大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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【2022.11.15 Tuesday 16:30】 author : いづな薫 
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麒麟がくる 最終回
「麒麟がくる」の本能寺の変、私は、今までで一番良かったと思っている。
今まで大河に描かれた来た、光秀と信長と言えば、”怨恨から発生した本能寺”ばかりだった。
こう言う展開であれば、スマホでメールチェックしながらテキトーに見ようと思っていた。

所が、盛り上がりましたね。本能寺。

信長と光秀の関係が、DV夫婦か、親に認められない子(信長)のようで、お茶の間も沸いたのではないだろうか。

「平和な世になったら、ふたりで茶でも飲んで暮らさぬか。」

ふたりで暮らすのか。ああそう。光秀、シングルアゲインだし。

DV夫が暴力をふるい、やっぱり君がいないと駄目と優しくなるの繰り返し。信長と光秀はこれよ。
事実、光秀は本能寺の直前までは、信長の大変なお気に入りだった。
何せ、信長がが苦労しがなり立てた挙句やっと得る税収を、光秀はにっこり笑ってもらってくる。
税を払う方も、一筋縄ではいかない連中なのだ。
そう言う人たちの心の掴み方も光秀は、ちゃんと心得ている。

DV信長が、家康の饗応が気に食わないと、光秀をバンバン叩くシーンは正直目も当てられなかった。
これは、従来通りのシーン。
この饗応で、信長の怒りを買ったことは、江戸時代初期に書かれた「川角太閤記」にある。
夏で魚が匂い→信長が怒り光秀を解任→メンツを失う→謀反。

まあ、歴史学上の話で言えば四国の長曾我部攻めをめぐる、光秀と信長の意見対立が理由との説が強い。
つまり政治的対立。

今回家康もとても良かった。真田丸のでかい葵のうちわ持って逃げる家康も面白かったが、今回も適役。
妻と息子を、実質信長に殺されたのにパーティには出なきゃならない。ビビりながらパーティに出る様子が上手い。

明智光秀は、和漢、医学の高い教養がある。
教養を身につけられる地位、もしくは教養文化が身の回りに普通にある環境に生まれたのは間違いないと思う。
それなりの家に生まれたとして、生年月日がはっきりしないのは、やはり逆賊の汚名を着せられて消されたか。

光秀の肖像画と伝わる絵が、大阪岸和田市の本徳寺に残っている。
100%光秀であるとの確証はない。
しかし、これを光秀とすると、現代の優しい顔の雛人形のような顔立ちである。
これが戦国武将かと思うほど、特に目元が優雅で優しい。

玉をつづらに入れて持ち運びたいと言う、細川忠興。(鬼滅のねずこか?)玉と忠興の若い夫婦が可愛い。
幸せそうな彼らを見る、父親の光秀が優しい。

信長は、赤ん坊の時から戦の最前線の城に置かれ、実母からは嫌われ、苛烈な性格もさもありなんの生い立ちである。
その信長が、妻帰蝶と光秀に支えられ、どう生きればいいのかふたりに確かめながら行動している。
帰蝶が、父道三にそっくりなのがまた良い。
道三が女性化したような帰蝶。

信長使えないなら「毒を盛っちまえ!」。

一方信長は光秀にぐちる。「乱世を変え、大きな世を作れと光秀に言われて頑張ったのにぃ!」

承認欲求の強い奴だな。でも、最後まで信長は彼なりの方法で光秀を慕っていたのだ。
しかしすれ違ってしまった。

秀吉が、光秀が信長を討つかもしれないと密書をもらい、「明智さまが天下を回してくださる…。」とつぶやく。この秀吉も良い。エライことになったと立ち上がる官兵衛。違うのか?
今までは、嘆く秀吉+好機ですぞの黒田官兵衛コンビ、これも見飽きたので今回は面白い。

本能寺の変の乱闘シーンは、コロナ禍で良く撮ったと思う。
光秀が山崎の合戦で敗れるシーンは無し。
ポスターではあったが。
光秀が生きているとの噂があり、医師助手の駒がその後姿を見ている。

感想を書くのは初めてだが、私は「麒麟がくる」を全回見ていた。
印象的な本能寺だと聞かされていたが、まさにその通り。
愛憎ぐちゃぐちゃの信長&光秀がいなくなって、切ない想いが未だに残る。

【2021.02.08 Monday 14:05】 author : いづな薫 
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式神


スマホに付けている、式神の腕がボキッと折れてしもうた。
皆さま、式神(しきがみ)ご存知ですよね。
陰陽師・安倍晴明の子分。

安倍晴明の屋敷の門は自動ドアで、清明が帰って来ると自動的に扉が開きます。
式神が開閉しているんですけどね。
京都には晴明神社が今もありますが、ここは1000年前に安倍晴明の邸宅があった所です。
戦国時代には、千利休の屋敷になっていました。
今でも、清明神社の門は自動開閉式で、門限時刻になると自動で閉まります。

式神とは陰陽道などで使われる鬼神・使役神のことです。
一般人には見えません。
清明は、この式神を使い、邸宅のおそうじ、雑用、儀式などいろんなことを手伝わせていました。
普段は、清明の邸宅近くの一条戻り橋のたもとに式神を隠していました。
清明夫人が、気味悪がったので式神を橋の下に隠し、必要な時来てもらったそうです。

式神のこわーいお仕事。
それは呪術によって呪い殺したい相手を殺すことです。
陰陽師は、式神を対象とする相手に憑依させ、呪い殺したと言われています。
安倍晴明は、葉っぱに式神を憑依させ、蛙を呪い殺したとも。

そして、敵を呪い殺すには、呪いをかけた物を地中に埋め、その場所に敵をおびき出します。
しかし、呪いをかけた陰陽師よりも敵が強い陰陽師であった時は、呪いをかけた陰陽師が呪い殺されてしまうというもの。

さて、いづなの式神修理の続き。
アロンアルファで腕を貼り付けようとしたら、間違っていづな自身の指に貼り付けてしまう。えらい事じゃー。
急いで剥がし、もう一度貼り付けたら、今度は式神の腹から腕が生えるはめに。おいおい。
3度目、ようやく所定の位置に収まり、修理完了。





背中に清明の家紋、五芒星が入っています。ペンタゴン米国防省のマークとおんなじ。
清明神社で買った式神ストラップです。コロナ以後京都に行っていません。また行きたいな。

【2020.09.08 Tuesday 20:45】 author : いづな薫 
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熊野神社


東京葛飾区に、安倍晴明ゆかりの神社がある。

安倍晴明に関心があるので、お参りしてきた。

いわずもがな、安倍晴明は今から千年くらい前に生きた陰陽師です。

陰陽師って何する人かと言うと、昔は天体や気象の変化を読み取り世の中の異変や、これからの計画などを立てていたわけ。

個人的なものでなく、政府をはじめとする公的機関がそれをやっていた。

陰陽寮なるものが明治になるまで存在し、省庁でありそこで働く陰陽師は官僚のような気象予報士のような感じである。


陰陽師は、いつも星を観察していて異変がないか見ていた。これは1つは暦を作るためである。

暦は、いつ田植えするとか、収穫はいつとか農業など人間の生活と密接にかかわっている。

宮中の儀式は昔は政治の重要行事だが、これも暦により決められた。


天体に現れた異変をいち早くキャッチして、天災を予測し、また起きてしまった天災やその他災いごとを清めるのもまた陰陽師の仕事である。

かなり忙しいね、陰陽師。


で、なぜ東京葛飾区に安倍晴明のゆかりの神社があるか。

千年前、安倍晴明が水害に悩まされたこの地にたちより神社を勧請したという。

全国に熊野神社と言う名前はたくさんあるが、みな和歌山県の熊野神社から分けてもらって出来たものと考えられる。

熊野信仰が、全国に伝播していったのがわかる。

この葛飾区の熊野神社のあたりは、千年前度々洪水に見舞われたという。

確かに、東京のウォーターフロントであるこの辺りは巨大な川がいくつかある。

熊野神社の敷地は五芒星の形をしていて、邪霊や水害をはねつけると言う。

昔は五芒星の形に土が盛られ、水害の多いこの土地の人びとの避難場所になっていた。



明治12年に建てられた本殿。



御神馬(ごしんめ)?いえ、境内にいたポニーです。


【2019.03.05 Tuesday 10:45】 author : いづな薫 
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京都醍醐寺展


東京六本木のサントリー美術館で、「京都醍醐寺 真言密教の宇宙」展を見て参りました。

醍醐寺は、京都の東南部山科盆地にあります。
貞観16年(874年)に理源大師聖宝(しょうぼう)によって開山されました。
聖宝と言うお坊さんは、空海の弟の弟子にあたります。
醍醐寺は、真言宗醍醐派総本山になります。
真言密教のうちでも、加持祈祷や修法など実践的な修行を重んじるお寺として有名です。

足利尊氏、足利義満、豊臣秀吉など、時代の時の権力者から帰依を受けて参りました。
その文書は7万点近くあります。

秀吉が最晩年、醍醐で花見を開催したことも有名です。
醍醐寺は、下醍醐、中醍醐、上醍醐と山に向かって下から延びる広大な敷地があります。
晩年、体調も芳しくなかった秀吉ですが、伏見から来て、上醍醐まで行って花見をしています。
秀頼、前田利家、小早川秀家などの歌が書かれた短冊の展示もありました。

京都の醍醐寺へは何度も出かけていますが、寺宝を見る機会は多くないので、今回の展示は良かったです。

【2018.10.30 Tuesday 15:34】 author : いづな薫 
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運慶展


東京国立博物館の運慶展に行って参りました。

私は、日本の美術の中でも、運慶が好きである。
ダイナミックで写実的で、筋肉の動き血管までが今にも動きそうな彫刻である。

以前、スポーツ選手のようだと運慶の彫刻のことを書いたことがある。
武士たちか、労働者か、おそらく運慶が日常見る人々の中にモデルがいたに違いない。

運慶一派が作成した、無著(むちゃく)世親(せしん)は5世紀インドに実在した高僧であり学者の兄弟である。
深淵なる思想、深い慈悲の心をたたえた眼差し。上写真の一番左が無著(むちゃく)である。
苦難も、人々に施す大きな慈悲も全てを含みながら我々を今も見ている。
無著世親が生きて1600年、運慶がこの彫刻を彫って800年もの間。
兄弟学者の偉大さを、2mもの実際の人間にしてはかなり大きな彫刻として表した。

これらの仏像は、通常奈良興福寺の国宝館に納められている。
私も、奈良で何度か拝見した。
興福寺が修復中なので、東京での開催となったが、部屋が暗い赤や青に塗り分けられ、ライトの当て方なども 工夫が凝らされている。
運慶は、仏像の目に水晶をはめ込み、裏から瞳を描いている。
白目の所は真綿をはめ込み、眼頭の血管までも再現する。
ライトの反射もあって、キッとにらんだ眼差しはまるで生きているようである。

平たく言えば、躍動感と目力の強さが運慶の魅力である。
父康慶、運慶、その子ら、弟子たちで作る慶派、その魅力を存分に楽しめる展示である。

【2017.10.30 Monday 17:09】 author : いづな薫 
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謙信、鷹山、官兵衛、加藤重徳

昨日、仕事仲間の学者にくだらない説明を強要され珍しく頭痛になった。
そんなもの一般人ならわかるよって言う内容である。

実は私は本を書く人間である。
上記の学者は共同著作になる人である。
最近書籍どの分野も落ち込みが激しいので、本は儲からない。
今回の本は大学で使う専門書なので、そう多くはないがまあシェアは失わないのが救いか。

頭痛が一晩寝ても治らないので、午前中寝ていて、布団の中で上杉鷹山の家系図を見ていた。
上杉鷹山と言えば、日本近世史屈指の名君である。
現代のバカ政治家に比べたら天と地ほどの開きがある。
鷹山は、謙信の10代後に現れた上杉家の当主である。

上杉鷹山のひいお祖父さんの父は、吉良上野介。
鷹山のお母さんは黒田官兵衛を輩出した黒田家の人である。
黒田官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉されていた時、親切な牢番がいた。
加藤重徳である。

官兵衛は、敵方の荒木家臣でありながら官兵衛に親切にしてくれた加藤にこう言った。

「もしも、運よく私がここ(牢)から出られたら、あなたの子供を私に預けて下さい。私がわが子同然に育てます。」

信長の有岡城攻めにより、官兵衛は忠臣たちに救出された。
約束通り、牢番の子は引き取られ、官兵衛は養子として実子の長政同様大切に育てた。
黒田の苗字を与え、黒田一成となった。
三奈木黒田家の初代当主で、黒田家重臣筆頭である。
官兵衛は、牢番加藤重徳の恩に報いたのである。

上杉鷹山には、黒田官兵衛とこの黒田一成の血が流れている。
そして、上杉謙信の義を誰よりも濃く受け継いだ人物である。

彼らの清々しい生涯に想いをはせていたら、頭痛がいつの間にか消えていた。


【2017.09.16 Saturday 16:22】 author : いづな薫 
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「松島瑞巌寺と伊達政宗展」


「松島瑞巌寺と伊達政宗展」を見て来た。

政宗、誕生して450年。
宮城県の瑞巌寺(ずいがんじ)国宝本堂の平成大修理完成と伊達政宗生誕450年記念の展示会である。
場所は、東京の三井記念美術館。

東日本大震災復興を祈念して五大堂の33年に一度しか公開されない秘仏五大明王像(重要文化財)も特別展示してあった。

政宗より350年くらい前の鎌倉時代に、北条政子が夫頼朝の菩提を弔うため、瑞巌寺に水晶五輪塔型容器に入った仏舎利を奉納した。
その仏舎利は、頼朝が厚く信仰していたと言う。
当時、瑞巌寺の高僧は、当代一の学僧と考えられていたのである。
瑞巌寺は、平安時代に慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺が、鎌倉時代に臨済宗寺院円福寺となり、
鎌倉・建長寺の開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を迎えて、東北の臨済宗建長寺派の拠点となった。

政宗の墓所から発掘された太刀の拵えなど見ごたえ十分。
発掘された時は、ボロボロで傷みが激しかったが修繕されて、今は輝きを取り戻している。
私も発掘時の写真を書籍で見たことがあるが、刀身はかなり朽ちていて展示にはなかった。

あと、政宗の正室愛姫(めごひめ)が使用した大きな茶の湯の茶碗も面白い。
今の茶道に使う茶碗の倍はあろうかと思う、大きな赤楽茶碗である。
政宗は幼少の頃から茶の湯をたしなみ、紀貫之や藤原定家の書を収集したり、文化人としての深い素養が伺える。
政宗の作成した茶杓が展示にあった。
新しい茶杓を買おうとしている私だが、作ると言う手があったか。笑
茶聖千利休も削って作っている。
愛用する道具をゆったりと時間をかけて制作する。
買うのが当たり前でない時代、戦国時代と言う大変な時代にあっても、その余裕があるのである。

【2016.10.28 Friday 11:49】 author : いづな薫 
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見てしまった「信長燃ゆ」
燃えて死んだから、信長燃ゆ?
最近、テレビをほとんど見ていなかったが正月だからか、見た。

相変わらず、切れやすい信長。笑
脳に異常があるんじゃないのか。
ドラマでも、家臣が「苦労した」と言ったら「苦労とはなんだっ!!」と突然激高し殴る蹴る。
敵だと認めたら片っ端から首をはね、僧侶を塔頭ごと焼き殺す。
マザコンから来る残虐性、賢い人にだけ優しいと言うのが信長の特徴である。
ドラマで、光秀は晩年の切れやすい信長にいじめまくられたが、そうなるまでは非常に重用された寵臣であった。
浪人上がりだが教養もあり、実直な光秀は、税の管理に抜群の才能を見せている。
信長ががなり立てて苦労して徴収する税の2倍くらいを、にこやかに集めてくるようなタイプである。

光秀が、真実ボコボコにされていたかどうかは不明だか、信長の方は光秀を追い落とそうとは思っていなかっただろう。
むしろまだ、信頼していたはずである。

潰すつもりなら盛り立てておいて、油断させておいてさっくり殺るのが常套手段である。

信長が、勧修寺晴子(かじゅうじはるこ)に述懐していたが、信長は父母に愛されない子供だった。これは事実。
ちなみに勧修寺晴子、後陽成天皇の実母である。

信長の家庭を見てみる。
父・信秀は、戦に行って留守、母の土田御前は信長を疎んじ弟の信行を偏愛する。
信長自身、赤ん坊の時からすでに那古野城主で非常に危険な中に置かれていた。
子供の時から、自分の身は自分で守らねばならないような過酷な環境である。

何かのアンケートで、理想の上司1位は信長とあった。目を疑った。
確かに、優秀な面もあるが、同じ空気吸いたくない。笑

信長は教養はあったけれども、本を読んだりいわゆる大名の子が学ぶような帝王学をやったわけでない。
方式を学んで答えを出すのではなく、TPOに合わせて経験から最適な答えを瞬時に出すタイプである。
親に愛されない→生命を脅かすような危険がある→対処する
そういう経験がたくさんあり、実地で生きるすべを学んだ人である。そうしなければ、生きていけない厳しさである。

ドラマで、夫&子持ちの勧修寺晴子と不倫?していた信長。
彼の、恋愛遍歴を見てみると、こんなタイプばっかりである。
一級資料である信長公記に最初に出て来る、生駒御前・吉乃(きつの)は、後家さんで2人子持ち。
信長より6歳くらい年上だったようだ。
信長は、清州城から危険を冒して生駒氏のいる木曽川郡村に通い、結婚している。
嫡男信忠、信雄、家康の嫡男信康の妻となった徳姫が生まれている。
生駒氏は、早くに亡くなり小牧城の床下に葬られたと言う。
後で、岐阜城に移った信長が欄干から小牧城の方を見て泣いていたの小姓が目撃している。あらら

その後、迎えたおなべの方もやはり子持ち後家。
子供のために一生懸命な女性にひかれちゃうのかも。

ドラマでは、最晩年の信長を描いていた。
最晩年と言っても40代。
当時は人生50年なので、40代でも晩年である。
信長若い頃は、忍耐力もあったが晩年になるとすぐ切れるオヤジと化す。年のせいだけでなく、過酷な環境から来る精神の疾患かもしれない。
信長には、岐阜岩村城の女城主だった叔母さんがいた。
この叔母さんが、武田家臣と結婚してしまったら夫婦ごと逆さはり付け。
妹お市が嫁いだ、浅井長政のところの甥っ子は、串刺し。
義理の弟・浅井長政とその父・久政は、しゃれこうべにして金箔塗。
黒田官兵衛に与えた、圧切長谷部と言う刀がある。
無礼を働いた茶坊主を、信長が棚ごと押し切ったと言う刀である。

地球が丸いと理解した初めての日本人だったとか、身分にとらわれず人材重用し独創性がある。
でも、信長のそばにいては気を休める暇はないだろう。
戦があるのに、普段でも切れまくっては、仕える家臣は精神疾患になりそう。
うちのサイトでは、私のみならず御常連様にも不人気な信長のお話でした。

【2016.01.04 Monday 21:26】 author : いづな薫 
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美術品鑑賞
先日、東京国立博物館にて趣味の美術鑑賞して参りました。


武野紹鴎(たけのじょうおう)作、竹の茶杓。
武野紹鴎(1504−1555)は、千利休の茶の師で、堺の豪商である。
店は、皮革を商っていたとも、武具だったとも伝わる。
作品は、象牙の茶杓のようなすらりとしたカーブが美しい。
筒の文字は、「一閑斎 不審」。利休の孫、千宗旦によって彫られている。


徳川家康の四天王、榊原康政(1546−1606)着用の陣羽織。
黒と白の鳥毛が埋め込まれた陣羽織である。
鳥毛の陣羽織と言えば、織田信長の蝶の文様の品が有名。
戦場で人目を引くことを意識した奇抜なデザインである。



今回、興味を持った絵。
果蔬図(かそず) 田村宗立(たむらそうりゅう 1849−1918)
江戸時代末期に描かれた果物と野菜である。
果蔬(かそ)とは、果物と野菜のことである。

スイカを始め、今見るような果物が当時あることが分かる。
当時のスイカは、緑一色か黒っぽいものである。
今でも、でんすけスイカなど黒くて大変美味なスイカもあるが。
現在のような、シマが入ったのは昭和に入ってからである。

黒や緑の単色のスイカはかなり昔から食べられていたものと思われる。
スイカは、西瓜と書く。
西方から伝わった瓜を意味し、エジプトでは6000年前の壁画にスイカが登場する。
中国では、夏瓜とか水瓜と書く。
日本へは西から来たので、西瓜である。

京都高山寺に伝わる、『鳥獣戯画』には西瓜らしき物が登場する。
中世、近世にいたるまで白い瓜は頻繁に食べられたが、江戸時代には赤い果肉が
不気味に感じられたので、人気がなかった。

明治の終わりの頃、米国経由で西洋スイカの種が持ち込まれ、本格的に栽培が始まっている。


胡瓜(きゅうり)を買う時、私は感動を覚える。
何とも、エキゾチックな名前である。
胡の国の瓜。
胡(こ)とは、古代中国で北方西方の異民族をさす言葉である。唐の時代ではペルシア人をさした。
商人たちは、シルクロードの通過点にあるさまざまな国、さまざまな町の産物、絹や、宝物、果物、象牙製品などの珍品食品に至るまで、らくだの背に積み、砂漠を越えて行った。
胡瓜(きゅうり)、胡麻(ごま)、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)、胡弓(こきゅう)、胡楽(こがく)、私たちにもおなじみの製品がある。
「胡」の付くこれらの品は、西方から中国にもたらされ、シルクロードの終着点である日本に到達したことを意味している。
味わって食べたい、胡瓜である。

【2015.10.01 Thursday 20:40】 author : いづな薫 
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