大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 古代史 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
クレオパトラとエジプトの王妃展


クレオパトラとエジプトの王妃展を見て来た。
古代エジプトに生きた、4人の王妃と女王たちの展示である。

1枚目写真の背景の中で、2枚目の衣装と蛇を首に巻いて記念写真を撮れ、と置いてあった。笑


さて、その展示内容と歴史背景について。

当時、エジプトでは基本的に王には男性がなる。
女性の王が出た時は、腰布をつけあご髭をつけ男性の姿でレリーフや彫像になっている。
ちなみに、あごひげは男性も付け髭である。
これまで、発掘された品の中にまだあご髭はない。

日本の夏も暑いが、エジプトの王墓の中は夏、50℃にもなる。
よって、調査は12〜1月にすることになっている、


ネフェルティティと言う王妃がいる。
ツタンカーメンの妻の母親とされる。
ネフェルティティが、夫のアメンホテプ4世と世を治めたのはBC.1350〜1334である。
ネフェルティティには、”美しい人が来た”の意味があるが、その現存する像は実に美しい。
現在、ベルリン博物館にこのネフェルティティの胸像があるが、エジプトが返還を求めているがドイツが拒否している。
エジプトで、新たな博物館を造るから目玉として展示するので貸して欲しいといってもみたが、「移動すると壊れるから。」とまた拒否している。

ネフェルティティから1300年後に、女王クレオパトラが現れる。
クレオパトラは、ギリシア人である。
クレオパトラの国、プトレマイオス朝はギリシア語が公用語である。
ナポレオン配下の仏軍がエジプト遠征の時に、ロゼッタストーンを発見して持ち帰っている。
ロゼッタストーンとは、ヒエログリフ解読の鍵になった石碑である。
現在は、大英博物館にある。
ロゼッタストーンは、ヒエログリフ(古代エジプトの神聖文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア語で、同一文が併記されている。


さて、クレオパトラの彫像も今回来ていた。
絶世の美女との噂がある彼女だが、像を見る限り、普通の女性である。
ただ、クレオパトラは物凄く頭が良かった。
7ヶ国語を操り、カエサル、アントニウスと名将を次々と取り込んでいく。
才覚があったことは確かだろう。
名将だが、田舎者のカエサルとアントニウス、アレキサンドリアで学んだ都会的な才女クレオパトラが素敵に映ったのかもしれない。
ましてや、相手は富も地位も名誉もある女王である。


エジプトの造詣に、ウジャト眼と言うのが頻繁に出て来る。

ホルス神の左目、ハヤブサの眼を表し、癒しの効果があるとされる。
海外でよく見かける、薬局の看板に書いてある「Rx」は、処方箋の意味である。
このRxは、ホルスの左目を表すヒエログリフが、Rxの文字に似ていることからつけられている。
ミイラの内臓を取り出した傷に、ウジャト眼の形の物をおくのである。
今回の展示にも、ウジャト眼のデザインの首飾り、指輪などかなりあった。
癒し、医療的な効果を狙ったものなのである。

ホルスとは、エジプトの神、オシリスとイシス夫婦の子である。
父オシリスが、弟セトに殺されバラバラにされ全国にばら撒かれてしまった。
母イシスが、それをかき集めつないで、包帯でぐるぐる巻きに。
だから、オシリスの姿は包帯ぐるぐる巻きのミイラ姿である。
包帯ぐるぐる巻きの後に生まれたのが、ホルスである。えっ。
そのホルスの左目が癒しのウジャト眼。

クレオパトラの王墓は見つかっていない。
クレオパトラを最後とする、プトレマイオス朝11人の王墓も未発見である。
アレキサンダー大王が遠征中に病死して、ミイラにされた。
彼の遺体が、故郷マケドニアに運ばれる途中、敵国のプトレマイオスに奪われるという事件が起きている。
おそらく、アレキサンダー大王のミイラもプトレマイオスの墓地にあるだろうと、識者の間では推測されている。
アレキサンダー大王の墓が見つかる時、女王クレオパトラの墓も発見されるかもしれない。

【2015.07.31 Friday 16:22】 author : いづな薫 
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大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)

今週は、出張で東海道山陽新幹線で何度も東京と西国を往復した。
大阪で立寄った、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、伝・仁徳天皇陵)の正面写真。

全長486m、幅305mの日本最大規模の前方後円墳である。
現在宮内庁管理の仁徳天皇陵とされているが、近年の発掘調査で出土した須恵器の甕(かめ)の破片から
古墳は5世紀半ば〜後半くらいに建設されたものだと推測されている。
仁徳天皇は、西暦で427年に崩御と考えられ古墳の被葬者としては若干無理がある。

「延喜式」では、「百舌鳥耳原中陵・もずのみみはらのなかのみささぎ」と書かれている。
「延喜式」とは、平安中期に出来た法律の施行時の細かい取り決めである。

墳墓のうち、前方・後円の前方で”長持型”石棺が出ており、甲冑、刀剣、ガラス壺が出土している。
前方後円墳の周りに、明治時代に掘り直した堀があり周囲2.8km。

ランナーや散歩を楽しんでいる人を多く見かけた。

【2013.03.29 Friday 21:19】 author : いづな薫 
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ギリシャ展


 大英博物館の古代ギリシャ展(上野)を、見て参りました。

彫像を見るたび、2000年前の古代ギリシャ人はこんな顔立ちかと見入る。
古代ギリシャ人は、人体を美の極地と考えていた。
極地と考える余り、スポーツの一瞬をとらえても、実際のスポーツ原理とはかけ離れたものになることがあった。

例えば、本邦初公開、「円盤投げ」。
美術の本でもおなじみ。
元はBC5世紀のミュロンの作品だが、現存せずローマ時代のディスコボロスのレプリカ。
ギリシャ彫刻大好きだった、ローマのハドリアヌス帝の別荘跡から18世紀に発見される。
理想の投げ方に見えるが、実は美術上デザインされたフォーム。
このフォームで投げても、円盤は上手く飛ばないそうな。
実際、1896年の第1回近代オリンピックでギリシャ選手がこのフォームで投げたが、あえなく失敗。
綺麗に見せるけれど、実世界とは違うのがギリシャ彫刻の特徴でもある。

彫刻の題材にもなっているギリシャの神々は、ちょっと悪い。
人間を越えた力を持っていながら、泥棒したり、体の不自由なわが子を捨てたり、浮気したりする。
模範的とは言えない。

だからこそ、人間の理想像こそ、神にふさわしいと考えた。
スポーツの技を競うオリンピック。ギリシャのオリンポスで、オリンピックが始まったのは、紀元前776年。
今のオリンピックやサッカーでも思うが、鍛え抜かれた体が躍動する美しさは、まさに神々しい。
震災避難所を見舞った砲丸投げの室伏選手なぞは、”生けるギリシャ彫刻”のようだ。

紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の東方遠征の時に、アジアにギリシャ風彫刻がアジアに伝播したと言われる。
仏像の中にギリシャ風の顔立ちが現れるのは、それからである。

【2011.08.14 Sunday 09:12】 author : いづな薫 
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ハートの土偶と、火炎土器

東京国立博物館で見た、ハートの土偶。縄文時代後期、紀元前2000〜1000年。
石囲いの中に横に寝ている状態で発見された。


火炎土器 縄文時代中期 紀元前3000〜2000年 
燃える炎を描写した縄文人の芸術が見事。

プチサッカー話題。
昨夜の、日本代表VSペルーはドローでしたね。アジアとはまた違う試合展開をする南米勢。
日本代表チームはいつもと違うメンバーで、選手達の連携がいまひとつ。
しかし、後半GK川島選手が、ペルーボールを何度も跳ね返したのは見応えがあった。

【2011.06.02 Thursday 08:42】 author : いづな薫 
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光明皇后の手蹟
 

今、墨が乾いたばかりのような、光明皇后の願経(がんきょう お経)。
東京国立博物館にて。
しっかりした文字で、末尾に天平十二(740)年五月一日の日付が見える。

1271年の時が、またたく間に過ぎたかのようである。

【2011.06.01 Wednesday 10:49】 author : いづな薫 
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仏教の道
 先日、アフガニスタン・バーミヤン遺跡の巨大石仏が、かつて赤や白、青に色鮮やかに塗られていたことが判明、と言うニュースが流れた。
この世に最初、偶像としての仏様が出現したのはアジャンタ石窟である。
日本に仏教が伝来する200年前のことである。
今日は、仏教伝来のお話。

アジャンタ→バーミヤン→敦煌→法隆寺、と仏教美術は西から東へ伝播して行く。
インターネットで、バーミヤン、法隆寺と同時に検索したら、法隆寺近くにある中華料理バーミヤンが出て来て、閉口した。笑

バーミヤン遺跡は、周知の通り、2001年にタリバンが、ボカンとやってしまい、今は、東大仏西大仏ともに失われている。
古代から続く標高2500mの都市、バーミヤンは、1世紀あたりから岩盤を削ってつくる石窟仏教寺院が建設され始める。
5〜6世紀の頃には、今回カラフルだと判明した西大仏55mと東大仏38mの2体の大仏が彫られている。
 都市バーミヤーンは、仏教文化が繁栄し、630年には、唐の玄奘三蔵が、訪れた。
彼が訪れた時、大仏は金色で装飾されていたと言う。
僧・玄奘は、道昭(どうしょう)の師で、道昭とは、日本に来た渡来僧で日本初めて火葬になった人物である。
道昭(どうしょう)の弟子が、奈良東大寺大仏建立に尽力した行基である。

法隆寺、鞍作止利(くらつくりのとり)作・釈迦三尊像の釈迦如来は、厩戸皇子(うまやどのおうじ・聖徳太子)の
等身大で作られたと伝わる。
釈迦如来は、身長175cm、厩戸皇子は当時の人としては、背が高い。

法隆寺をはじめ、寺院の塔頭には金堂と呼ばれるものがある。
なぜ金堂と言うか?
飛鳥時代、仏様は金属製で、金人(金銅仏)を納めて拝んだので、金堂と呼んだのである。

飛鳥時代、日本に仏教に伝来した。
仏教を受け入れることは、海外の新しい技術や知識を取り入れることでもあった。
外国文化を導入することで、日本の飛鳥の宮に国際文化が花開いたのである。

【2011.03.03 Thursday 08:31】 author : いづな薫 
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応神天皇陵立ち入り調査

5世紀前半に作られたと見られる、大阪羽曳野市の「応神天皇陵」の立ち入り調査が行われた。
宮内庁が管理する古墳時代の天皇陵で歴史研究のため立ち入り調査が行われたのは初めて。
 今回調査は、墳丘にめぐらされている”ほり”を囲む堤の部分。

 応神天皇とは、日本書紀第10巻に出て来る、数奇な運命のもと生まれた天皇である。
天皇は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)と呼ばれた。古事記では、品陀和気命(ほむだわけのみこと)で出て来る。
父は仲哀天皇、母は神功皇后である。
応神天皇は、「胎中天皇・はらのうちにましますすめらみこと」と言う、別名を持つ。
仲哀天皇が神功皇后と共に熊襲征伐に九州に出かけ、神懸りした神功皇后より住吉大神のお告げを受けた。
しかし、お告げを無視し非難しため、神の祟りが起き仲哀天皇は崩御してしまう。
神功皇后は、おなかに応神天皇を宿したまま、新羅(朝鮮)征伐に出かけたというものである。
神功皇后、夫を亡くした上マタニティー期で戦争指揮官、戦では軍規を重んじたと言う、
超が付くスーパーウーマン
古代は斉明天皇と言い、英雄ばりの女性が結構いる。

さて陵墓について、書きたい。
陵墓とは、宮内庁管理の皇室の墓である。
天皇、皇后、太皇太后、皇太后の墓をと呼び、その他皇室の人のを、という。
考古学者、歴史学者たちは立ち入り調査を40年以上前から、願っていたが、宮内庁は今も存続する皇室の廟であり、
静謐(せいひつ)を侵すと言う理由で許可して来なかった。
陵墓は整備のための護岸工事をするが、そのための立ち入り調査はしている。
歴史研究調査はしないのに、陵墓の護岸工事はしてしまうと言う、不思議なことになっている。
貴重な人類の遺産である、日本の墳墓の多くは研究がされないままになっている。
しかし、宮内庁は発掘調査は今後も認めないそうだ。
奈良県桜井市で、纒向(まきむく)遺跡の調査が進み、卑弥呼の宮殿ではないかと推測されている。
纒向(まきむく)遺跡に含まれる、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないか?とも言われる。
箸墓の近くで見つかった土器の年代が、炭素年代法で240〜260年と言う結果が出ているが、
宮内庁管理なので、それ以上の調査は行われていない。

ニュージーランドが大地震に見舞われたが、地震国の日本でも墳丘に地震被害と見られる崩落が陵墓地形図から確認されている。
 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま・応神陵)をはじめ、大山古墳(仁徳陵)、渋谷向山古墳(景行陵)にも被害が
見られる。
 宮内庁が、調査許可したくないと言う意見も、古代から伝わる神々を実在とし、神事を受け継いで来たことを考えると
理解出来る。
が、古墳を陵墓、または文化遺産として維持するには、やはり立ち入り調査は必要だと感じる。

【2011.02.25 Friday 20:35】 author : いづな薫 
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呪術の歴史
 中東レバノンの地下墓室から、呪いの鉛板が出たと言うニュースを見た。
2〜4世紀の物で、日本の京都、広島、国士舘の3大学が、発掘したと言う。
解読された文字は、鉛板に書かれ1000字を超えるギリシャ文字である。
ラブララライン〜の呪いの言葉(何だか可愛い、笑)に続き、「足のない神々、大天使たち」を呼び出し、呪いをかける人物4人に「私が望む通り、猿ぐつわと恥の印と不名誉を与えてください」、「彼らの体を衰弱させてください」、「イエスに勝利を、アーメン」などと書かれている。

 人間、心の闇は古今東西あるようだ。
日本の奈良時代、平城京でも、呪術に使われた呪いの人形が、たくさん出ている。
目や心臓に、木釘を打たれた人形。
呪詛が露見すれば、死罪や遠島の刑罰に処せられたが、それでも呪い殺したい相手がいたのだろう。

呪術は、呪いのためだけではない。
当時人々は、治療法のない恐ろしい病の流行に悩まされた。
天然痘である。
遣唐使船など外国から船が着くと、西の方から天然痘が流行り始めた。
高い死亡率のこの病気は、都の貴族も例外なくかかり、人々をパニックに陥れた。
奈良時代前半に、絶大な権力を誇った藤原4兄弟が次々とかかり、737年にすべて落命した。

平城京からは、人面を描いた壷、皿、かめ、そして呪符木簡が多数出土する。
壷は、贖の小坩(あがないのしょうかん)と言われ、素焼きの壷に墨で人面を描いてある。

人々は、これをなで、息を吹き込み、水に流す。
なので、奈良〜平安時代の川や水の流れ付近の遺跡からはこれらが多く出土する。
犯した罪や、疫病、穢れを吹き込み、水に流したのだ。
呪術は、疫病退散の重要なしきたりだったのだ。
疫病退散の呪術は、日本の古代から伝わる”祓(はらえ)”の儀式や、中国の道教を起源としている。

これを、大祓(おおはらえ)と言う。
6月と12月の、晦日の日にこれを行う。
人面を描いたかめ、壷と同様、人形代(ひとがたしろ)も、ひと撫でして、息を吹きかけ、穢れや罪を移し、川など水に流すお祓いの道具である。
奈良時代、天皇の使う人形(ひとがたしろ)は、年間1884枚にも及んでいる。

この風習は、現代でも続いている。
今12月、街中を歩いていると、神社の「大祓」のポスターを見かける。
今月末尾は大晦日、罪や穢れを水に流す日である。

災厄から逃れる方法は他にもある。
近畿地方に伝わる民間信仰に、蘇民将来(そみんしょうらい)と言う伝承がある。
蘇民将来”とは何か?
人の、名前である。

ある時、スサノオノミコトが旅に出て、とある村で宿を求めた。
弟で裕福な、巨旦将来(こたんしょうらい)は、貧しい身なりのスサノオを断る。
しかし、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は、裕福ではないが、スサノオを歓待して泊めた。
スサノオは、礼に茅の輪(かや草で作った輪)を与え、持っていると災厄から逃れることができると言った。
後に疫病が流行った時、兄蘇民将来(そみんしょうらい)は、難を逃れ、弟の一族は滅亡した。
別の説では、戦になって、弟巨旦(こたんしょうらい)の一族が、妻を除いて滅んだとも伝われる。
巨旦(こたんしょうらい)の妻は、蘇民の娘で、茅の輪を持っていおり、蘇民一族とともに難を逃れたと言う。


京都祇園祭の厄除けちまきには、「蘇民の子孫なり」と書いてある。
だから、災厄は来ないでね。と言う意味。


 本日京都清水寺で森清範貫主による、今年の漢字が揮毫(きごう)されました。
今年の漢字は、「暑」だそうな。
私は、「熱」かな?と予想しました。暑い夏とワールドカップに熱狂したので。笑

【2010.12.10 Friday 20:34】 author : いづな薫 
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斉明天皇陵隣りで、石室出土
明日香は、何が埋まっているか分からない。

斉明天皇陵だとほぼ確定の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村、7世紀後半)が話題になって間もないのに、
今度はお隣から、今度は孫娘の大田皇女(おおたのひめみこ)のお墓らしき石室が出て来た。
越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)と、名付けられている。 

斉明天皇陵の牽牛子塚(けんごしづか)古墳を埋め戻していた時、古墳の南東20mの所にある巨石が知られていたと言う。
巨石の周りを1m掘り下げた時、スコップがガチンッとあたり、石室の底板を発見したという。
床石の大きさは、縦横300×350cm、石室は縦横高さ、240×90×60cm。
2枚の石の総量80t、さすが石文化の女王の孫
調査中の明日香村教育委員会によると、この石室も斉明陵と同様、巨石をくりぬいた石槨(せっかく=石室)構造だと言う。
なお、墳丘は崩れており、墓全体の形や大きさは不明である。
日本書紀には、斉明天皇の墓の近くには、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓、との記述があり、それを裏付ける発見となりそうだ。 
 牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の被葬者は、斉明天皇との説がより強まったと言える。


大田皇女(おおたのひめみこ)、スーパー女帝斉明天皇の孫で、天智天皇の娘で、天武天皇の孫と言う、血筋である。
ちなみに天智と天武は兄弟なので、血がめちゃくちゃ近い。
大田皇女(おおたのひめみこ)の息子には、悲運の皇子、大津皇子(おおつのみこ)がいる。
持統天皇は、大田皇女(おおたのひめみこ)の同母妹である。
そして、大田皇女(おおたのひめみこ)、持統天皇、ともに同じ天武天皇の妻であった。
大田皇女は、若くして亡くなり、妹の持統天皇が皇后になった。この時は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と言った。
分かりにくいので、持統天皇で統一。
持統天皇には、草壁皇子と言う息子がいた。
これを皇位継承者にするため、姉の子・大津皇子が邪魔になる。
父親、天武天皇が崩御すると、大津皇子は謀反の疑いで捕縛され、死を賜った。
大田皇女(おおたのひめみこ)が若死にしなければ、彼女が皇后になった可能性が強い。
ならば、大津皇子の悲劇もなかったかもしれない。

【2010.12.09 Thursday 21:58】 author : いづな薫 
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ストーンヘンジに行くんだ!

 
ストーンヘンジに行くんだ

誰が?いづなではない。
3550年前の少年がである。

イギリスの巨石文明ストーンヘンジ(イングランド南部のソールズベリー近郊)、を皆様ご存知のことと思う。
 観光客が押し寄せる、世界遺産だ。

そこから5kmのところで、2005年見つかった、14,5歳の少年の遺骨。
彼は首に、約90個の琥珀ビーズのネックレスをしている。
その少年の歯を調査したところ、地中海沿岸から来たことが分かった。

歯に含まれる、酸素とストロンチウムの分析で分かったそうだ。
ストロンチウムは、人体に毎日2喞度、食物から摂取され、骨や歯に蓄積される。
酸素とストロンチウムの構成比率は、気候や地質条件により異なる。
木で見る年輪年代測定法のように、どんな場所でその年どんな気候だったかなど痕跡が人の歯にも記録されるのである。
 こうして、琥珀の首飾りの少年の出身地が明らかになった。
 
琥珀は、木の樹脂が地面の中で長い年月かかって、固くなった宝石である。バルト海沿岸が産地だ。
少年の生きた時代すでに、琥珀は舶来宝飾品で、それを身につける少年は、とても身分が高く、裕福な家の子であろう。

地中海から、イギリスのストーンヘンジまで約800kmの道のりを、少年は、家族と旅をしていたのだろうか。  
 当時のお金持ち達は、琥珀などの宝石を求めて、旅行したらしい。それが名誉になったとも。

 それにしても、イギリス海峡はどうやって渡ったのだろう。
3500年前縄文時代の日本は、大木をくりぬいた、丸木舟で魚などを採っていた時代である。
 もう少し進んでいるにしても、家族で頑張って、小さな手漕ぎ船で渡ったのかもしれない。
 その東端のドーバー海峡を、泳いで渡る人もいるから、渡れるか。笑

 ようやくたどり着いた、ストーンヘンジで、彼は息絶えた。
外傷はなく、感染症で亡くなったらしいとのこと。
 3550年前の家族の悲嘆が、目に見えるようである。

ストーンヘンジは、当時身分の高い者が埋葬される地として有名だった。
ストーンヘンジ製作に係わったとされる、“エイムズベリーの射手”と言う人物も、ストーンヘンジから5kmの所に埋葬された。
 ストーンヘンジは、240人ほどの墓が見つかっている。彼は最も早く、4400年前の人だ。
しかも、出身地はドイツアルプスの麓。 

 世界遺産のストーンヘンジは今日も観光客を集めているが、古代から、まだ見ぬ土地への憧れ、旅へと人間をいざなったらしい。


【2010.10.29 Friday 23:16】 author : いづな薫 
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