大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 江 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
江 感想 「母の再婚」
 柴田勝家について触れたい。
明智光秀もそうだったが、織田家の著名な武将にしては、柴田も生年がはっきりしない。
1522、1526、1527年説がある。
尾張国の土豪の子として生まれたようだ。
いずれにしても、市と結婚した時は、60歳前後と言うことになる。
市は、約40歳。
柴田勝家、それまで妻はいなかったのかと言えば、一級資料には登場しない。
勝家には勝豊など幾人かの養子がおり、実子かもしれない勝敏も、養子なのか実子なのか定かではない。
僧侶であった謙信公のように、勝家には独身でいる理由がなく、結婚したが史料に残らなかったと考えるべきだろう。
当時、史料上の女性の扱いはこんな具合なので、今年の大河は史料検証がさぞや大変だと思って見ている。

清洲会議とは、織田家の後継者を決めると同時に、領地再分配を目的とした会議である。
会議の会場となった清洲城は、現在の愛知県清須市にある城である。
清洲は、清い砂を意味し、伊勢神宮の「清須御厨(きよすみくりや)」を由来とするようだ。
史料には「きよす」は、「清須」とも「清洲」とも書かれている。市名は清須。

その清洲会議である。
光秀討伐の功労者である秀吉は、丹羽長秀と池田恒興を大幅領地UPを約束して味方につけ、信長の嫡孫三法師を抱きこみ、勝利する。

会議の参加者で、秀吉側についた池田恒興(いけだ つねおき)について書く。
彼の母は、信長の乳母である。
信長は赤ん坊の時、癇(かん)が強く、乳母がしょっちゅう交代していたが、池田恒興の母だけには大人しかったと言う。
つまり恒興と信長は乳兄弟。後に恒興の母が、信長父信秀の側室になっているので、織田家との縁はかなり濃い。
恒興の娘は、森蘭丸の兄・森長可の妻である。
1584年、羽柴秀吉対織田信雄+徳川家康の戦・小牧長久手の戦にて、恒興は秀吉方で参戦。
娘婿森長可とともに、戦死した。

さて感想。
この柴田勝家、暖かい感じがして結構好きである。
来週、父娘のやりとりが出て来るようだが。
三法師が金太郎みたいで可愛いです。マサカリが欲しい所。笑
信長が死んでから、視聴率が下降気味だそうだ。
信長のせいなのか?笑
織田は元々私にはアウェイだし、江より侍ブルーが楽しい今日この頃。今夜はパンダも来るし。

【2011.02.21 Monday 16:25】 author : いづな薫 
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大河ドラマ特別展「江〜姫たちの戦国〜」

江の特別展を見て参りました。
江の関連品は少なく、次姉(初)常光院宛ての書が2つ。
本でおなじみの、浅井長政や市の絵、賤ヶ岳合戦図屏風、姉川合戦図屏風、朝倉義景像などあり。

面白いところでは、おねの旅行用お風呂セット。笑
菊桐紋入りの立派な風呂桶、足桶、整髪料をのせるやはり漆で房つきのシャンプー台。

春日局の赤い袴はいている、有名な絵もありました。

秀吉の側室、絶世の美女松の丸の弟(兄?)、京極高次の肖像画もあり。松の丸に似てすごい美男かと思いきや、四角いオヤジだった。笑

姉川合戦図屏風が面白い。
姉川の戦い、1870年織田徳川軍と、浅井朝倉軍の戦いを登場人物300人余を出してダイナミックに描いた屏風絵である。
その絵の中になぜか、「」や結び雁金」の旗印が見える。結び雁金
は金文字で、地が赤の旗印で描かれている。笑
結び雁金は、真田家が戦ではない平和な時に使用した家紋である。
六文銭は、三途の川の渡し賃なので、死のイメージが強いので。
姉川の戦い、上杉家も真田家も参加していない戦だが、絵師がかっこいいと思って描いちゃったのか?笑
絵師の名は、林義親(はやしよしちか)。どんな経歴の持ち主かは定かではない。
武者達の派手な動きや構図、目立つ旗印から、浮世絵師ではないかと言われている。
描かれたのは1837年、今と同じで戦国武将の武勇が素敵に見えた時代なのかもしれない。

【2011.02.19 Saturday 13:19】 author : いづな薫 
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江 感想 「光秀の天下」
肉食系女子の江、面白かったですね。
野武士に噛み付いたり、縛られてなお、猛獣のように威嚇する江が可笑しい。
明智光秀の謀反理由は、謎が多い。
光秀の重臣で、名将の斉藤利三(さいとう としみつ)が反対しなかったとは考えにくい。
しかし結果は、明智軍団あげての謀反となった。主君信長との関係が、抜き差しならない緊迫した状況であったことが見て取れる。
謀反理由は、信長が対・長宗我部政策の方針転換をし、折衝していた光秀が面目を失ったと言う説が有力。

 光秀と江と、斉藤利三でいるシーンがあった。
斉藤利三の娘・福は、後の春日局である。
言うまでもなく、江の子徳川家光の乳母である。
江は、父を伯父信長に討たれ、信長を明智に討たれ、その重臣の娘・春日局に最愛の我が子を託した。
森長可(ながよし)は弟・蘭丸を討った安田作兵衛の武功を褒め、召し抱えている。
男も女も、戦国の世ではそうして生きた。
お市がドラマの中で、憎むのは人ではなく戦だと言っていた。
現実的なことを言うと、敵だからと言って毎回殺していては、ただでさえ人口が少ないのに人が足りなくなるのである。

 秀吉の「中国大返し」について書く。(秀吉が光秀を討つために戻って来たこと)
秀吉が、信長死すの知らせを知ったのは、その死の翌日天正10年6月3日の夜だと言われる。
その時、秀吉は、毛利と対峙しその出城である備中高松城を水攻めする陣中にいた。
明智の使者が毛利陣営へ、密書をもたらそうとしたところを捕らえられた。
備中高松城および毛利は、信長の死をまだ知らない。
秀吉は直ちに毛利との戦を終結させ、京へ戻り光秀を討つことを考えたはずである。
毛利側も膠着状態にある、高松城問題を終結したい気持ちがあり、その翌日4日に、秀吉は、備中高松城との講和を取り付ける。
講和条件は、城主清水宗治の切腹と引き換えに、城内の兵の命を救うと言うものだった。
毛利が信長の死を知ったのは、この4日の深夜近くだったと言う。
6日、秀吉は備中高松(岡山県)を出発する。
姫路 (兵庫県)までの67kmの道のりをわずか一昼夜で駆け抜け、7日に姫路城に到達。
記録によっては、夜中暴風雨にもかかわらず走ったと言う物もある。
姫路城では、城内に蓄えた金銀、食料をすべて部下に配り、軍備を整えている。
2日休んで9日には、光秀を討つべく出陣した。
13日にはに摂津国山城国(大阪と京都)の境、山崎の地にて光秀軍1万6000と秀吉軍3万5000が激突、2時間ほどで決着が着き、明智軍を討ち果たしている。
走行距離190km、移動に6日、休みが2日で、1日平均30km強を走っていることになる。
大軍勢が、このスピードで移動するのはまさに驚異的である。

信長に見出され引き立てられ、恩人を失った秀吉は、同時に天下取りの幸運が巡って来たのである。
この時期、織田家臣団、筆頭の地位に在るのは柴田勝家である。
が、柴田は、秀吉に完全に先を越された。
柴田は何をしていたか?
越中・魚津城を取り囲み、謙信公亡き後の上杉軍と死闘の真っ只中。
上杉軍3800もが討ち死にしてしまった、魚津城の戦いである。
魚津城の戦に付いて、よろしければこちらをご覧下さい。その1その2その3

【2011.02.13 Sunday 21:45】 author : いづな薫 
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江 感想 「本能寺の変」
 本能寺の変、信長の生涯を記録した「信長公記」には、詳しい記載がある。
家康が京都、奈良、堺を見物し、明智光秀の西国出陣に続き、信長の死、安土城炎上に至るまでが記録されている。
内容を簡略に記す。

●明智日向守逆心の事
 6月1日丹波国亀山にて光秀が、逆心を企てたこと。

●信長公本能寺にて御腹めされ候事
6月2日明け方、すでに本能寺が四方から取り囲まれ、兵が乱入して来た。
「これは謀反か?いかなる者の企てぞ?」と信長が聞くと、森蘭丸が「明智が者見え申し候。」と答えた。
御厩にて、24人討死。
御殿の中では、森3兄弟を含め26人が討死。このうち2人は、町の宿に宿泊していたが、変を聞きつけ本能寺に突入して討ち死にしている。
信長は、弓を射ていたが、弦(つる)が切れ、その後、槍で戦った。
肘を怪我したので退き、女性を逃がし、寺に火をかけ御腹を召した。

●中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事
この様子を聞いた信忠は、信長を救うべく妙覚寺を出たが、本能寺の前に住んでいる織田家臣の村井
に止められる。
信忠が、雑兵の手にかかる無念なので、切腹すると言った。
まもなく明智勢が押し寄せてきて、斬り合いになり、死傷者が多く出て、火もかけられた。
信忠は、”縁の板引き放し給いて後にはこの中に入れ、骸骨を隠すべき旨、仰せられ、御介錯のこと、鎌田新介に仰せ付けられ・・・

本能寺の近く南蛮寺にいたルイスフロイスの、本能寺の変の記録も興味深い。

明智光秀は本能寺を襲う前、軍勢を二つに分け、信長嫡男信忠のいる妙覚寺に向かわせている。
本能寺は、残りの1万弱の軍勢で囲んだか?そして、信長の戦闘可能な手勢は50人、信忠軍は500人くらいだと言われている。
本能寺で戦闘があった6月2日の早朝、本能寺の中の織田勢が、どの時点で襲撃に気付いたかは定かではない。
しかし、この異変をいち早く気付いた人間がいる。
上記の、京都所司代・村井貞勝(むらいさだかつ)である。
本能寺の向かいに屋敷を持ち、信長から京都所司代に任命されていた。
村井は、信長嫡男信忠のいる、妙覚寺に行き、本能寺はもう近づけない状態なので、信忠に二条新御所に移るよう進言する。
ここで、信忠も村井も討ち死にしてしまう。
 村井は行き先が悪かった、京都近くにいる別の織田陣中に走るべきだった。

炎上した本能寺からは、明智軍の必死の捜索にもかかわらず、信長の遺骨は出ない。
焼け跡から、京都阿弥陀寺の清玉上人が遺骨を拾い法衣に包んで埋葬したと言う、阿弥陀寺にお参りしたことがある。
果たして、信長の骨かどうか分からないが。
清玉上人:昔、とある妊婦が具合が悪くなっていたところを、織田信長の兄が助けた。
その女性から生まれたのが、清玉上人。女性は残念ながら亡くなり、清玉上人は織田家の庇護を受けて育ったと言う。

 短く感想。
馬に乗れない江が、ヤマで乗馬が出来るようになったのは、お話しとして王道。
信長おじさんが、後ろから支えてくれる姿に、じーん。
家康おじさんも何だか素敵。笑

【2011.02.07 Monday 16:19】 author : いづな薫 
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江 感想 「本能寺へ」
久々に歴史記事を書く、戦国カフェです。笑
出張中なので、短く書きます。

明智光秀が信長にいじめられ、本能寺への序章となる場面でしたね。

今回の信長の性格設定がかなり良い人のため、光秀への対応が苛烈な印象を与える。
フロイスの日本史に「彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言を聞き入れず、極めて畏敬されていた。」とある。
特に晩年は、書簡の書体などからも判断出来るが、その傾向が際立っている。

さて、なぜ光秀が謀反に及んだか?である。
明智光秀の出自から、思い起こしてみる。
1516〜28年頃、美濃・土岐氏の支流の明智家に生まれたが、前半生は不確かである。
信憑性の高い史料に出て来るのは、1568年信長上洛あたりからである。
光秀は当初、足利義昭に仕えていたと見られる。
文武両道で京都に精通した光秀が、信長に気に入られたか、信長の重臣になっていくのである。
信長のお気に入りだった彼が、なぜ謀反に及んだか謎が多い。
信長は最初、四国の長宗我部元親と蜜月関係にあった。
織田と長宗我部の間で、外交折衝していたのが光秀である。
しかし、信長が政策転換してしまう。

信長はここ10年間、石山本願寺との戦に忙殺されていた。
石山本願寺を攻めるため、遠くの長宗我部とは仲良くしていたのである。
しかし、戦が終結した今、その必要はなくなった。

次の標的は、四国の長宗我部である。
四国攻めのため、信長は三男信孝を総大将に堺に大軍を集結させている。
外交役だった光秀は、織田家における立場を失ってしまったのである。
これが、明智光秀の謀反理由をを四国攻めに求めるものである。

本日一番面白かった場面:江が信長の行列を見物しながら、何か食べている所。笑
そういえば、本日家康の誕生日ですな。書かなくてもいいんですが。笑

【2011.01.31 Monday 13:00】 author : いづな薫 
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江 感想 「信長の秘密」
 江は知りたいの、伯父さま(信長)の秘密ってな回でしたね。笑

私はそうでもないので(笑)、家康の妻子、築山殿と信康が、死に追いやられたことについて触れる。
家康と築山殿の間に生まれた、嫡子信康の妻は織田信長の娘・徳姫である。
天正7年(1579)6月織田信長は、娘徳姫から一通の密書を受け取る。
その手紙には、恐るべきことが書かれていた。
徳姫は、父信長に、夫信康が相手にしてくれず、姑の築山殿も嫁いじめをすることなど訴えている。
これくらいなら、信長もしょうのない奴め、で済んだかもしれないが、重大な事は他にあった。
 
 家康の正室築山殿が、甲斐の武田勝頼と懇意になり、信康を徳川家の殿様にして、信康と武田で連合軍を作り、家康と信長を討とうと言う計画があるというのだ。
 信長は、仰天したに違いない。いや、よくあることと、思ったか。
ともかく、信長は家康に命じた。

「信康を処分せよ。」

家康もまた、ひどく驚いたであろう。
家康は、重臣達を集め対応を協議する。
信康のもり役、平岩親吉(ちかよし)は、自分が切腹し織田殿の疑念を晴らすよう願い出た。
(余談だが、この平岩、信康没後、蟄居謹慎し、家康に請われてまた仕え、現在JR甲府駅前の甲府城を建設している。)
またある者は、織田との同盟関係を破棄し、全面戦争を覚悟したという。
家康は、決断する。
「信康を切腹、築山殿を処分する。」

信康は、二股城で切腹。介錯役が、泣いてしまって出来なかった。この泣いた侍が、鬼の半蔵と言われた服部半蔵である。
築山殿は、浜名湖近くの蜆塚(しじみづか)台地で、殺された。
また、こんな説もある。信長は殺せとは言っておらず、家康が、息子と妻との不仲から、処分してしまったと言う説。
 
 江は、信長と竹生島デート楽しそうでしたね。笑
フロイスが軽すぎて笑える、宣教師ウィンクとかチューとかしないと思うが。
ドラマだし、「ルイスフロイスの日本史」とは別人と考えたい。実家で見ていたら、母も、風呂椅子、風呂椅子と笑っていた。(真剣に見ていないな。笑)

 江の後に、邪馬台国・卑弥呼を放送していましたね。
これは、面白かった。ブログでもまた書くかもしれない。

 そして、明日のサッカーよ。韓国戦!
サッカー雑誌キッカーを見ていたら、香川選手のほか、「青きサムライ」の記事が載っていて見入ってしまった。
織田軍より青きサムライよ
運は天にあり。明日の決戦、心して応援いたしまする

PS.川島選手CMは、フマキラーの花粉対策薬「アレルシャット 花粉 鼻でブロック」でしたね。
鼻の穴の中に、小さい川島選手がいて花粉キャッチしてくれる。笑

【2011.01.24 Monday 21:44】 author : いづな薫 
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江 感想 「父の仇」
浅井長政のどくろの話でていましたね。
以下は、信長の一級資料である「信長公記」の記録である。

朝倉左京太夫義景、首、 浅井下野、首(久政・長政の父)、 浅井備前(長政)、首。
巳上三ツ、薄濃(はくだみ・漆塗りにして金粉をかけたもの)にして、公卿にすえおき、御肴(さかな)に出だされて候て、ご酒宴。
おのおの御謡・御遊興。千々万々、めでたくご存分に任せられ、お喜びになり。

全くしゃれにならないことをしてくれるぜ、信長。
ちなみに、「どくろの杯」についての記載はありません。

信長は浅井朝倉との戦では、挟み撃ちにされそうになり絶体絶命のピンチをかろうじて、切り抜ける。
この「どくろ宴会」は、浅井父子と朝倉義景をを討滅した翌年天正二年正月のことである。 

江が、小谷落城後の1579年伯父さんの織田信包(のぶかね)の伊勢・上野城にいて、海岸で遊んでいたが、
この時、江は7歳(今で言う6歳)なんですね。爆
茶々は12〜3歳か。
伯父さん信包の着物が、天地人の景勝さんの着物でしたね。

安土の信長相変わらず気短で傲岸不遜、秀吉を刀を握ったまま殴るシーンは冷や冷やした。
政治、戦略、経済政策を徹底的に合理化したことは評価できるが、この激情型で非道の性格はどうにも苦手。次回は、光秀を殴るようだし。
浅井父子の薄濃(はくだみ・どくろの漆金粉塗り)は敬意を表すとしても、叡山焼き討ちにしろ、長島一向一揆にしろ、
ジェノサイド(皆殺し)を敢行する信長は否定できない。
人間の行いとしては、否定的評価を持つが、一向一揆を殲滅したことにより彼は天下人になり得たのである。
秀吉も家康も同じである。
彼らが、一向一揆と譲れないながらも双方生き残っていれば、それ以後の武家封建体制も幕末維新も違う形を見たに違いない。

信長が、実際の信長所用の、東京国立博物館蔵の”陣羽織・黒鳥毛揚羽蝶文様”(アゲハ蝶柄の陣羽織)のレプリカを着ていたのは、面白かった。
陣羽織についている鳥毛も再現してあり、レプリカでももう少しじっくり見たい気がする。

森兄弟の父は、森可成と言う人物だが、これがドラマで語られていたごとく浅井長政に討たれる。
1570年近江の国でのことである。
1582年森蘭丸が、本能寺で信長と共に討ち死。
蘭丸を討ち取った人物を安田作兵衛と言う。
安田は、本能寺の時、明智光秀配下の斉藤利三(としみつ)に仕えていた。(斉藤利三とは、江の子・家光乳母の春日局の実父である。)
で、森蘭丸を討った安田作兵衛は、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷とあるじを替え、その次のあるじは、なんと蘭丸の実兄森長可(もりながよし)だった。
長可は、弟蘭丸を討ち取った安田を「武功は武功」と言い、召抱えたと言う。
身内の仇に対しても、武功を称えるのが武士道なんですな。

殺し合いは困るが、敵に対してもエールを送るそんな戦いが見たいです。
と言うわけで、
今宵も、サムライブルー、サッカーサウジアラビア戦を応援せねばならぬ。

【2011.01.17 Monday 15:09】 author : いづな薫 
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江 感想 「湖国の姫」 
感想いきますー。
豊川信長かっこよかったですね。物静かな話し方が何とも素敵。
容貌に限っては、名古屋城おもてなし隊の信長が、肖像画に似ているんじゃないかと思っている。

当時日本に来ていたポルトガル宣教師・ルイスフロイスが、以下のごとく著述している。
信長は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ひげは少なく、声は甚だ高く、大いに武芸を好み、決断力があり、戦術巧みである。
名誉心に富み、正義において厳格。ほとんど全く家臣の言うことを聞かず、畏怖されている。
傲慢で自信にあふれ、独断専行である。

浅井長政、良い人なのに、かわいそうな人NO1。
生まれたばかりの江と幼い子供、妻とも別れ、「姫たちを頼む」と城門が締まる時には、本当に辛い。
お市の方と、それにも増して、ちび茶々は、怖い・・・可愛くないし。ごめんよ子役、君のせいじゃない。苦笑。

浅井朝倉と織田信長の戦い、信長にしてみれば、妹婿が寝返ったのは、計算外だった。
朝倉に内応した浅井父子、信長背後から襲撃し、六角承禎(ろっかくよしかた、しょうてい)らも加わっている。
さらに延暦寺の3000人の僧兵、朝倉義景が一乗谷に出陣という、信長絶対絶命のピンチだった。
ただ長政には、長政の言い分がある。
浅井朝倉は同盟関係にあり、縁があるから、朝倉に攻め込む時は、浅井の承認なしでは、織田は朝倉と戦はしないと言う、
約束だった。
信長は、これを破った。
まあ、そこは戦国時代、約束破棄は日常茶飯事である。
そして、長政は義兄信長より、朝倉との縁を大事にしたのである。

信長は、この時のピンチを命からがら脱出している。
城の名から、「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」と呼ばれたこの退却戦は、信長が経験した人生での大ピンチの
一つとなった。
これほどの辛酸を舐めさせた浅井朝倉、そして味方した比叡山を、異常なまでに自我が強く非情な信長が許すはずはない。
形勢を立て直した、信長は、比叡山焼き討ち、浅井朝倉との徹底討滅に乗り出すのである。
1571年9月12日、叡山を包囲し、火をかけ根本中堂、鐘楼、僧坊、経蔵、宝物も灰燼に帰した。
僧、老若男女、殺されたのは、数千人に及ぶという。
仏敵天魔の所業だが、まあ、寺に女がいるのがまず問題がある。寺も荒廃し、僧侶の乱行も目立っていた。
浅井父子、朝倉義景も自刃し、その頭骨は漆に金を塗られ、信長の正月宴会の酒肴に出されるのである。マイ信長公記より。
趣味わるー。

 来週は本能寺?南蛮服着て、「どうじゃ?」と見せていた信長は、ちょっと可愛い。笑
「江〜姫たちの戦国〜」第1回めだったが、スタンダードすぎて意外性はなかった。
何度もドラマ化されたシーンなので、目新しい演出が難しい。小豆袋を送らないことは目新しいが。
泣ける話だと予告に出ていたが、そうでもない。坂の上の雲の方が、おいおい泣いた。(子規と広瀬の亡くなる場面)
 でも、篤姫の脚本家でもある、田淵さんは好きです。

【2011.01.10 Monday 15:55】 author : いづな薫 
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