大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 坂の上の雲 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
戦艦三笠の衣食住
戦艦三笠を見てきたが、武器以外の軍艦での衣食住も見学できて実に面白かった。


左: 横須賀の海岸べりの陸に固定されている三笠。(海に浮かんではいない)。
   
右: 無線電信室 明治38年(1905)5月27日五島列島西において哨戒中の信濃丸から発信された「敵艦見ゆ」は
   第3艦隊旗艦厳島を経由して、三笠のこの無線電信室に届いた。

敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」も、この部屋から大本営に送られた。
甲板床は貼りかえられているが、無線電信室の前の床だけは、当時のまま。この部屋の前を、東郷長官や秋山参謀が歩いた。


船の高い部分にある、艦橋の床に貼られた東郷と秋山のプレート。ここに立ち、日本海海戦に臨んだ。
東郷の胸先15cmほどの所を、砲弾の破片が飛んだと言う。
ここに立ち、写真を撮るのが人気だそうだ。

大東亜戦争後、戦勝国の旧ソ連は三笠の解体を要求。
しかし、マストや艦橋など上ものを撤去することで落ち着き、アメリカ人のために娯楽施設「キャバレー・トーゴー」や水族館が出来る始末。
戦後の物資不足で、金属類や甲板の木材が剥ぎ取られ、荒廃した。
現在あるマストなど上部構造物は、復元されたもの。


日本海海戦で、東郷は「自分は艦橋に残る。皆は司令塔に入るように。」と促す。
司令塔は、厚さ35cmの鋼鉄の壁で覆われている。中には羅針盤、舵輪(だりん・舵をとる輪状のハンドル)、通信機がある。


左: 長官公室 連合艦隊の各艦長や司令官との作戦会議に使用された部屋を再現。
右: 東郷の礼服。東郷は身長153.5cm。並外れた胆力の長官は小柄である。


親友の広瀬武夫が亡くなった時、秋山真之が洗面器で顔を洗う。ドラマそっくりの部屋がある。
船が英国製なので、バスタブトイレとも洋式。奈良ホテル(ドイツと和の折衷)や上野の岩崎邸(英国人ジョサイアコンドル設計)に通じるものがある。
右は、お茶の準備をする部屋。


水兵はハンモックで寝る。砲床や砲弾のある部屋で寝て、テーブルと椅子を出して食事もした。

三笠から約40年後に建造された大和は冷暖房完備だったが、三笠はまだ冷房がない。
軍艦は鋼鉄製、夏はフライパンの上にいるようなものでとんでもなく暑いのだ。
バルチック艦隊も同じで、欧州からアフリカ最南端の喜望峰を周って、鋼鉄製の船が酷暑の地域を就航するのは大変だった。
三笠は、甲板に敷き詰めた木製床と大型ダクトが夏の熱を逃がし、暖炉で冬は暖を取る。

食料の3分の2は生野菜、魚、肉が供給され、キッチンでは乗組員860名の食事が作られた。
牛肉に至っては生きた牛を積み込み、屠殺して料理している。
70〜80名の戦地漁船団がいて、新鮮な魚を供給し、刺身やあらいなども食べられた。
デザートのアイスクリーム製造機まで積まれていたと言うから、かなりの贅沢だ。
日本でアイスクリームの製造販売が始まったのが明治2年、その美味しさは軍艦の上でも楽しまれていた。
私は料理が好きなので、軍艦の調理、食事には大いに興味を引かれた。
さらに酒の売店、洋服屋や洗濯屋も同乗して至れり尽くせりである。

とある日の兵士の食事
白米と割り麦のご飯、レンコンといわしの煮込み、大根漬け。
別の日には、牛肉やパンなど洋食メニューもある。
朝食は午前7時、昼食11時45分、夕食3時45分。
夕食が早いのは、寄港地で出かける兵士たちを考慮したものである。

日本古来の体質と言ってもいい、物資輸送欠如に悩まされた陸軍とは別世界である。
物量、技術、機械力を重んじた海軍らしい暮らし向きが伺えて大変興味深い。

【2012.01.06 Friday 19:43】 author : いづな薫 
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戦艦三笠
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今日はここにいます。
「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ。」のZ旗もあがっています。

【2012.01.04 Wednesday 15:09】 author : いづな薫 
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坂の上の雲感想 「日本海海戦」

日本海海戦の最中、砲弾の大音量の中、メガホンと大声と黒板で伝達して行く様子が興味深い。
炸裂する轟音の中では、人の声はかき消され、そのほかにもラッパを使い音を何回と決めたりして、伝達に正確と迅速を期している。

その砲弾だが、日本が使った火薬を下瀬火薬と言う。
発明家であり、海軍技師・下瀬雅允(しもせまさちか)が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬である。
これが、鉄をも燃やすと言われた、当時驚異的な焼夷力を持っていた。
日露戦争の勝因の一つと言われた爆薬でもある。
破壊力が主なロシア砲弾に比べ、日本のは命中弾が炸裂しことごとく火災を起こした。
戦の前には、燃えやすい机や椅子は海に廃棄するが、ロシアの高級軍人の中にはこれをしない者がいた。
撃ち込まれた日本の下瀬火薬によって着火し、大火の元となったのである。

日本艦隊の被弾は三笠に集中し、右舷40発、左舷8発を吸い込んでいる。
多数の死傷者を出し、東郷の胸先15〜6cmの所を砲弾の破片が飛んでいる。

この時の日本の戦艦は4隻、装甲巡洋艦8隻など計108隻、ロシアは戦艦は8隻他、計38隻。
戦艦三笠が1番前を航行し、盾となるのは東郷は覚悟の上だったろう。
日本艦隊の中に「日進」と言う、三笠の次に被弾量の多かった船がある。
7700トン、戦艦三笠の半分くらいの装甲巡洋艦である。
装甲巡洋艦とは、速力こそ速いが、戦艦のように装甲版が厚くなく、積載している大砲も小さい。
日進は装甲巡洋艦なのに、仰角が大きく射程距離の長い砲弾を積んでいたため、戦艦三笠の近くに置かれてしまった。
東郷と秋山真之が実行した、敵の頭を抑えるT字戦法は、戦艦の装甲版の厚さと大砲の威力でこそ可能な戦術で、装甲版の薄い小さな「日進」が付いて行くのは無理がある。

ロシア砲弾が、日進の薄い装甲版を破り被害を多く出し、司令官三須宗太郎(みす そうたろう)中将以下、多くの死傷者を出した。
三須宗太郎(みすそうたろう)は、幕末暗殺された井伊大老の彦根藩出身で、薩摩閥に占められた海軍において、異例の出世した人物である。
重傷者の中に、高野五十六と言う候補生がいる。後の、山本五十六である。(日進の砲身内で誤って破裂したための怪我の説もある。)

東郷は、秋山真之の立てた戦術どおりに艦隊を動かしている。
真之の立てた戦術とは、「まず敵の中心的存在の旗艦スワロフを討ち取る。全力をもって敵の分力を撃ち、敵を包むが如く運動する。」
これは、日本古来の水軍が用いた戦法である。

ロシアと日本の射撃法が異なる。
日本が、ロシアの頭を抑えるべく回り込む間、日本艦隊は大砲の角度から砲撃は不可能に近く、敵は静止目標を撃つ如く砲撃しやすい。
この間、ロシアは散々撃ってはいるが、それぞれ勝手に撃つため、海に落ちた砲弾の水煙が上がり、正確な距離が分からないでいる。
日本は、回りこみ運動をしている間こそ、撃たれっぱなしだったが、それが終わると、三笠の被弾量の比でないほど、ロシアに命中弾を打ち込んでいる。
 試し撃ちを一度して弾着地点を見極め、それを三笠にいる砲術長の安保清種(あんぼきよたね)が各艦に”敵艦までの距離”を伝達したのである。
安保清種(あんぼきよたね)は前回の感想にも書いたが、真之の阿波踊りを目撃し、東郷に「どちらで戦をなさるのですか!?」と聞いていた人物である。後に海軍大臣になった。

日本の鮮やかな勝利は、日本の頭脳戦によるものである。
勝利は不可能の言われた戦争に、考え抜くことで勝利を引き寄せ、精神論を持ち出さず、より敵に多くの命中弾を送り込むことで、機能と合理性に徹している。
勝つためには、勝てるような条件を揃えなければならない。
東郷のような、勝機を掴む勘も必要だ。「勝機を掴んで猛撃を加える。」ことが海戦で勝つために必要なことだと東郷は後年述べている。

戦争のみならず、震災後問題となっている原発など変革しなければならない諸問題についても言える。
変革させるためには、”無能な指揮官を排除して、勝てる条件を揃えなければならない”と言うことだ。

日露戦争後、秋山兄弟が、故郷の愛媛で釣りを楽しんでいるのが良かった。

「おまえは、ようやった。」と弟を褒める、兄好古。
悪童だった真之が、10歳違いの兄を終生尊敬していて頭が上がらなかった。

真之が生まれた時、貧乏で、貧乏で親が、「赤ん坊を寺に入れる。」と言うのを、この兄が「お豆腐ほどの厚みのお金をこしらえてくるから、寺にやらないで。」と懇願した。
兄は、本当にその通りにした。

100年余り前、日本存亡の危機をその知恵と明るさで乗り越えた、兄弟と家族、親友の良い物語を見せていただいた。
心より、感謝したい。


【2011.12.27 Tuesday 20:02】 author : いづな薫 
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坂の上の雲感想 「敵艦見ゆ」
 不思議な逸話がある。

バルチック艦隊が日本海、太平洋側いずれを通るかで、日本中が神経をすり減らしていた頃、明治帝・皇后の夢枕に
白い着物の侍が立った。侍は、言う。

「バルチック艦隊東航については、御心配なさることはない。」
白い着物の侍は、更にこう言った。

わが名は、坂本龍馬。


白い着物は海援隊の制服か。

参謀・秋山真之も脳漿を搾り出すほどに悩んでいたが、東郷の不動の考えにより、対馬側日本海の方に確信を持つ。
なぜ東郷が、確信を持って「対馬」と言ったか。

・バルチック艦隊は、東洋の海路に暗く距離的に遠く燃料不足になる可能性がある太平洋航路を行かない。
対馬側を行く方が近く、航海も安全である。
・喜望峰を周る長い船旅をして来たバルチック艦隊の船底には牡蠣(かき)など貝類がくっついて、船のスピードを鈍らせている。
太平洋を回れば、足の早い日本艦隊に追いつかれる可能性がある。
・太平洋周りでウラジオストックに行くには、大回りの上、宗谷海峡を通らねばならない。
宗谷海峡は霧が深く、大艦隊が航行するのは難儀である。
慶応4年(明治元年)に真之が生まれた時、東郷はすでに薩摩藩士として海で戦っていた。
幕末から40年もの間、薩英戦争、戊辰戦争、阿波沖海戦、函館戦争、宮古湾海戦と歴戦して来た東郷平八郎と言う人間の勘もあるだろう。

ドラマの中で秋山真之と共に東郷の言葉を聞いていた島村速雄が、「敵がいくらかでも航海と言うものを知っていれば、必ず対馬海峡を通る。」と述べている。

秋山真之は、心身の限界まで考え抜いても答えは出なかったが、東郷の他にも「対馬に来る」と見ていた人間は多かった。
東京の大本営、他の軍艦の幕僚たち、太平洋戦争終結の時首相だった、鈴木貫太郎(赤井秀和さん)もそう見ていた。
東郷のそばにいる真之は、小さな可能性も排除できず判断材料に入れ悩むが、一歩離れてみれば大局が見える。
的確な形勢判断を行うことが出来る。

「敵艦見ゆ」の時、兵士たちと体操していた秋山がとたんに阿波踊りしたのがおかしい。
これは事実で、見た者がいる。
浜口雄幸首相(任期1929〜1931年)時、海軍大臣になった安保清種(あんぼきよかず)と言う人物である。
バルチック艦隊が三笠前方8000mに迫り、東郷に「どちらで戦をするのですか?!」と怒鳴った人物である。
この後、東郷は手を挙げ、左側を指し示した。
三笠の砲術長安保も、射撃を指揮し功績を挙げている。

戦術と言うものは、敵を撃滅させるだけの準備をし、撃滅するのに都合のいい場所におびき寄せ、気象を最大限に利用する。
これに、戦術家は己の知力体力のすべてを費やすものである。
バルチック艦隊が思い通りの所に来たと言う、真之の狂喜が阿波踊りに現れている。
真之の有名な言葉、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」。
濃霧でバルチック艦隊を取り逃がす心配はない、との意味である。

ただ、日本海海戦、日本艦隊の被害も甚大なものだった。
特に秋山や東郷が乗る三笠に多く命中し、50発近く被弾している。
東郷自身、自分の戦死と三笠沈没も計算に入れた末の判断であった。

追伸2つ
・戦国カフェ読者様にはおなじみですが、春日山城にある春日山神社・石碑の揮毫は東郷平八郎でござる。
・坂の上の雲とバルサの試合をテレビ2画面で見ていたが、バルサの技は桁違いに凄い。
サントスのエース、ネイマールがバルサ監督に「僕を連れて行って欲しい。」と直訴したそうだ。


【2011.12.20 Tuesday 21:44】 author : いづな薫 
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坂の上の雲感想 「二〇三高地」
 クラブワールドカップも見るつもりだったのに、旅順戦のあまりのすごさにサッカーを見損ねてしまった。
その「坂の上の雲」感想行きます。

旅順の乃木軍が動き出すのは、毎月26日と決まっている。
もちろんそれをロシアは知っていて、大量破壊兵器で待ち構えていれば、日本兵を虫けらのごとく殺傷できる。
なぜ、26日かと言えば、
1)南山の戦で勝利したのが、26日だった。
2)前の戦争から火薬の準備するのに1ヶ月かかる。
3)26と言う数字は偶数で割れる。要塞を二つに割ることが出来ると考え縁起が良い。

この程度の頭が、何万もの兵士の命を左右しているのである。
彼らに、旅順攻撃3度目で送り出されてしまったのが、白襷隊(しろだすきたい)である。
各師団から選抜された決死部隊である。彼らの夜襲をロシア軍のライトが照らし、白襷がはっきりと見え砲撃されて、大損害を受けた。
奇襲は、本来なら敵の手薄の箇所を狙って攻めるのが正しい。
これを敵の正面、防御の最も分厚い所へ目立つ白襷をつけて、しかも兵士を小出しに出撃させたのだから、自殺行為に等しい。
最もやってはいけない戦法である。戦法ですらない。
日本の命運が、これらの無能司令部に握られていたのだからぞっとする。
その点まだ海軍は、海上から要塞に向けて攻撃しその堅固さを身にしみて知っている。

明治政府は、これまで戦闘員ではなかった国民を兵隊として戦地で死ぬことを強要した。
戦国時代の兵たちは職業軍人であり(半農もいるが)、仕えるあるじが無能であれば、幾度でもあるじを換えた。
無能のあるじは容赦なく見放され、名門であっても滅びる。
領国を守り生き残るためには、武将は常に有能でなければならなかった。
しかし明治期の徴兵によって駆り出された一般庶民は、あるじがどんなに無能でも換えることは許されず、服従以外にない。
命令に反したり脱走すれば、軍法会議にかけられ死刑を含む厳罰が処せられたのである。
ドラマ中、旅順に駆けつけた児玉源太郎が、乃木の参謀副長大庭を「作戦には何万もの命がかかっている。」と叱っていた。
この大庭は責任を問われ後に左遷されるが、その後結局大将に出世している。
かれは、1万人以上の凄まじい損害を出した第一回旅順総攻撃の立案者である。
長州出身の大庭は、長州閥と言う生まれのためにその地位を保証されているのである。
乃木も同じくだ。
彼は2人の息子を戦死させている。
当時、乃木の指揮官としての評価は決して高くない。
失敗続きの作戦に、わざと病気になり軍から逃れる者もいた。
多大な死傷者を出してしまった乃木、彼の息子の死も同情どころか当然と言う意見さえあった。
(ドラマでは伝令に走る保典がんばれ!と思ったが。)
その作戦・指揮能力がないにもかからず、その地位と体面を児玉にしろ大山巌にしろ守ってやっている。
伊地知に至っては、戦後の論功行賞で何と男爵になる。
旅順で、信じられないような愚策を司令部が行った結果、死傷者なんと6万人に及んだ。
世界戦史上、これほど多大な損害出したのは稀である。

例えば、信長や秀吉は戦の天才ではない。
それが天下人に成り得たのは、軍事的観点から言えば、敵の倍もの軍勢を集め、補給を十分にし、敵を殲滅させるのに都合のいい場所におびき出し、優位に戦を進める戦法に他ならない。
織田信長の偉いところは、一か八かの桶狭間のような戦を、その生涯ただ1度にとどめたことである。
個々の侍の能力を言えば、武田や上杉の方がはるかに上である。
特に越後武者は上方武者の4〜5人分に匹敵すると言われた。
たくさんの有能な武将を抱える、または奇襲戦により勝利できるのは、よほど出来た武将または一部の天才のみである。

江戸時代、幕府が取り入れたのは、信長や秀吉の物量勝る合理的な戦法ではなく、武田流軍学のような個々の能力頼った軍学であった。
現に、日露戦争の日本兵は世界の兵士の中でも最も勇敢な部類で、武道の個人技は大柄なロシア兵士の上を行く。

乃木と言う人物は責任感が強く真面目で誠実、そして大人しい人物であった。
ドラマにも出て来たように、吉田松陰の叔父・玉木文之進に教育を受けている。
松陰もこの叔父に習い、玉木は厳しい人で叱る時は松陰をひどく殴ったという逸話が残る。
私心をなくし、己のすべてを公のために使う教育を叩き込んだ。
それは、頬に虫が止まり掻くのも私心だと言う程だったと言う。
この玉木が、少年時代の乃木を武士として徹底的に教育した。
精神面の教育はしたが、如何にすれば戦に勝てるかの実践教育はしなかったのであろう。
乃木が司令官になり、旅順の近代要塞を前にしてもその見識も、知識を深めようとしたふしもない。
一つ乃木を弁護すれば、軍略に長けた児玉が参謀本部から優秀な人材を引き抜いてしまい、無能な人間が乃木の元に残った。
それを黙って受け入れるのが、いかにも乃木である。

最初秋山真之が、「2階から石を落とすごとく、旅順港にいるロシア艦隊を砲撃してくれればいいんです。」と言った頃とは比べ物にならないほど、二〇三高地は堅固に要塞化している。
ロシアは、乃木が二〇三高地のみに焦点を絞って来たことに気付き、衛生兵をも駆りだして軍備を固め始めた。
二〇三高地を攻める時を遅くしたのが、より被害を拡大させた一因でもある。
チャンスと利点をことごとく無駄にしたこの司令部の戦術を語ってもしょうがないが、戦術は本来、時、天候、地の利、運のすべてを無駄なく駆使しなければならない。
一瞬のチャンスをモノに出来るか否かが、名将と凡将の分かれ目である。

当時、指揮官は兵士が束で死んでもいちいち感情を交えてはいない。
指揮官自身も、己を戦略の駒の一つとして見ていただろう。
個々の人間の幸せを考えれば、明治期は重税、徴兵、戦争と極めて厳しい時代である。
しかし、身分制度を固定した幕府が倒れ、学問すれば誰もが出世出来、その開放感と楽天的な国民感情が戦争の悲劇さえも受け入れたのかもしれない。

さて、クラブワールドカップ柏レイソルが世界の4強に残ったので、14日は必ず見ることにします〜。

【2011.12.13 Tuesday 11:09】 author : いづな薫 
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坂の上の雲感想 「旅順総攻撃」
 バルチック艦隊が来る前に、旅順港にいるロシア艦隊を追い出さねば、日本は壊滅する。
ロシア艦隊を追い出すただひとつの方法は、旅順港の岸壁にある203高地を奪取し、2階から石を落とすごとく、砲撃することである。

しかし攻めようにも、旅順港の周りの陸地には、幾重ものロシア要塞が日本軍の進攻を阻む。
ロシアは旅順要塞を作るにあたり、20万樽以上のコンクリートを使い野戦用の砲塁を構築していた。
大小の大砲は70門、銃を打ち出す銃眼が並び、その前方部には、敵兵を吹き飛ばす地雷源、鉄条網で取り囲み、
機関銃を備えている。
銃と剣だけが武器の日本兵が要塞に近付き、砲火で粉砕される。
仲間の屍を乗り越え、兵士が傷付きながら有刺鉄線を切り進んでも、機関銃で虫けらのように蹴散らされる。
数少ない生き残りの日本兵が要塞にたどり着き、弾を放っても要塞はさしたる傷も受けない。
日本兵だけがミンチにされていくと言う、凄まじさである。

多大な死傷者を出した理由は、火器に関する知識が欠落した愚劣な陸軍指揮官の命令と戦術そして補給の欠如である。
原作者の司馬さんが書いているが、「遼陽作戦を始めるにあたって、日本が用意したのは、砲弾でなく、骨箱である。」(ロシア史料)
当時、日本で砲弾を作っていた、大阪と東京の砲兵工廠の生産力は1日300発程度である。
これは、砲兵一個中隊(百数十人くらい)が7分30秒で撃ってしまう量である。
戦争準備として、使う砲弾量を計算し、足りなければ当然、砲兵工廠の生産拡大したり、輸入を考えねばならない。
この当たり前の思考力がまるっきり欠如し、武器も戦術もないのに、前線の兵士の勇敢さのみで戦争している。

ドラマ中の乃木が、「弾がなければ、肉弾を送らねばならない。」と言っていた。
全く同意できない。命がけなのに、上官が無能なことほど悲劇はない。
乃木だけでなく、参謀長伊地知、そして陸軍全体が世界常識と技術・想像力に欠けているのだからたまったものではない。

銃と剣の日本兵はロシアの機関銃に大打撃を被るが、日本にはすでに機関砲(銃)があり、戊辰戦争時使われている。
構造こそ違うものの、長岡藩家老の河井継之助や肥前国佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしま かんそう)が購入した物も機関砲だ。
しかも、元帥陸軍大将の山県有朋は、かつて長州藩の山県狂介(きょうすけ)と名乗っていた。
戊辰戦争の時、長岡藩の河井継之助と戦い、河井の機関砲にずいぶん苦しめられている。
なぜかこの陸軍の法王のようになった人物は、機関砲についてその威力も攻撃力も日本のために役立てなかった。

一方海戦は、装備と数の戦いである。
当時の海軍に、薩摩出身の山本権兵衛と言う人物がいる。
彼の優れた計算能力と慎重性は、無能な軍人をクビにし、海戦での装備と方法を極めさせた。
兵器の性能を極めて重視したうえ、日露戦争の前に戦艦を買い揃えることに熱心だった。
当時はイギリスからのの輸入品が多く、最先端のものである。
幕末維新からわずか30数年で、未だ日本は貧乏である。
しかし、明治の日本人は、侵略を受けたことのないゆえの素直な受容性で、外国の技術を取り入れ、列強並みの軍艦を揃えたのである。

ロシアによる朝鮮半島の支配は、日本にとって極めて脅威である。
日本が植民地化される布石と思い、明治の日本人たちは戦争を決意している。
防衛のための戦争という難しいテーマに、作者の司馬さんが生前、映像化を許可しなかった作品である。
この作品には、明治時代人の明るさと共に、司馬さんの痛烈な日露戦争の反省がこめられている。
日露戦争を、日本人は評価し過ぎた。
陸軍は、その経済格差・文明格差のままに銃剣突撃の精神論のみでロシアに挑み、多大な死傷者を出したにもかかわらず、戦術、補給など失敗を反省しなかった。
奇襲戦、精神論のみが肥大化し、太平洋戦争で壊滅に至るのである。

明治は、初めて武士や軍人など戦闘員以外の国民が戦争に駆り出された時代である。
残念ながら、国家は国民に福祉のみ与えるものではない。
植民地化を避けるため、望まなくても戦わざるを得なかった人たちを思い、この作品を鑑賞するつもりだ。

PS.繁忙期のため感想遅れました。お読みくださる皆さま、ありがとうございます。
   1年ぶりの坂の上の雲、楽しみにしてました。
   次回は白襷隊(しろたすきたい)の登場か?司馬さんいわく、”世界戦史上稀に見る無能司令部”が考え付いた
   作戦である。

【2011.12.06 Tuesday 21:16】 author : いづな薫 
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旅順港閉塞作戦の石


 写真は、逗子市亀岡八幡宮の、旅順港閉塞作戦に使われたバラスト石で作られた記念碑。
そのお話を歴友かめこ様にしたら、さっそく行って下さいました。
 かめこ様撮影、バラスト石(重し)の記念碑。

広瀬中佐がこの石を船に積んで、旅順港に向かったんですね。戦後船から引き上げられ、記念碑になっています。
なお、石は、全国各地にあり、横須賀の戦艦三笠や、東京の妙像寺、大分の広瀬神社にもあります。

【2011.01.05 Wednesday 22:07】 author : いづな薫 
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坂の上の雲、感想 「広瀬、死す」

 広瀬武夫、坂の上の雲の中でも、最も印象深い人物だった。
以前にも書いたが、広瀬を失ったアリアズナは、日本に近い極東ウラジオストックで看護師をしたと言う。

 旅順閉塞作戦の報国丸に、ロシア語をペンキで書く広瀬。
「尊敬すべきロシア海軍諸君。請う、私を記憶せよ。私は、日本海軍の広瀬武夫である。」
原作にもあったが、これを見たロシア海軍大佐ブーブノフが記憶していた言葉だ。
 ドラマで、日本人の大機関士が、なんと書いてあるのですか?、と聞いていた。
彼も、ブーブノフと似たような内容の広瀬の言葉を記憶している。
この大機関士を、”栗田富太郎”と言う。
後に海軍機関少将になる人物だが、彼の名をしばし記憶して欲しい。

 また、広瀬は、報国丸の船上で、ペテルブルクにいるアリアズナと、旅順に停泊中の戦艦ツェザレウィッチにいる
友人のボリスに向けて最後の手紙を書いている。
「今不幸にして、貴国と砲火を交える関係になったのは、まことに残念である。
しかし我々は、各々の祖国のために働くのであって、個人としては友情に少しも変わりない。」

広瀬の高潔な精神と明るく優しい人柄が、100年以上経った今でも惜しまれる。

ドラマ中の先任参謀、有馬良橘(りょうきつ)の作戦が、どうも精神論じみて良くない。
この戦争から35年後に起きた太平洋戦争では、精神論のみが肥大化し、日露よりもさらに悲惨な戦争に駆り立てることになる。
有馬は賊軍とされた紀州藩の出身で苦労人だが、どこまでも合理的思考の秋山真之と比べ、参謀としてはどうにも不安だ。
旅順要塞は近代兵器で固められ、サンチアゴの1000倍の火力があると指摘されているのに、血書を持って来た水兵の姿を見て意気高揚しているのが、作戦失敗を暗示している。

ロシアの至宝、世界的名将と言われた、海軍中将マカロフ。
ロシア将校は貴族出身者が多いが、彼は平民出身で兵士達に大変人気があった。
個人的に興味を持ったのは、秋山真之が、マカロフを謙信に似ていると考えたことだ。笑
戦法にスピードがあり、攻め方が鋭いことからそう考えた。
一つ本物の謙信公と違うのは、マカロフ中将が、機雷に当たって亡くなったことだ。

 ビジュアル的にも、有馬の乗る千代丸が砲撃で傾く様子など、息を?むようなシーンがあり、映画で見たいと思わせる。

2回目の閉塞作戦、福井丸からカッターボートに移り、脱出中、広瀬は砲弾を受け、体ごと持ち去ってしまう。
彼の近くに、”上記の、大機関士・栗田富太郎”がいた。
この栗田の帽子やコートが東京・靖国神社や大分・広瀬神社で広瀬の血痕がついたまま、今も保管されている。
閉塞船に積み込まれた岩石も、東京の妙像寺をはじめ、日本各地に残る。

広瀬が指揮した福井丸は、日露戦争後の明治40年に引き上げられ、解体された。
木材の一部が現在も保存されている。
京都舞鶴市の海軍記念館には、福井丸からカッターボートに乗り移る広瀬や部下の様子を描いた絵がある。
この絵の額縁が、福井丸の木材で出来ている。
フナ虫に食われ、かき殻が付着している額縁である。

ロシア海軍を封じ込める、唯一つの方法。
陸から、旅順要塞を攻略すること。
これが、閉塞作戦どころではない、甚大な被害を出すことになるのだが・・・。
来年分のドラマが、待ち遠しい。


【2010.12.27 Monday 14:01】 author : いづな薫 
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坂の上の雲、感想 「日露開戦」
 今回、特に興味ある人物が3人いる。
1人は、対ロシア工作員である、明石元二郎
2人目は、金子堅太郎。伊藤博文が、金子に渡米しルーズベルト大統領に日露戦争終戦を助力してくれるよう頼んでいた。
3人目は、戦費調達した高橋是清である。ドラマにこのシーンは出ていないので、高橋については割愛。

戦争勝利は、実際戦場で戦う軍人たちの作戦行動の他に、裏工作によるところが多大である。
彼らは、地位も身分もあったが、いわば裏工作要員である。

明石元二郎、ペテルブルグのほの暗いトンネルで、ロシアスパイが捨てようとしたタバコをくれ、と言った人物である。
彼は、れっきとしたペテルブルグ日本公使館の駐在武官である。
「ポーランドの若者が、戦争に駆りだされ、ロシア政府への不満が高まっている。」そう、スパイは言う。
実際、徴兵、貧困、民族問題で、当時ロシアは皇帝専制政治への今にも点火しそうな火種を抱えていた。
これらに火をつけ、ロシアに内乱を起こし、対日戦争どころではなくしてしまおうというのが、明石のもくろみである。

忍者などで、日本の戦国時代盛んだった諜報活動は、江戸時代にすたり、明治になり再び必要とされてきた。

戦国時代の話を、例を挙げる。
日本の戦国時代、敵国に忍者が行って、誤った情報をわざと流し、戦力を削ぐのは常套手段である。
これを明治期において、対外的にやるようになった。
幾度も書いているが、希代の戦術家であった上杉謙信公の強さは、正確な情報と情報変化による臨機応変な戦術によるところが大きい。
人よりも早く、多く情報を握り、巡ってくるわずかなチャンスを逃がさない。
勝ちは、早い方が良い。
戦が長引いて、勝つと言うことはあまりない。
長引くと、人が多く死に、戦費が増加し、国が疲弊するからだ。
秋山真之も、信玄や謙信を盛んに研究している。その手紙に謙信の言葉が引用されるくらいだ。

明石元二郎の対ロシア工作は、戦艦1隻、2隻にも匹敵する効果があったに違いない。

2人目の興味深い人物、金子堅太郎について挙げる。
彼は、日露戦争時米国に渡り、日本の戦況が有利なるよう工作した人物である。
ハーバード大学ではセオドア・ルーズベルト大統領と同窓生で、電話王ベルとも友人で、明治期の国際人だった。
アメリカの当時の日本人史料には、今も金子の書簡が多く残る。
明治及び日露戦争を記録した彼の書簡は、スパイ小説よりドラマティックで、私も大変な興味を持って読んだことがある。
日露戦争当時、米カリフォルニア州では日本移民増加が問題になっており、差別的な隔離政策を取るほどまでに至っていた。
日本からの、24万ドルにも及ぶ義捐金が送られたにも係わらずである。
ルーズベルト大統領も、カリフォルニア州に対し、改善を求めている。
金子が渡米したのは、そんな時代であった。

彼は、国務長官ジョン・ヘイの顧問、歴史学者ヘンリー・アダムズに会う。
 この会合が、日本の運命に大きな転換を与えた。
日露戦争勝利の助言として、アダムズは金子に言う。

1、日本は、ユダヤ系金融から金を借り、ロシアにユダヤの金が行かないようにすること。
2、ロシア国内の反政府運動を煽動し、内乱を起こすこと。

2において、明石元二郎が、アドバイスをもらったか、それとも明石のアイディアだったかは、定かではないが、結果的に2の裏工作は行われ、功を奏した可能性が高い。

時代は、帝国主義の真っ只中、列強が弱い国を植民地化するのが当たり前である。
戦争を回避しようとする、伊藤博文、明治帝、ニコライ2世。息を吞む折衝である。そして、与えられた戦場で生死をかけて戦う軍人たち。
日露、個々の人間は仲良くできるのに、国と国とが争うというのが悲しい。

PS. 秋山真之の子供の名前が、面白い。秋山大、秋山中、秋山少子。他にも3人いる。
 兄の、「単純明快」が名前にまで影響したか?笑

【2010.12.20 Monday 11:34】 author : いづな薫 
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正岡子規のお墓



正岡子規のお墓に、お参りして来ました。合掌。
場所は、東京田端の大龍寺。JR田端駅から10分くらいです。
お寺本堂の左側の墓地入り口には、正岡子規のお墓の地図が貼ってあります。

子規のお墓むかって右には、母・八重のお墓があります。
”兄のそばで”の遺言どおり、妹・律も隣りに眠っています。(正岡家累代のお墓)
仲の良い家族であり、それ以上の固い絆で結ばれた3人は、今も一緒です。

向かって、左手には「子規碑」があります。

子規碑は2度建て替えられ、現在はこんな感じですが、刻まれた言葉は子規が生前、墓誌に刻んでくれと遺した言葉です。

正岡常規又の名は処之助 又の名は升 又の名は子規 又の名は獺祭書屋主人 又の名は
竹の里人 伊予松山に生まれ東京根岸に住す 父隼太松山藩御馬廻加番たり 卒す 
母大原氏に養われる 日本新聞社員たり 明治三十□年□月□日没す 享年三十□月
月給四十円
獺祭書屋主人とは、子規の号。獺とは、”かわうそ”のことである。
古来中国では、かわうそは獲った魚を並べて食べるとされ、それが祭祀を行うように見えたと言う。
”かわうそ”でさえ祭祀を行う。
唐を代表する詩人李商隠(りしょういん)は、詩を書いた短冊を左右に並べたと言う。彼の号は獺祭魚。
子規は、この唐の大詩人にあやかったようだ。



新しい大龍寺本堂。


大龍寺お隣りの、八幡神社のケヤキ。
太平洋戦争の時、焼夷弾が当たり、無残に焼けてしまいます。
しかしこのケヤキの防御で、多くの避難民が助かったそうです。
現在、周囲から皮が巻き込み、見事に復活しています。

【2010.12.13 Monday 09:44】 author : いづな薫 
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