大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 龍馬伝 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
弟・岩崎弥之助の三菱
兄・岩崎弥太郎の死後8ヶ月で、弟・岩崎弥之助社長は、三菱を手放す羽目になる。

弥太郎没してなお、三菱は、共同運輸との熾烈なビジネス戦争を続けている。
この日本国内の2社が競り合うことにより、海外の海運会社が日本に勢力伸ばして来るのは目に見えている。(以前もそうだった。)
共同運輸、三菱、共倒れの危機が予測された。
 政府は今まで三菱を潰すため、共同運輸に巨額の投資をしている。
海外企業が日本を席巻すれば、その金も努力も水の泡。

 政府は、宿敵三菱と共同運輸の合併を目論むのである。
新しい会社名は、日本郵船会社、出資比率は三菱5対共同5であった。
そして、三菱は海運業から完全撤退を余儀なくされる。
 三菱は、幹部と職員500人余と1000人ほどの船員を手放す。
社長は、共同運輸から出た森岡昌純である。
 しかし、かねてから共同運輸のの株主には三菱関係者が多く、三菱が実益を取ったと言えなくもない。
 筆頭株主は彌太郎の息子で、三代目となる久弥。
次が大蔵省、3番目は弥之助である。

 しかし、兄・弥太郎が血を吐く思いで築き上げた三菱の社名は、この世から消えてしまった。
 
 弥之助は奮起し、1886年新会社設立した。
新社名、三菱社である。
事業は、弥太郎時代の海運1本ではなく、銅山、水道、炭鉱、造船、銀行と多岐に渡る。

 戦後の財閥解体などあったが、三菱が現在のような多角経営に発展したのは、弥太郎の弟・弥之助からである。
 第一次世界大戦時、世界中の船舶不足から、三菱社の造船部は、空前の好景気を迎える。

 兄弥太郎は、海運業1本に賭け心血を注いだが、共同運輸との争いで、疲弊し弥之助が社長就任まもなくこれを失ってしまう。
 弥之助は、同じ轍を踏むまいと、さまざまな業種に目を向け、三菱を再興したにちがいない。
 弥太郎は、三菱の偉大な創立者だが、弟・弥之助もまた、巨大企業三菱の根幹を創った偉人である。

 現在、東京丸の内大手町界隈は、瀟洒なビル、都会的な美しい街並みが続く。
 私は東京育ちで、ビル街に特に感慨もないが、景観もごみも落ちていないし、この辺りは本当に綺麗だと感心する。

 この一帯を明治期に128万円で買い上げたのが、岩崎弥之助である。
128万円、当時の東京市の1年分予算の3倍にあたる巨額である。
 三菱ヶ原と呼ばれ、そこに、鹿鳴館や岩崎邸(現・・旧岩崎邸庭園洋館、撞球室ビリヤード場)を設計したジョサイア・コンドルによって、三菱一号館が建てられた。
 三菱館は次々に竣工され、明治44年までにその数、13号館になった。
ロンドンのような、街並みだと評されたと言う。

 弥之助は、その晩年欧州アメリカを歴訪する。
イギリスでその国民の気質と、思考に大いに刺激を受けた。
 「英国の中流以上の人は、商業の如何を問わず、品行方正で、厳粛、最も責任を重んじ、最も心を専一し、最も忠実にし、最も信義を尊び、規律を守り・・・。」

 弥之助は、「日本にある会社の重役達はこのような欧米人と同じくするものが、幾人あるだろうか?」と言っている。
 彼は、社の指導的立場にある者に、または一般国民に規律とモラル、品性を求め重んじている。
 数々の教育・文化事業、福祉にも力を注ぎ、1904年54歳の時兄と同じがんに倒れた。
 難しい上顎がんを治療をしながら、4年生き、1908年3月25日逝去した。
物静かで、温厚な三菱2代目は、医師が驚くほど病苦にも忍耐強く、その偉大な生涯を終えている。享年58。

【2010.12.04 Saturday 08:41】 author : いづな薫 
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岩崎弥太郎の最期
岩崎弥太郎、波乱に満ちた生涯だったが、その最期の時も壮絶だった。

 死因は、胃がんである。

明治14年(1881)大酒と美食、ストレスゆえか、胃の不調を訴え始める。
そのころ、三菱は日本の海運業を独占していたが、薩長藩閥の設立したライバル会社共同運輸と、社運をかけた熾烈な争いの真っ只中であった。

 弥太郎の病を進行させたかもしれない?ライバル、共同運輸について触れねばならない。

 明治11年(1878)、明治政府の最大の実力者・大久保利通が紀尾井坂にて暗殺される。
 その後継者に、肥後出身の大隈重信と長州出身の伊藤博文がいた。
このふたりは共に大久保に可愛がられたが、大久保死後は、激しいライバル関係となる。
明治14年、薩長藩閥政府が樹立、伊藤がその中心になり、大隈は参議職を罷免され、その一派は追放される。
 大隈に極端に肩入れしたと思われた三菱は、伊藤ら薩長藩閥から憎まれることとなる。
 つまり三菱は、伊藤と大久保の政権抗争に巻き込まれた。
政府は、三菱に、海運業を独占させておくのは得策でないと判断し、政府支援のライバル会社、共同運輸を創立。
 
 政府と企業の著しい癒着だが、当時の資本主義はまだ芽生えてまもなく、政府の支援なしでは会社はやっていけない。
 弥太郎率いる三菱は、政府の後押しを受ける共同運輸とビジネス上の死闘を繰り広げるのである。

 心労がたたったのか、明治17年8月、社長岩崎弥太郎は、胃痛と食欲不振に陥り、胃炎と診断される。
 9月にはめまい、昏倒し、大量の胃液を吐き、伊豆で療養した。
10月に東京に戻ったが、11月には、適塾、幕末の医学者ボートウィン、ベルリン大学で学んだ医師・池田謙斉によって胃がんと診断される。
既に弥太郎の胃は胃管下口が狭くなり、周囲には余命4ヶ月と告げられたが、本人には告げず。
 面会謝絶となり、東京の岩崎邸の一つであった現・六義園の屋敷に籠もる。
 三菱と、共同運輸が闘いは続行中、弥太郎は、会社からの報告を日に40回も六義園の病床に報告させている。
 激痛の中、共同運輸との戦いへの闘志は衰えず、作戦指示を出す。

 しかし、社会復帰することなく年を越し、
明治18年2月6日大量に胃液を吐き、
翌7日16時呼吸停止した。
しかし、医師達のカンフル注射(蘇生薬)で息を吹き返す。
18時、母と姉妹を大声で呼ぶ。たぶん、弟弥之助も来た。
 

岩崎弥太郎傳」にある遺言を、以下抜粋する。
「岩崎家は嫡流を重んじる家系なので、長男久弥に跡目を継がせ、弥之助は補佐し、小早川隆景の毛利輝元を補佐するようにせよ。
弥之助、わが事業を落とすことなかれ。・・・腹の中が裂けそうだ。もう何も言わん。」
 

午後18時30分、右手を空にかざし、医師団に一礼して、息絶えた。

弥太郎、赤ん坊の時は昼夜とわず、泣き喚き親を困らせたが、その活躍時期、最後に至るまで、周囲を圧倒する声と胆力の持ち主だった。
満足な治療もホスピスもなく、激痛に苦しみながら、岩崎家・三菱のこれからを指示し、
医師団に礼を言い、己の生涯の幕を下ろした。

三菱総帥の、見事すぎる最期である。

【2010.12.03 Friday 10:02】 author : いづな薫 
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坂本龍馬暗殺を検証する 5
今回は、龍馬暗殺実行犯、今井信郎に焦点を当てたい。

今井は、龍馬襲撃に加わった後、函館五稜郭の戦いで破れ降伏する。
捕まった時、龍馬暗殺の真相を新政府側に語った文書があるので、いづなが読み下してみる。
供述内容は、『坂本龍馬関係文書』 明治3年2月

明治3年2月兵部省での、今井信郎、30歳の時の供述調書である。

坂本龍馬殺害の儀は、佐々木唯(只)三郎の指図だった。
先日は取り逃がしたので、今度こそは捕まえ、手に余る時は、討ち果たしてしまおうと言うことだった。
佐々木唯三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土居仲蔵、桜井大三郎、の7人で三条下ルの龍馬の宿に昼頃行った。
龍馬は留守で、夜五つ頃また行ったら在宅していた。
指揮官の佐々木只三郎が先に行き、すぐに渡辺、高橋が2階へ上がった。
土井、桜井は階下で控えていて、2階の様子は知らなかった。2階より、降りて言うことには、3人(龍馬、中岡、藤吉)を討ち果たした。
一同は、その場を去り、二条通にて、高橋、渡辺は見廻組屋敷に戻り、佐々木は帰り、私共は宿に帰った。

そして、明治3年5月刑部省での取調べ

・・・略・・・龍馬の旅宿にまかり越し、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助は2階に踏み込み、私並び土井仲蔵、桜井大三郎は、台所で見張りをしていた。

 刑部省でも、兵部省同様の口述が続き、この供述書が公表されてから、京都見廻組犯行説が一般的となった。
裁判の判決も、それに即したものとなっている。
 しかし、今井以外は、全員鳥羽伏見の戦いで死亡しており、他の実行犯からの供述は取れていない。
つまり、裏付け証言がない。

それから、30年後、今井は、地方新聞社の取材に不可解なことを言った

龍馬を殺したのは自分で、暗殺犯の1人はまだ生存している。
3年前の兵部省、刑部省の調書とは違う発言である。

このことから、今井が明治三年時点で、自分と生きているもう1人の罪を、鳥羽伏見で死んだ仲間におっかぶせたと言う、推測が立つ。

 事件当時、現場には、鞘が1つ残されている。
これについて今井信郎は、渡辺吉太郎が、6畳に置いて帰ったとしている。
しかし、明治44年になって、元見廻組の渡辺篤と言う人物が、異議を唱える。

「鞘は、世良敏郎(せら としろう)の物である。」

「そして、自分こそが龍馬を斬った人物である。」

今井が言う、もうひとりの生存者、それは、この渡辺篤ではないか。

襲撃は、今井信郎、渡辺篤、世良敏郎(せら としろう・鞘を現場に落とした人物)で行われた可能性が強いように思う。
佐々木只(唯)三郎は、指揮官のため、2階入り口で顛末を見届けていた可能性がある。
世良は、どちらかというと、文人肌だったと言うから、斬ったのは、今井信郎渡辺篤

京都・霊山歴史館には、龍馬を斬ったとされる見廻組・桂隼之助の刀と言う物が現存する。
私も、見たことがある。
刀身にはいくつもの傷があり、戦いの凄まじさが感じられる。
龍馬らがいた近江屋の部屋は天井が低く、大刀は適せず、小太刀か脇差が良かったのかもしれない。

そして、今井の脇差も同博物館に現存する。
今井は、鳥羽伏見の戦いの直前、京都は危険なので、妻に江戸へ非難するよう勧める。
その時、坂本と中岡を斬った長刀と、守護職から賜った褒状を見せたと言う。
守護職とは、会津藩主・松平容保である。
この長刀は、失われてしまったが、共に差し料にしていた脇差が現存する。今年、東京でも公開されていた。

今井信郎所用 脇差 銘 山城守源一法

私は、刀剣が好きで見る。しかし、この刀、けっして良い刀ではない。
その刀を今井は質屋に出したが、後でわざわざ買い戻している。
しかし、今井にとっては特別な思い入れがある品なのだろう。

今井信郎は、禁固刑の後、明治5年罪を赦され、静岡に転勤。

明治11年頃、今井は、龍馬の養子となっていた坂本直(さかもとなお・高松太郎・龍馬の姉の子で海援隊士)から呼び出しを受ける。
「龍馬の法要を開くから、来い。」、と言う。
今井は殺されるかもしれないと思ったが、行かないのも恥だと思い法要に出かけた。

「この先は、日本のため共に頑張ろう。」と坂本直(さかもとなお・海援隊の高松太郎)と話し合ったと言う。
叔父龍馬に似て、寛大すぎる直(なお)である。
今井は、明治期にキリスト教に入信する。
暗殺犯の中で一番年長で最も長く生き、大正8年77年の生涯を終えた。


                                 「龍馬暗殺を検証する」 終

【2010.12.02 Thursday 07:56】 author : いづな薫 
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坂本龍馬暗殺を検証する 4


龍馬暗殺の事件現場を克明に証言した、峯吉少年について書きたい。

菊屋峯吉(きくやみねきち)、龍馬暗殺の時、17歳。
近江屋、土佐藩邸近くの土佐藩御用達書店の息子で、龍馬に可愛がられていた。
なお、峯吉(みねきち)実家の書店または近所に、中岡慎太郎も隠れている。
龍馬の下僕藤吉は、峯吉の紹介で龍馬と知り合った。

その峯吉が、龍馬最期の日の夜、「軍鶏を買うてきておーせ。」と龍馬に頼まれ、買いに行った。
軍鶏肉が売り切れで、新たに軍鶏を絞め、
大皿に肉を盛ってもらい、帰った時、龍馬はこの世の人ではなかった。

その峯吉の、事件の証言を見てみる。

近江屋に帰ると、不思議にも表戸が開いていた。
隙間から覗くと、大男が仁王立ちしていて、刀を抜いている。
峯吉が驚いていると、「お前は、峯吉じゃないか。」と声を掛けられた。
土佐藩の島田小作であった。
島田の話だと、「今、坂本と、中岡がやられた。」と言う。
峯吉は、そんなことがあるものかと、中に踏み込むと、物置の中で家主の井口夫妻が閉じ込められがたがた震えていた。
「夫妻は2回が大騒ぎだ」、と言う。
峯吉が、2階に上ろうとすると、血がぽとぽと滴って来たのである。

入り口に藤吉が倒れて苦しんでいた。
大きな声で、峯吉は島田を呼んだ。

龍馬が倒れているが、中岡の姿が見当たらない。
中岡は隣りの井筒屋の屋根の上に倒れ、苦しみながら誰かを呼んでいた。
中岡は、その夜、苦しい息の中、暗殺の顛末を語り始める。

・・・略・・・藤吉が襖を開け龍馬に客人が来たことを告げると、2階から降りようとするところを斬り付けた。
そのまま、龍馬と中岡の部屋に踏み込み、坂本の肩から首にかけて斬りつけた。
坂本は刀を抜こうとしたが出来ず鞘で受けたが、倒れてしまった。
自分もしばらく応戦したが、天井が低いため、大刀が役に立たず、犯人は思う様斬りまくって立ち去った。

龍馬は即死状態、藤吉は翌日、中岡は2日後に絶命した。

                             5に、つづく

【2010.12.01 Wednesday 08:48】 author : いづな薫 
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坂本龍馬暗殺を検証する 3
 今井信郎に続き、ふたりめの龍馬暗殺犯、佐々木只三郎(たださぶろう)について語る。

佐々木は旗本だが、実家は会津藩士の家である。
実兄は、会津藩公用人・手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)。
若い上に、病弱の藩主・松平容保を補佐し、実権を握っていた人物である。
 
会津藩の藩校に、日進館と言うのがある。
会津藩家老・田中玄宰(たなかはるなか)が創設した、エリート養成学校である。
田中玄宰(たなかはるなか)は、天明の大飢饉で多数の餓死者を出した会津藩を立て直した、名家老である。
会津まつりには、ゲストの俳優さんを呼んで、家老田中に扮することもある。

10歳になると、会津藩氏の子は日進館に入学し、15歳までに学問、武術、礼儀作法を学んだ。
成績優秀だと認められると、講釈所(大学)に入学に進み、さらに優秀者は、江戸の昌平坂学問所に入学した。
彼らは全国規模で見ても、相当優秀な人材で、暗殺犯佐々木只三郎(たださぶろう)の兄・手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)も生え抜きのエリートであった。

 彼らの幕府側の人間たちの前に、彗星のように現れ、瞬く間に敵同士であった薩長に手を組ませた坂本龍馬。
龍馬は若年寄・永井尚志(ながいなおゆき)にも近付き、親しい関係になっている。
永井は長崎海軍伝習所の総監(所長)だった人物で、その生徒であり、教監にもなったのは勝海舟である。
旗本の養子で、異例の出世で若年寄になった。
この永井尚志(なおゆき)から、4代目の子孫に作家の三島由紀夫がいる。

 永井の宿は、見廻組の宿営所のすぐ近くにあった。
彼は、龍馬に目立つから、「夜に来て欲しい。」とまで言っている。
そして、ほぼ毎晩龍馬は永井を訪ね会合していたようだ。
永井の屋敷を訪ねる龍馬を、見廻組は目にしていただろう。
 薩長同盟締結、幕府高官までも味方につける龍馬、佐幕派にとって、龍馬ほど恐ろしい男はいない。
 そんな危険人物に、自分の屋敷の隣りに毎日堂々と通って来られたら、京都を警護することに体を張る見廻組は、面目を失う。
 幕府に忠勤を尽くす手代木&佐々木兄弟にしてみれば、龍馬暗殺は、幕府のための必要不可欠の政治的暗殺だったのである。
 
 藩主松平容保が、京都守護職に就くにあたっては、お金がかかり、薩長の恨みを買うので、藩の家老西郷頼母(さいごうたのも)らに反対を受けている。
 松平容保は、徳川慶喜のように臨機応変に行動転換する頭脳を持たない。
生真面目な殿様なのである。
 おそらくは、幕府を守るとなったら、死んでも守る覚悟があったであろう。

戊辰戦争時、薩長の敵だった会津藩は、藩士領民ともに、悲惨な戦いを強いられる。
城は砲弾で穴が開き傾き、戦に破れ降伏。維新後は荒野の陸奥の国斗南(青森県むつ市)に移転を命じられた。

手代木直右衛門も、幾つかの藩邸で禁固となり、明治5年赦免。
新政府に仕え、高知県の副知事にもなった。
これが驚きである。高知の人も真相は知らず、手代木も口をつぐんだまま、任期終えたのであろう。
その後岡山に転勤し、岡山で静かに生涯を閉じた。
若き日は華々しいエリート、実質会津藩を動かした手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)だったが、明治以後の人生は寂しいものになった。
その死の間際に、こう、言い遺した。

坂本龍馬暗殺指令したのは、上様。

上様とは、会津藩主・松平容保のことである。

                     4に、つづく。

  


【2010.11.30 Tuesday 08:47】 author : いづな薫 
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坂本龍馬暗殺を検証する 2


 峯吉(みねきち)が、近江屋の2階に上がろうとした時、階段上からは血潮がぽとぽとと滴っていたと言う。
峯吉(みねきち・龍馬が可愛がってた書店の息子)
入り口付近には、龍馬の下僕で元力士の藤吉が倒れて苦しんでいた。
事件直後を見た、峯吉(みねきち)の証言である。

今と違い、踏み板面積の狭いひどく急な階段であっただろう。昇るのが急で血液が滴る様子が想像できる。
そして、2階奥の8畳間で龍馬は頭を斬られて絶命していた。
犯人は、既に逃走後であった。

8畳間の外物干し台を伝わり北隣り井筒屋の屋根の上に、瀕死の中岡慎太郎がいた。
助けを求め這って行ったと思われる。

龍馬は全身34箇所、中岡は28箇所、藤吉は7箇所の刀傷があった。
事件現場となった、土佐藩御用達商人・近江屋には主人夫婦が在宅であった。
夫妻は、襲撃者に事件の間、監禁されていたと言う。
峯吉が戻って来て、暗殺現場を発見し、近江屋主人夫婦は、土佐藩邸に事件を知らせるため駆け込んだ。
土佐藩と近江屋は、ほぼまん前と言っていい。
門が開き、15秒もあれば駆けつけられる。
龍馬を斬るのに手惑えば、土佐藩邸に感づかれ、見廻組は、逆に斬られる可能性も十分あった。
用意周到な計画を立て、速攻で襲い、たちまち逃げ去ったのである。

知らせを受けてすぐさま土佐藩邸から、谷干城(たにたてき)、田中光顕(みつあき)らがかけつけ、息のある中岡に問いかけた。
中岡は、龍馬の最期の言葉を、幾つかの証言を残している。

「石川(中岡の変名)、刀はないか、刀はないか。」
階段に這い出して、「脳をやられた、もういかん。」

暗殺犯が、「こなくそ」と言う、伊予弁を話したことも証言。
龍馬と中岡が倒れたのを確認し、「もうよい、もうよい。」と言い、引き上げたことも言っている。

 中岡慎太郎は、事件直後駆けつけた峯吉や谷干城(たにたてき)の記録だと、意識がはっきりし、証言したと言われる。
しかし、瀕死の重傷で出血多量だと、意識が混濁する。
貴重な証言であるが、すべてが信用できるものなのか?、今となっては分からない。
中岡は、焼き飯を食べる気力も見せたが、2日後逝去した。

 第一発見者の峯吉(みねきち)は、事件発見は午後8時頃だと証言している。
しかし、暗殺実行犯の一人・今井信郎は、10時頃だと言っている。
 時間はどちらが正しいのか、またはふたりとも違うのか。

龍馬暗殺の現場にいたと証言のある人物に、未だ解明されていない謎の人物が何人かいる。
ひとりは、龍馬を襲った時、机の下に隠れた子供。見廻組の証言では、子供だったので、そのまま見逃したとある。
 これは、もしかして、軍鶏を買って帰って来ていた峯吉(みねきち)か?
 峯吉は、自分が助かってしまったと言う負い目から、違う時間を言ったのか。
峯吉は、犯人は新撰組と思い、団子屋に変装して、新撰組屯所の間取りなどを調べ上げたと言う。

その他にも、龍馬のいた8畳間のぶち抜きで隣接した部屋に、書生が3人いたと、暗殺犯・今井が言っている。
子供と書生たちが本当にその場にいたなら、事件の真相を後世に遺すことなく、一生口をつぐんで、死んだのか。

 薩摩黒幕説について少し語る。これに私は大いに疑問だ。
このサイトでも何度も触れたが、龍馬が生きている時点では、薩摩はまだ、武力倒幕 or 大政奉還の両方の選択肢を持っていたと言うのが最近の研究である。
武力で潰すにしても、大政奉還で、政権を手放してしまった徳川家と戦う方が、薩摩は楽である。
徳川に味方する諸侯が、格段に減るからである。
 事実、大政奉還の後に、戊辰戦争は起きた。


                          3に、つづく



【2010.11.29 Monday 09:24】 author : いづな薫 
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龍馬伝感想 「龍の魂」
 「○○○自ラ盟主ト為リ」に入るのは誰か?、龍馬は、慶喜を入れようとしていたと言われる。
大政奉還後、「新政府綱領八策・しんせいふこうりょうはっさく、第八義」にある言葉である。
龍馬が書いたとされ、新政府のガイドラインになるものである。
こちらでも触れているので、よろしければご覧ください。

福井の松平春嶽に、山内容堂の書簡を渡しに来た龍馬。
福井に来たのには、もうひとつ理由がある。
松平春嶽の臣下、三岡八郎(後の由利公正・ゆりきみまさ)に会うためである。
三岡八郎、ドラマで、松平春嶽、龍馬の前で、ぼりぼりつまみ食いをしていた人物である。
 この人、横井小南に師事した、当代きっての財政通である。
この三岡八郎に、龍馬は通貨発行権の相談に来ている。
通貨発行権を掌握できるか否かは、政権を司る者にとって、不可避不可欠なものである。

「新政府には資金がないが、どうしたらよいだろうか?」という龍馬の質問に対し、「朝廷の信用があれば何とかなる。」との答えを与えている。
 このアイディアは、新政府が臨時発行した太政官札となったのである。

経済活動は、国家の基盤である。
通貨発行権を抑えねばならない、そこにまず目をつけたのが、龍馬という人間のすごさである。
豪商の分家に生まれた、龍馬のなせる業かもしれない。
そして、この福井行きは、龍馬の最後の旅となった。

さて、感想。
中岡慎太郎と言い合う大久保一蔵(利通)、なんだか色っぽい。今日はミッチーに見えた。笑
中岡と、近藤勇の殺陣シーンも魅せた。
「刀がなんの役にも立たない世が目の前に来ている。おぬし、これからどうする!?」
「わからん!」
近藤が、佐幕派武士たちの葛藤を代弁している。

龍馬暗殺シーンは、あっという間でしたな。
史実、短時間で襲われたことは確かだろう。
事件現場の近江屋と、土佐藩邸はほぼまん前、15秒もあれば、駆けつけられる。
襲撃に手間取れば、逆に斬られる可能性は十分にあった。
ドラマでは、土佐藩邸に入れない設定だったが、史実、後藤象二郎は、龍馬に危ないから藩邸に入るよう、言っている。
ドラマで、龍馬の最期の言葉は、船と世界の話にしたんですね。
龍馬は即死状態、中岡は2日後死亡、藤吉は翌日だった。

近江屋には、猫の親子が何度も出て来た。
龍馬が暗殺された部屋には、屏風があり、その左双下に、猫が描かれ、龍馬と中岡の血しぶきを浴びている。
展示会などでご覧になった方も多いと思う。
龍馬暗殺の目撃者である猫を、絵ではなく、実際生きた猫として出演させたのが、面白い。

坂の上の雲、ちょっとだけ見たが、よく練れていて今年分もいい作品。
こちらも非常に楽しみだ。

【2010.11.28 Sunday 23:08】 author : いづな薫 
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坂本龍馬暗殺を検証する 1


 以前は、幕末最大のミステリーだった坂本龍馬暗殺の謎も、史料研究が進んで、だいぶ真相が解明されてきている。

その明らかにされて来た「龍馬暗殺」について、語って行きたい。

1) 龍馬暗殺には、大名レベルの意志が動いている。
   つまり、政治影響力のある龍馬を消し去らねばならない、政治的暗殺だった。

2) 龍馬を暗殺したとされる、京都守護職配下の京都見廻組。
   彼らは身分も高く、腕も立つ、エリート集団である。

3) 暗殺実行犯の一人、佐々木只三郎(たださぶろう)は旗本だが、元は会津藩士の生まれである。
  実兄は、実質会津藩を動かした公用人・手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)である。

4) その手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)は、臨終間際に、坂本龍馬を斬ったのは弟の
  佐々木只三郎であり、命を下したのは、上様(会津藩主・松平容保)だと語っている。

5) 龍馬暗殺の数ヶ月前から、龍馬包囲網は狭められ、龍馬もまたは後藤象二郎も察知して
   いるほどの危険な状態であった。

 時を、暗殺1年10ヶ月前の寺田屋事件の頃に戻す。
龍馬は、薩長同盟を締結させた翌日に寺田屋にいた所を襲撃されている。
あまりといえば、あまりの偶然である。
江戸時代、徳川家に対する謀反を異常なまでの嗅覚で探す事を得意とした幕府である。
敵対していたはずの、薩摩、長州両藩の不可思議な動きをかぎつけていた。
2009年末、寺田屋事件に関する幕府側の重要資料が見つかり話題になった。

伏見奉行所が京都所司代へ宛てた報告書で、寺田屋事件の顛末と、龍馬がの怪我の具合や、龍馬が逃げ込んだ薩摩藩邸が武装して近づけないことなどが記録されている。
薩長同盟のフィクサーとなった龍馬を、幕府が知り得ていたのである。

同盟締結した翌日、寺田屋にいた龍馬を偶然襲撃したわけではあるまい。

 龍馬は意識が混濁するほどの重傷を負い、護衛官の三吉慎蔵は、材木小屋に龍馬を隠して単身薩摩藩邸に走った。
 龍馬の身辺には、薩長との結びつきを示す書簡などがあったと思われる。
龍馬は取り逃がしたが、現場には「血に染まり候物」が残されたことが、伏見奉行所の史料で分かる。
 血に染まりし候物に、それら書簡が含まれていた可能性は高い。
 もしそうなら重要証拠を見て、奉行所は愕然としたはずだ。
 木戸寛治(桂小五郎)の書いた薩長同盟の書簡(後で龍馬が裏書するもの)は、幕府側には渡っていない。
襲撃の後、龍馬のもとに到着したと思われる。

 暗殺される2日前、新撰組を脱退した伊東甲子太郎(かしたろう)が、「新撰組が龍馬を狙っているので、くれぐれもご用心。」と告げている。
 犯人は、新撰組ではなかったが、龍馬はいくつものグループから命を狙われておかしくない状態であった。

 龍馬の人生最期の日、慶応三年(1867)11月15日。

 龍馬はこの日、隠れ家の近江屋にいろいろな人を呼びたがっている。
しかし、龍馬の潜伏していた京都蛸薬師の近江屋には、見廻組のスパイが張っていた。
そこへ、海援隊士の宮地彦三郎が訪ねて来て、1階にいる宮地に2階にいる龍馬が大声で話しかけていたと言うから、無用心にもほどがある。
そして、龍馬は、この日熱が高く具合が悪かったと言われるが、大声で話しているのを考慮すると、そうでもないのかもしれない。
さらに龍馬は、中岡慎太郎、土佐藩士・岡本健三郎、土佐藩大目付福岡孝弟(ふくおか たかちか・五箇条の誓文の原案を書いた)を呼ぼうとした。
しかし、福岡は見廻組が張り込む近江屋を警戒して訪れず、岡本は、ガールフレンドの四条川原町・亀田屋の娘・タカに会いに行くため、近江屋を後にした。

 中岡も帰ろうとすると、龍馬が言った。

軍鶏鍋にしよう。

龍馬は、土佐藩御用達の書店の息子で可愛がっていた菊屋峯吉(きくや みねきち)に、「軍鶏(しゃも)買うてきておーせ!」と買い物を頼んだのである。
書店菊屋には、中岡慎太郎が寝泊りしていたのである。
軍鶏鍋のために、中岡が留まったことが彼の運命を決めた。

峰吉が、木屋町四条南入の鳥新に、軍鶏肉を買いに行ったが、あいにく軍鶏は売り切れだった。
新たに、軍鶏を潰すのに時間が掛かり、峯吉が肉を買って近江屋に戻ったのは、午後8時頃だったと言う。

この間に、龍馬は暗殺されてしまったのである。

                          2に、続く


 

【2010.11.27 Saturday 10:30】 author : いづな薫 
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龍馬伝感想 「大政奉還」
 「後藤が戻らなかったら、海援隊を率いて、慶喜を殺して、自分も死ぬ。

大政奉還のため二条城に向かう後藤象二郎に宛てた、龍馬の激励の手紙である。
↓ 以下に資料があります。
手紙その1 
その2

この手紙には龍馬の脅迫とも取れる、一文がある。

後藤が献策失敗し大政奉還のチャンスを逃したら、あなたは生きていないだろう。
後藤よ、生きて帰るなくらいの意気込みで龍馬は書いている。
龍馬の革命家としての構想、実行力が、ふつふつと感じられる書簡である。
龍馬は柔和で優しい人物だが、大事には、卓越した構想と凄まじい迫力をもって接する。

永井玄蕃(ながいげんば)、出てきましたな。
彼から後4代目の子孫に、作家の三島由紀夫がいる。
永井は、微禄の旗本から旗本最高位の若年寄まで出世した人物である。
長崎海軍伝習所の総監だったことがあり、生徒に勝海舟や松本良順がいる。勝はのちに教官にもなる。
永井は、すでに幕府が立ち行かなくなっていることを熟知しており、龍馬にも理解を示したのである。

しかし、この永井と接近したことが、龍馬の命を危うくした一因でもある。

龍馬は、京都見廻組に殺されたとされる。
その見廻組の宿営所は、永井の京都の住まい(大和郡山藩邸)の隣りにあったのである。
見廻組の上司、京都守護職の屋敷も、すぐ近くである。
薩長同盟を仲介し、幕府の高官永井玄蕃(ながいげんば)を懐柔する龍馬は、佐幕派にとって、これほど許せない存在はない。
しかも、龍馬はそんな連中の住まいの近くを、何度も往来していたのである。
永井玄蕃(ながいげんば)は、「明るいうちに来ないで欲しい、夜来て欲しい。」と言っている。
龍馬が永井邸を訪れていたのは、いろんな文献に見え、龍馬が毎日のように通っていたのが分かる。

大政奉還後、「新政府綱領八策・しんせいふこうりょうはっさく」を書く龍馬。
新政府のガイドラインになるものである。
第八義、○○○自ラ盟主ト為リ
ドラマでも書いていたが、○○○には、慶喜の名前が入るのではないかと言われている。
そしてこれは後に、由利公正(ゆりきみまさ)により、明治政府公布の五箇条の誓文となったのである。

龍馬は、慶喜の処遇について、永井玄蕃(ながいげんば)と話している。
「慶喜公を、どういう地位に着けていただけるか?」と、龍馬に問うたらしい。
松平春嶽の側近の記録に、龍馬が、「内府関白職」と言う考えを持っていたと記している。
結局、薩長との間に戊辰戦争が起き、慶喜は政治権力から遠のく。

さて、ようやく感想。
大政奉還、40藩の代表に慶喜が聞く。
「土佐藩から大政奉還の建白書が出されたが、如何に思うか?」
物言うことを許さなかった幕府が、諸藩に政治方針について聞いてきたのである。
諸藩の代表たちは、面食らったであろう。
この衝撃が、私にもひしひしと伝わった。

海援隊と言う団体を、改めて面白いと思った。
商社でありながら、政治活動も武力行使もする。
商船艦隊である。
近世〜近代、盛んに日本に来ていた東インド会社が商業活動だけでなく、やはり交戦権を持っていた。
(その他、条約締結権、植民地経営権もあり)
海援隊のリーダーの龍馬は、新政府樹立の中心的位置にいる。
龍馬を支える、沢村、陸奥など海援隊のメンバーが良い。
ナンバー2も、ナンバー3もいる。海援隊の層の厚さが、龍馬の行動を支えている。

【2010.11.21 Sunday 22:01】 author : いづな薫 
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龍馬の命日
 本日、11月15日は龍馬の命日。

1年ほど前、龍馬、中岡、藤吉のお墓に実際葬られていることを示す史料が、見つかった。
龍馬墓地となりの霊明神社が創建200年を期に、非公開だったものを公開している。

 見つかった古文書は、龍馬ら幕末志士の埋葬などの記録や過去帳の約120点である。
命日の慶応三年(1867)11月15日の項には、坂本龍馬、中岡慎太郎、藤吉が神道式葬儀で埋葬との、記載が見える。
龍馬の葬儀が、となりの霊明神社で執り行われてことは、毛利家文書にも記載がある。

みな「実葬なり」と記され、実際、龍馬らが、埋まっていることを示している。

 文書には、埋葬された土佐や長州藩士たちの名が藩ごとに整理して書かれている。

 東山霊山には、1862年長州藩が、藩士船越清蔵を埋葬して以来、諸藩の藩士、志士たちの墓が作られるようになった。
 勤皇思想が高まり、毛利家が、霊明神社に神道式葬儀を依頼している。
池田屋事件で亡くなった志士たちの葬儀も、ここで行われた。
 この辺り一帯には、龍馬中岡の他、木戸孝允夫妻など1400人以上の墓地がある。

龍馬のお葬式当日の記録ついて、少し触れたい。

龍馬の葬儀は、慶応三年(1867)11月18日に行われた。(17日だと言う説もある。)
事件現場の近江屋から、龍馬、中岡、藤吉の3つの棺が、京都河原町から四条を東に行き、東山霊山(りょうぜん)の埋葬地に運ばれた。
死因が暗殺と言うことで、いつまた敵が襲ってくるか分からない状況で、参列者は抜き身の刀やピストルで武装するという、厳戒態勢であった。



スーパーに行ったら、龍馬のお線香が売られていた。笑

歴史上の人物の墓地を、いづなはふらりとお参りすることがある。
特に京都は、歴史上有名人のお墓が、多いこと多いこと。
龍馬など長人気のお墓はべつとして、お参りをしたい方は、参拝者の多いお彼岸などが無難だ。
身の安全と、敬虔な心でお参りしたいものである。

昨今、いづなは龍馬暗殺を証言した人々の、当時の書簡を読んでいる。
犯人だと疑われる人物、暗殺現場発見者たちの記録だ。
これらは、まもなくこちらで書きたいと思う。


【2010.11.15 Monday 11:11】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、サッカー日本代表、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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