大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 前田慶次郎 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
かぶき者慶次「新九郎の秘密」
春日山城の柱と、聞いて、思わず身を乗り出してしまった。いや、ドラマだが。笑

前田慶次、加賀に置いて来た妻を思い出して、 ((((;゜Д゜)))ガクブル。笑

ちょっと前田家の人々について書く。
前田慶次の養父は、前田利久と言う。
慶次の実父は、織田信長家臣の滝川一益の一族と言われている。
慶次の母とも姉とも言われる女性(諸説あり)が、前田利久と婚姻し、更には慶次が前田家の姫と結婚した。
これが、前田安勝の娘。

慶次の養父・前田利久には、利玄、安勝、利家などの兄弟がいる。
前田利久の妻の連れ子?(弟?)が慶次で、その妻が安勝の娘。
つまり、慶次と妻は、系譜上”いとこ同士”の結婚である。
信長の命令で、長男に替わって、4男が前田家当主になった。
これが、前田利家である。

前田慶次、ドラマでは100石くらいの設定だそうだが、
これも、良くわかっていない。
関ヶ原以前、上杉家に仕官した時は、1000石での採用であった。

ドラマは、栄華を極めた謙信公の家臣派閥と、直江兼続の与板派閥が争っているお話。
う〜ん、まあ6000人もいるからな。
余談だが、この6000人の家臣団を従業員として考え、当時の人口を1600万くらいとして、現在の人口1億3千万に対しどのくらいの規模か考えてみた。
商業で潤っていた上杉家だが、経済状態も違うので一概に比較できないのであくまで余興。
ざっと、トヨタや、JR東日本、パナソニックなど日本の最上位グループに匹敵する人数である。

越後屋と言う、豪商がドラマに出て来た。
時代劇に本当に多い名前である。
謙信公が栄華を極めた越後経済、そのよすがで豪商の名前に多いのである。

慶次の娘が、「お父さんには隠し子がいます、新しい女もいます」と、母への手紙に書いてしまい、
慶次はゆっくり風流もしていられない。

慶次郎の人生で最も大事なことは、平和に風流三昧すること。

剣の師範代に、果し合いに来た伊達家浪人を採用したか。あの男は確かに使える。笑。
江戸に行ったお屋形さま(景勝)や直江兼続も出て来るのかしら。

政治的にも、家庭的にも、慶次の危機があり娯楽作品として面白い。
来週も、また楽しみ。

【2015.04.17 Friday 15:53】 author : いづな薫 
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かぶき者慶次「石田三成の子」
慶次のドラマ、上杉家が舞台なので関心を持って見ている。

慶次の一級資料は、「前田慶次道中日記」のみである。
慶長5年(1600年)の最上合戦(長谷堂城の戦い)後、慶次は上杉家執政直江兼続と京にいた。
その後、米沢まで辿った間を記録したのが道中日記である。

と言うわけで、ドラマはほとんど創作で毎回行くはずである。
三成遺児が上杉領で僧侶になったと言う話もなくはないので、それを慶次の養子に仕立てたか。

わが子として育てていたら、捨てて来たはずの本当の娘が出て来てさあ、大変。笑。
しかも、この娘ただの娘ではない。
父の無苦庵に来た途端、朝っぱら声を張り上げ槍をグルングルン回す。ビビる三成の子。
長谷堂城の戦いの時、自害しようとした直江兼続を叱咤し上杉軍しんがりを勤めた前田慶次を彷彿させるから笑える。
長谷堂城の戦いは、1600年、上杉VS最上&伊達の戦いを指す。
同時に関ヶ原の戦いが進行しており、東の関ヶ原とも言われる。

長谷堂城のしんがり奮戦が事実なら、生没年未詳でも慶次はおそらくもっと若かっただろう。

最近のNHKドラマ、政府意向に沿うよう「花燃ゆ」共に、家族、家族である。
昔、家族でテレビを見ていることが多かった時代はこうではなかった。
家族という概念が出来だしたのは、せいぜい明治からこちらである。

妻なく”だいふべんもの”の慶次のはずが、子育ての戦場に立たされてしまうのが
今のご時勢である。
その”だいふべんもの”の逸話について軽く書く。

前田慶次、「だいふべんもの」の旗印を持って上杉家中にいちゃもんを付けられる話がある。
「武威をもって知られる上杉家において、大武辺者・だいぶへんものとはなんだ!」※大武辺者は武芸者のこと。

「これは、大武辺者でなくて、浪人暮らしが長く妻もいなくて不便だから大不便者だ。そんなことも分からんのか。」と慶次は笑ったと言う。

ドラマだが、年をとっても粋なところが慶次らしくて良い。
自分で作った野菜を自分で料理し、下女や下男には親切。
風流三昧の生活、慶次はすでに理想を行っている。

先日、「里山資本主義」と言う本を紹介した。
簡単に言えば、政財界にとって使い尽くし食い尽くすまで資産でいるより、別の生き方を見つけた方が身のためだと言うことである。
慶次郎は、まさにこれを地で行っている。

たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん

「たとえ、広い国を治める領主であっても、思い通りに生きられないなら匹夫と同じである。」
そう言って、慶次は前田家連枝の地位を投げ捨てて、国を出奔したのである。

【2015.04.14 Tuesday 20:51】 author : いづな薫 
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奈良時代のトイレと前田慶次郎


 奈良時代のトイレと前田慶次郎、変なタイトルだが、これがちょいと関係ある。

奈良時代のトイレは、水洗式と汲み取り式である。
水洗式は、樋(とい)を使い邸内へ川の水を引き入れ、また側溝を使い屋敷の外へ流すと言うものである。
汲み取り式は、大きな穴を掘り板を渡して、用を足す。
いっぱいになれば汲み取り、川などに捨てるのである。
トイレットペーパーは、もちろんない。
奈良時代、籌木(ちゅうぎ)と言う、20〜30cm薄い木へらで、拭いていた。
汲み取り式便所遺跡の中から、籌木(ちゅうぎ)がよく出て来る。
 川に適当に流していたため、汚臭も漂い、伝染病が流行った。
当時大仏を建立したり、人々が盛んに祈り仏教で国家鎮護を願った理由のひとつに、伝染病の流行がある。
 
 
 さて、時代は奈良時代の後900年弱、戦国時代末期のことである。
前田慶次郎が、太閤検地を命じられた叔父利家と共に奥州出羽(秋田付近)に行った時のことである。
 ある店で、薄い木のへらが売られていた。
慶次郎が「それは何だ?」とあるじに問いかけた。
店主は、「そっぺら」と言い、鼻をかんでこそぎ落とすものです。」と言う。
紙が貴重なので、鼻水をへらで落とす、と言う。

 慶次郎はそのへらを束で買い、今度は庄内地方の家老に招かれ面会する。
慶次郎は鼻水が出たのでかみ、「そっぺら」でこそぎ落とした。
 仰天したのは、家老である。
「南部の者はあなたをだましたのです。
そっぺらは、厠で糞をした後、拭き捨てるものです。」

しかし、慶次郎もつわもので、「何にも遣い申す間不苦(なんに使ってもいいじゃん)」と答えたと言う。

 おしゃれで超イケてる男だった慶次郎も、トイレットペーパーは使っていない。
 江戸時代になるといらない紙を、ちり紙として使い始め、トイレットペーパーなんて戦後のことである。

【2010.04.02 Friday 18:54】 author : いづな薫 
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関ヶ原と上杉家 7  前田慶次郎




前田慶次郎
加賀大納言前田利家の甥で、高禄の領地も前田家連枝の地位も投げ打って上杉景勝に仕えた男。

 直江兼続が長谷堂城から撤退する時、殿(しんがり)を引き受け、激戦の中を朱柄の大槍を振り回し、兼続らを逃がしたという。
 米沢には、慶次郎の南蛮笠、鳥の羽のようなデザインの奇抜な鎧が残っている。
 愛知・熱田神宮には、慶次郎が奉納したと言う、豪壮な太刀がある。
今年、東京と会津で拝見する機会に恵まれた。

 他家、しかも徳川側となった前田家の出身でありながら、

上杉家のために命がけの盾となった、侠(おとこ)である。

【2009.10.01 Thursday 15:01】 author : いづな薫 
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慶次郎 in 風呂屋
 山城歩きして、温泉でも入りたい季節になって来ました。

 今日は、前田慶次郎の風呂屋でのエピソードのご紹介。
風呂屋発祥は、800年ほどさかのぼるが、それはさておき、
慶次郎の時代、すでに京や江戸には風呂屋(湯屋)が普通にあった。
 京都の妙心寺や西本願寺には、当時の風呂が残っていて、それはそれは興味深い。

 大名家一門であり、高禄を食む前田慶次郎だったが、そこは天下御免の傾奇者の彼、街中の風呂屋に普通に行ったらしい。
 そこで、威勢を張ったどこかの大名家の家来どもに出くわす。
 慶次郎は、それをからかってやりたくなった。
 
 当時の風呂は、蒸し風呂である。
狭い入り口からサウナ室に入り、あとで、かいた汗を洗い流すのだ。 
慶次郎は、褌に脇差を差し込み、中へ。
 驚いたのは、威張り散らした大名家家臣たち。

 何せ、無防備なになる風呂場に刀を持ち込んだのだから、ギョッとするのも無理はない。
 慶次郎は、何がおかしい?と言わんばかりの面つきで、風呂に入り続ける。
 ビビッた、侍達は、翌日から刀持参で風呂に入って来たと言う。
慶次郎もやはり刀を褌に差して、風呂に入って来る。

 そして、シャキーン!と刀を抜いた慶次郎。
 抜いた刀身は竹みつ(竹製の刀)で、それを使い、足の垢を擦り始めたとさ。

 う〜ん今秋は、謙信の隠し湯に行きたいハートハートハート



【2009.09.10 Thursday 21:20】 author : いづな薫 
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慶次郎と奥村助右衛門永福
昨日の歴史ミステリー(番組)に前田慶次郎が出ると言うので、見てみた。

いづなは、この時間仕事真っ最中なので、職場休憩室でこっそり見ることに。
飲み物とおやつを持って、いそいそと向かう。
が、仕事関係者のA君がいるではないか!

いづな  「あ、休憩中?」
A君    「いづなさんの仕事待ちです。」

いづな、そっそうだった・・・
「A君、悪いんだが、現在の重要プロジェクトを無事遂行させるため、前田慶次郎を見せていただきたい。」

意味不明なへ理屈を付けA君をどかし、特等席に陣取る。

曲がっているから「まげ」でござる。
秀吉の前で猿踊り、お馴染みのシーンが楽しかった。
猿踊りの最中、大名達の膝に次々と座り、唯一座れなかった人物!(景勝)の後が、メガシャ●のCMが挟まり大爆笑。
初めてテレビで見たぞ、このCM。
(いづな、それ位テレビを見ない。)

パチンコで、前田慶次が大人気だそうだ。
その慶次パチンコCMで流れた、奥村助右衛門にブロックされた。

奥村助右衛門永福(おくむらすけえもんながとみ)と言えば、慶次郎の養父利久(前田利家実兄)に仕え、後に利家に仕えた、前田家の重臣中の重臣である。
利久夫妻と、子・慶次郎が荒子城を追放された時、新城主になった利家に、利久の許しなければ開城出来ぬと拒んだ名将である。

 以後代々、家老職を相続する。
子孫は直江兼続娘婿の本多氏と共に、加賀八家のうち二家を構成し、明治期に男爵になっている。
で、パチンコ奥村永福、老臣のはずが、どうしたわけか、小姓ばりの超ビジュアル系ハート
とたんに、パチンコやりたくなった。笑

 大河では、慶次郎は出ないそうだが、NHKお正月ドラマでやって欲しい。
華やかだし派手だし、新春向きです。かどまつ鏡もち
もちろん、ビジュアル系奥村付きで、笑

【2009.07.31 Friday 17:04】 author : いづな薫 
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前田慶次郎



侠(おとこ)は、上杉景勝ただひとり

【2009.07.01 Wednesday 22:50】 author : いづな薫 
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慶次郎の命日
6月は、前田慶次郎の命日のある月である。
毎年、紫陽花が雨に打たれて、綺麗に咲くと思い出す慶次郎の命日である。


慶長十七年(1612年)6月4日、前田慶次郎は風流と武芸に生き、波乱に満ちた生涯を閉じた。
 6月4日に書きたかったが、間に合わなかったので、今書く。
米沢の一花院に埋葬されたとも、堂森の善光寺だとも言われている。
いづな今年3月に、今はない一花院を探し求め、ぐるぐる回っていた所を親切なお饅頭屋さんに教えていただいたのを、ブログに書いた。

 また、加賀藩に残る史料だと、慶次郎の没年月日は慶長十年(1605年)十一月九日、享年73才とされる。
 
 関ヶ原後、敗戦側の上杉家にいた慶次郎を、7000石〜1万石と言う高禄で召抱えたいとの大名たちが数多くいた。
 高名な慶次郎を、大名たちはヘッドハンティングしようとしたのである。

しかし、慶次郎は断った。
石田三成に人質を出した西軍の諸将にも、陪臣である家康の家来たちに遣えるのもいやである、と。
 関ヶ原で西軍が敗北しても臆することなく、最期まで戦い続けた上杉景勝こそ、遣えるべきあるじである。 
 
”侠(おとこ)は、上杉景勝ただひとり”


かくして、慶次郎は、4分の1になった上杉家に残った。
 禄は、わずか500石であったという。

慶次郎は、米沢郊外・堂森の清水の湧く地に、庵を建て、村人と交流し、本を読み、花鳥風月を楽しみ、スローライフに入る。

 庵の名前は、無苦庵。以下慶次郎の言葉である。

無苦庵は、孝を勤むべき親もなければ憐れむべき子もなし。中途略
寝たければ昼もいね、起きたければ夜もおきる。
九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八万地獄に落ちる罪もなし、
生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う。

 
 慶次郎は万石の大名になるより、500石で十分満ち足りていたようだ。

里の人々に愛されながら、華麗な鎧、遺髪、手彫りの面、徳利、槍を400年経った今日に遺している。


【2009.06.30 Tuesday 08:50】 author : いづな薫 
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前田慶次道中日記

氷る夜や かたはらさひしかり枕 山河の雪に 残しおくひと
慶次郎が詠んだ、寒いけれど色っぽい和歌です。
 「前田慶次道中日記」に収められています。

周知の如く関ヶ原の戦後、上杉家は、米沢に転封になります。
関ヶ原の翌年の慶長6年(1601年)晩秋、
米沢に向かった上杉景勝の後を追って、前田慶次郎は京都から米沢まで26日間の旅をします。
その道中つづられたのが、「前田慶次道中日記」です。
道中のエピソードや、慶次郎の詠んだ俳句、漢詩、和歌などが記されています。
 禄は4分の1、上杉家中にとって米沢は艱難辛苦の待ち受ける地です。
一流の教養人であった慶次郎は、いつ何時も風雅の心を忘れない武人でした。

【2008.12.27 Saturday 22:01】 author : いづな薫 
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