、勧修寺晴子(かじゅうじはるこ)に述懐していたが、信長は父母に愛されない子供だった。これは事実。
ちなみに勧修寺晴子、後陽成天皇の実母である。

信長の家庭を見てみる。
父・信秀は、戦に行って留守、母の土田御前は信長を疎んじ弟の信行を偏愛する。
信長自身、赤ん坊の時からすでに那古野城主で非常に危険な中に置かれていた。
子供の時から、自分の身は自分で守らねばならないような過酷な環境である。

何かのアンケートで、理想の上司1位は信長とあった。目を疑った。
確かに、優秀な面もあるが、同じ空気吸いたくない。笑

信長は教養はあったけれども、本を読んだりいわゆる大名の子が学ぶような帝王学をやったわけでない。
方式を学んで答えを出すのではなく、TPOに合わせて経験から最適な答えを瞬時に出すタイプである。
親に愛されない→生命を脅かすような危険がある→対処する
そういう経験がたくさんあり、実地で生きるすべを学んだ人である。そうしなければ、生きていけない厳しさである。

ドラマで、夫&子持ちの勧修寺晴子と不倫?していた信長。
彼の、恋愛遍歴を見てみると、こんなタイプばっかりである。
一級資料である信長公記に最初に出て来る、生駒御前・吉乃(きつの)は、後家さんで2人子持ち。
信長より6歳くらい年上だったようだ。
信長は、清州城から危険を冒して生駒氏のいる木曽川郡村に通い、結婚している。
嫡男信忠、信雄、家康の嫡男信康の妻となった徳姫が生まれている。
生駒氏は、早くに亡くなり小牧城の床下に葬られたと言う。
後で、岐阜城に移った信長が欄干から小牧城の方を見て泣いていたの小姓が目撃している。あらら

その後、迎えたおなべの方もやはり子持ち後家。
子供のために一生懸命な女性にひかれちゃうのかも。

ドラマでは、最晩年の信長を描いていた。
最晩年と言っても40代。
当時は人生50年なので、40代でも晩年である。
信長若い頃は、忍耐力もあったが晩年になるとすぐ切れるオヤジと化す。年のせいだけでなく、過酷な環境から来る精神の疾患かもしれない。
信長には、岐阜岩村城の女城主だった叔母さんがいた。
この叔母さんが、武田家臣と結婚してしまったら夫婦ごと逆さはり付け。
妹お市が嫁いだ、浅井長政のところの甥っ子は、串刺し。
義理の弟・浅井長政とその父・久政は、しゃれこうべにして金箔塗。
黒田官兵衛に与えた、圧切長谷部と言う刀がある。
無礼を働いた茶坊主を、信長が棚ごと押し切ったと言う刀である。

地球が丸いと理解した初めての日本人だったとか、身分にとらわれず人材重用し独創性がある。
でも、信長のそばにいては気を休める暇はないだろう。
戦があるのに、普段でも切れまくっては、仕える家臣は精神疾患になりそう。
うちのサイトでは、私のみならず御常連様にも不人気な信長のお話でした。

【2016.01.04 Monday 21:26】 author : いづな薫 
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美術品鑑賞
先日、東京国立博物館にて趣味の美術鑑賞して参りました。


武野紹鴎(たけのじょうおう)作、竹の茶杓。
武野紹鴎(1504−1555)は、千利休の茶の師で、堺の豪商である。
店は、皮革を商っていたとも、武具だったとも伝わる。
作品は、象牙の茶杓のようなすらりとしたカーブが美しい。
筒の文字は、「一閑斎 不審」。利休の孫、千宗旦によって彫られている。


徳川家康の四天王、榊原康政(1546−1606)着用の陣羽織。
黒と白の鳥毛が埋め込まれた陣羽織である。
鳥毛の陣羽織と言えば、織田信長の蝶の文様の品が有名。
戦場で人目を引くことを意識した奇抜なデザインである。



今回、興味を持った絵。
果蔬図(かそず) 田村宗立(たむらそうりゅう 1849−1918)
江戸時代末期に描かれた果物と野菜である。
果蔬(かそ)とは、果物と野菜のことである。

スイカを始め、今見るような果物が当時あることが分かる。
当時のスイカは、緑一色か黒っぽいものである。
今でも、でんすけスイカなど黒くて大変美味なスイカもあるが。
現在のような、シマが入ったのは昭和に入ってからである。

黒や緑の単色のスイカはかなり昔から食べられていたものと思われる。
スイカは、西瓜と書く。
西方から伝わった瓜を意味し、エジプトでは6000年前の壁画にスイカが登場する。
中国では、夏瓜とか水瓜と書く。
日本へは西から来たので、西瓜である。

京都高山寺に伝わる、『鳥獣戯画』には西瓜らしき物が登場する。
中世、近世にいたるまで白い瓜は頻繁に食べられたが、江戸時代には赤い果肉が
不気味に感じられたので、人気がなかった。

明治の終わりの頃、米国経由で西洋スイカの種が持ち込まれ、本格的に栽培が始まっている。


胡瓜(きゅうり)を買う時、私は感動を覚える。
何とも、エキゾチックな名前である。
胡の国の瓜。
胡(こ)とは、古代中国で北方西方の異民族をさす言葉である。唐の時代ではペルシア人をさした。
商人たちは、シルクロードの通過点にあるさまざまな国、さまざまな町の産物、絹や、宝物、果物、象牙製品などの珍品食品に至るまで、らくだの背に積み、砂漠を越えて行った。
胡瓜(きゅうり)、胡麻(ごま)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡弓(こきゅう)、胡楽(こがく)、私たちにもおなじみの製品がある。
「胡」の付くこれらの品は、西方から中国にもたらされ、シルクロードの終着点である日本に到達したことを意味している。
味わって食べたい、胡瓜である。

【2015.10.01 Thursday 20:40】 author : いづな薫 
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武田信玄直筆の書状


天文22年(1553)、武田信玄が家臣の小山田昌行に宛てた書状。
直筆の軍事機密が書かれている。

「世間では、出陣するとの噂が流れているが、砥石城普請のためと触れ回れ。
他国攻めだとは、絶対にひろめてはならない。」

信玄の厳命の書状、その筆跡は細く、緊張が伺われる。


クレオパトラ展が、東京国立博物館でしたので、信玄の書状もその時拝見しました。

【2015.08.03 Monday 20:31】 author : いづな薫 
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大関ヶ原展


江戸東京博物館で開催中の、『大関ヶ原展』に行って来た。
天下三名槍のひとつ、「蜻蛉切・とんぼぎり」を初めて見ることができた。
大笹穂槍 銘 藤原正真作 (号 蜻蛉切)
徳川家重臣、本多忠勝の愛用の槍である。

長43.7cm 茎55.6cm 最大幅3.7cm 重さ498g 
個人蔵 佐野美術館寄託
刀身に、梵字と不動明王を表す三鈷剣が彫られている。
名前の由来は、戦場で飛んで来た蜻蛉を刃が触れたら二つに切れたことから。

わがお屋形さまの太刀発見。
「銘一 号姫鶴一文字」鎌倉時代 重要文化財
関ヶ原展なので、関ヶ原の戦いおよび家康ゆかりの武将関連の展示である。
この太刀は、上杉景勝コーナーにあった。
説明する必要もないが、養父謙信から景勝が譲り受けた一振り。
東京、米沢で何度も拝見しているのですが、相変わらずの美しい刃文にうっとり。 

「徳川家康朱印状」 慶長5年(1600)7月7日 東京徳川記念財団 もあった。
これは、家康の定めた上杉攻めの軍法書である。

大谷吉継の短刀、「銘 吉光 名物 包丁藤四郎」徳川美術館蔵や、「島左近の兜・五十二間筋兜」
久能山東照宮蔵もあった。 
島左近、石田三成おのれの石高4万石の半分2万石を与えるという破格の条件で召抱えられたと言う説がある。
「治部少(じぶのしょう・三成)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」、と言われたほどの逸材であった。


上の画像をクリックすると、だいぶ前ですが島左近について書いた記事があります。

島左近は、生涯に主君を7人変えている。
畠山高政→筒井順政→筒井順慶→筒井定次→豊臣秀長→豊臣秀保→石田三成である。
禄高の説は幾つかあり、左近が2万石もらった時、三成は北近江に19万4000で佐和山城主だったとか、
「多聞院日記」には近江に30万石と書かれている。
関ヶ原の戦いで、左近は、黒田長政の鉄砲隊に狙撃され重傷を負い、兵士に担がれ陣所へ撤収したと言う。
手当てを受けたが、出血がひどくこの銃撃戦により落命したと言う説がある。「関原軍記大成」「落穂集」
「信長公記」の著者太田牛一は、その著書「関ヶ原軍記」の中で島左近は行方不明と記し、「古今武家盛衰記」は
西国へ落ちのびたとしている。

島左近の首は徳川方に取られたのだと言う説のもとに、島左近の兜は徳川の手にある。
真偽は、415年経った今も不明である。
敗戦の将は、遺品も少ないため貴重な品々である。 

大関ヶ原展は順次、京都と福岡へ。
京都文化博物館:2015年6月2日(火)〜7月26日(日)
福岡市博物館:2015年8月7日(金)〜10月4日(日)

【2015.04.27 Monday 16:21】 author : いづな薫 
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信玄公祭り

【2015.02.26 Thursday 16:10】 author : いづな薫 
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木曜時代劇「かぶき者慶次」
 前田慶次郎、ドラマになるんですね!
で、慶次役は誰?
藤竜也さん。
藤原達也さんでなくて?
えっ誰?とググってみたら、結構シニアな方。

原作は、火坂雅志さんと言うことは、「上杉かぶき衆」が原作ですね。
晩年の慶次が、むかし捨てたはずの娘に追い掛け回されると言うお話。
自由気ままに生きていた、”ちょい悪オヤジ”「前田慶次郎」が、
ある時、加賀に残して来た実娘の出現で、気まま暮らしに狂いが生じる。
 一流の文化人で、武芸の達人の慶次郎が、捨てて来たはずの娘に振り回され、父性愛を見せます。
白髪を派手な茶髪に染めやせ我慢して”傾く”シーンは、なかなか切なかったです。

脚本は、小松江里子さん、天地人の脚本担当ですね。

放送予定
2015年4月9日〜6月18日(連続11回)
NHK総合テレビ 毎週木曜 20:00〜20:43

出演
藤竜也(前田慶次)、中村蒼(前田新九郎)、西内まりや(前田佐乃)、工藤阿須可(安田勝之進)、江波杏子(前田美津)、 青山倫子(前田華)、 壇蜜(雫)、 笛木優子(雪夜)、 田畑智子(竹)、 前田美波里(和泉局)、角田信朗(北川次右衛門)、伊武雅刀(天徳和尚)、火野正平(又吉)


【2015.02.24 Tuesday 13:50】 author : いづな薫 
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勅額門

上野寛永寺にある6代将軍徳川家宣の霊廟につながる勅額門(ちょくがくもん)を見て来た。


こちらは、同寛永寺にある5代将軍徳川綱吉の勅額門(ちょくがくもん)。
将軍は、衣冠束帯であぐらをかいた状態、御台所(将軍正室)は十二一重で正座で埋葬された。
13代御台所の篤姫も、綱吉霊廟の奥にお墓がある。

以前、上野の工事現場から大量の水銀が流れ出して騒ぎになったことがあったと言う。
調べたら、これが将軍のお墓から流れ出した”朱”に含有される水銀らしい。
将軍が死ぬと、遺体の防腐処理に大量に朱を使うのである。
同じく、将軍の墓所である芝増上寺の徳川家墓地からも、発掘調査の時におびただしい量の朱が見つかっている。
古代の墳墓からも、朱が発見され赤い骨も発掘されている。
卑弥呼が、魏王(曹操の孫かひ孫)から真朱と鉛丹各50斤もらったと言う記録が魏志倭人伝239年の項目にある。
朱は、防腐処理と同時に魔除けであり、魔物や災難から人々を守ると考えられていたのである。

【2015.02.04 Wednesday 19:53】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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