大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 平清盛 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
平清盛感想「遊びをせんとや生まれけむ」
清盛が、頼朝の首を要求しながら絶命する姿は、かなりインパクトがあった。

清盛の遺言は、『吾妻鏡』養和元年閏二月四日の条に出て来る。
「3日以後に葬儀をして遺骨は播磨の山田法華堂に納めること。
仏事は毎日ではなく7日ごとに執り行え。京都で追善を行わず、子孫は東国の謀反が収まるよう努力すべし。」

平家物語には、「頼朝の首を墓前に供えよ」との言葉が出て来る。
この世に多大な心配と想いを残し、清盛は逝ったのである。

清盛の死後、宗盛は後白河の院政を要請し院政復活となる。
平氏は清盛の残した軍事体制を維持し、東国の源氏の防戦に備えている。
しかし、清盛の死後4年で壇ノ浦の戦いを迎え平家は滅亡。

壇ノ浦の戦い以後、源氏は多くの平氏の捕虜を得る。
宗盛は壇ノ浦で入水したものの、泳ぎが上手かったため泳ぎ回り、子の清宗と共に捕虜になる。
鎌倉に護送された後、宗盛親子は近江の国で斬首された。
時子の弟・時忠は、三種の神器の鏡を守ったため死罪を免れ能登へ流刑になる。
今でも残る上時国家と下時国家はその末裔と言われ、豪壮な邸宅が残る。

多くの平家の武者たちが、捕らえられ処刑された。
平氏を1人も残さず捕まえるよう、頼朝は舅の北条時政に命じる。(ただし頼朝がそう言ったとしたのは
平家物語延慶本と四部合戦状本のみ)
時政が勧賞(賞金や賞品)付きで探したため、平家の者でない者まで差し出され処刑される有様であった。
清盛の娘・建礼門院徳子は、京都大原の寂光院で尼となって一門の菩提を弔った。
全くの余談だが、漬物の柴漬けは彼女が大原で開発したとも命名したとも言われている。

1186年、頼朝のもとへ西行が訪ねて来るシーンがあった。
来たのは史実である。

文治二年(1186)8月15日、『吾妻鏡』に出て来る有名な記述である。
西行は、この日頼朝と出会う。
偶然出会ったのではない。
西行は、周到な計画の上この日を選んだと推測する。

頼朝が挙兵後注意せねばならなかったのは、背後にいる奥州藤原氏である。
寿永4年(1185)3月24日壇ノ浦で平家を滅ぼした頼朝は、藤原秀衡に対しこう申し入れる。
「そなたは奥六郡の主、われは東海道の惣管、だから貢馬貢金はまず鎌倉に聞いてから進めなさい。
私が京都へ伝えてあげましょう。」

文治二年(1186)4月、秀衡は頼朝へ承諾の文を送っている。

藤原秀衡は、西行の経済的支援者である。
秀衡は以前より巨額の金品を都に送っていたが、ここに来て頼朝の許可を得なければならなくなった。
そこで西行は、頼朝の承認を得るため鎌倉にやって来たのである。
西行が鎌倉に現れた8月15日は、鶴岡八幡宮で恒例の放生会・流鏑馬が行われる日である。
西行は、元北面の武士で宮中の儀礼、武道特に流鏑馬に秀でている。
頼朝は天下を掌握したものの、儀式行事を正確に行うすべを心得ていない。
宮中行事に精通し流鏑馬の達人である西行、その非凡な才能は出家後40年過ぎても鎌倉で語り継がれるほどであったのである。
頼朝は、西行からその見識を聞きだそうとしたが西行はあいにく覚えていないととぼける。
西行はそう言いつつ、流鏑馬の日を狙って登場し、取引に使ったのである。

流鏑馬の故実を頼朝に教え、返礼に”銀の猫”をもらう。
銀の猫などどうでも良く、外で遊んでいた子供にくれてやる。

そして念願の、奥州藤原氏の砂金450両が2ヵ月後に京都に到着する。
しかし、頼朝と義経の対立が勃発するのである。
義経が藤原氏を頼り、頼朝と藤原氏の関係は破綻し、送金も途絶えた。

西行の有名な歌がある。

願わくは 花の下にて春死なん その如月のころ 望月のころ

願い通りの季節に西行は入滅した。
往生の心得通り、予言通り、西行が亡くなったことは、当時の人々を感動させた。
西行、宮中に仕えていてもそれなりの出世を見込めたであろう。
しかし、僧侶として歌人として生きた。
世の変革期に生きても流されることなく、遁世し、己の生き方を完璧なまでに貫いた生涯である。

【2012.12.25 Tuesday 12:05】 author : いづな薫 
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平清盛感想「双六が終わるとき」
選挙もあり、自分の出張も重なり溜まっていた清盛を今頃見た。

高倉上皇が崩御した。
高倉天皇の中宮であった徳子が、院政を始める後白河の後宮に送り込まれようとする。
しかし徳子は出家を強く望み、清盛は代わりに厳島の内侍(ないし)との間に出来た娘・御子姫君を
後宮に入れることを画策する。
彼女は後白河のもとで、令泉の局と称するようになる。
清盛は、天平三年の事例をもとに新たに軍制を敷く。
天平三年とは、731年。清盛が生きていた時代より450年ほど前である。
長屋王の変、飢饉、旱魃(かんばつ)天変地異、クーデターの多い年であった。
この時、畿内を中心に治安維持を努め軍事組織が整えられた。
清盛もこれに習い、畿内周辺の軍事組織を整え、惣官職に息子の宗盛を任じている。
東国で兵を集め、御家人と呼び組織化している源頼朝を意識してのことであろう。
兵士を集め、兵糧を蓄え、臨戦態勢を敷いたのである。

平家の衰退があらわになっていく一方で、清盛の体力が衰弱する。
公卿・九条兼実の日記「玉葉」には清盛の病状が出て来る。
治承5年(1181)2月27日、清盛は頭痛を患う。(吾妻鏡によると25日から。)
翌28日には、頭痛がさらに増した。
平家物語によると、清盛は発病した時から水も喉を通らず、体が火を焚くようにかなり熱かったとある。
清盛のそばに寄れないほどだったと言う。

閏2月1日になると回復は絶望的になり、4日に家人の平盛国の屋敷で息を引き取った。
最期の日、4日には身もだえ身体を跳ねるようにしていたとある。
高熱から痙攣を起こしたものらしい。
発病して日を経ずして、死んだことになる。
慢性的な病気ではなく、急激な病状である。現代の医学で見ると1つに髄膜炎が推測されるそうだ。
抗生物質もない当時、髄膜炎を起こせばそのまま落命することも多かった。
清盛の病は「瘧・おこり」であるとの説がある。
瘧とは、現代で言うマラリアがひとつに考えられる。
しかし、瘧の症状である発熱悪寒震えは感染症の多い当時、他の病気もたくさん該当する。
清盛が発病したのは冬であり、マラリアの季節ではない。
当時日本にあるのは、シナハマダラカが媒介する3日マラリアで症状は比較的軽い。
東南アジアには重症になるマラリアがあったが、海外渡航歴がなければ移らない。
余談:シナハマダラカを調べていたらイカリ消毒さんのHPに繋がってしまった。春日山城史跡広場近くの見慣れた看板。笑

感想 
終わりが間近でドラマに緊張感が増している。
武家の地位向上を目指しひた走って来た清盛だが、出来のいい息子重盛は早死に、自分が衰弱した頃源氏が
台頭して来る。
後しかし、の武家政権は、彼を基本としている。
清盛と敵対する頼朝ですら平氏に前例を求める。
貴族中心だった朝廷政治に武家の力を認めさせたのも清盛である。

【2012.12.18 Tuesday 11:36】 author : いづな薫 
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平清盛感想「頼朝挙兵」
以仁王の乱は、宇治川の戦いで源頼政が討ち取られ、以仁王の自殺により幕を閉じる。
宇治川のほとりには平等院があり、そのお堂の上で自殺者が3人いたと言う。
そのうち一人は、首がなかった。
この首なし遺体が以仁王ではないかと言われたが、慈円の「愚管抄」では首があり、
以仁王の師である日野宗業(むねなり)がその首が以仁王だと確認したと言う。
「吾妻鏡」光明山の鳥居の前で亡くなったと書いている。
ドラマでは、頼政が自害、以仁王が討ち死になっている。

頼政が討ち取られた日の夕方清盛が福原から京に戻って来る。
清盛の下に頼政の首は届けられ、翌日高倉上皇を屋敷に招きその首を見せている。
清盛は、この頃からしきりに頼朝を警戒する。
相模の国に住む東国武士たちに頼朝の監視を強化させている。

以仁王はあっけ無く亡くなったが、令旨(りょうじ・皇族の命令書)は東国にもたらされ
反平家武士団の結集を促した。

乱が静まったが政情不安のある中、清盛は強引に遷都を行う。
数千人の武士団に守られた高倉上皇や安徳天皇が福原に向かうこととなった。
清盛の弟・頼盛の屋敷が内裏にあてがわれ、その他寺などに政府機関が置かれた。
遷都の必要があったのか、が貴族達の疑問であったが清盛の権力は絶大でそれを口には
出来ない。
そこへ、流行り病と旱魃が人々を襲った。
飢饉である。
貴賤を問わず疫病に悩まされ、中でも重篤なのが高倉上皇であった。
上皇は政務のすべてを摂政に託し、自らは政治に関与しないつもりでいた。
しかし、その摂政も病で政務を取れる状況に無い。
さらには、清盛が病身の高倉上皇の政治不関与を許さなかったのである。
そんな中、都を京に戻したいと言う意見が出て来る。
清盛の独裁が揺らいで来た兆候である。

そうこうしている内に、頼朝の挙兵である。


感想
清盛老いたり、もう政務を執れる状態ではない。
石原状態。
今更ながらに出来の良い重盛が早死にしてしまったのが悔やまれる。
頼朝が立ち上がった時、清盛にはもう寿命がない。
ナイーブ頼朝が力強くなっている。

【2012.11.29 Thursday 10:11】 author : いづな薫 
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平清盛感想「以仁王の令旨」
 現代政治も民主党の瓦解に従い、新勢力が多数動いていて清盛以上に目が離せない。

で、今日は清盛の方のお話。
高倉上皇が厳島参詣に出かけている間、源頼政は以仁王に平家を討ち政権を掌握するよう持ちかける。
結果、「以仁王の令旨」が発令されるのである。
令旨・りょうじとは、皇族の名において出される命令書である。
頼政は、清盛の推薦で三位になった人物である。
その頼政がなぜ挙兵するのか。

平家物語の中には、挙兵のきっかけになった話が出て来る。
頼政の子・仲綱(なかつな)は木の下(このした)と言う愛馬を所有していた。
宮中にも聞こえた名馬で、平家の棟梁・平宗盛が見たいと告げて来た。
しかし、仲綱は「馬を酷使したので休ませたい」と答えた。
ならば仕方がないと、宗盛はその時はあきらめた。
しかし平家の侍どもが、「庭乗りしているのを見た」と宗盛に言う。
宗盛は「さては出し惜しみしているのだな、憎い!」とし、日に7〜8度手紙を遣った。
仲綱の父・頼政がこれを聞きつけ、仲綱に「たとえ高額な馬であろうと人がそれほど
見たがっているものを出し惜しみするな。馬を六波羅に送れ。」と言った。
息子の仲綱は、「恋しいなら来て見なさい。私に寄り添う鹿毛の馬をはなせるものか。」と歌にして宗盛に送る。
結局宗盛の前に引き出された馬に宗盛は「誠に良い馬であった。」と言い、しかし惜しんだのが
気に入らないとし、馬に仲綱と焼印を押した。
宗盛は馬を返すことなく、訪ねて来た客人の前で見世物にしたと言う。
仲綱と宗盛の意地の張り合いで馬が八つ当たりされた、馬に迷惑な話である。

現実的には、頼政挙兵理由は息子の愛馬ばかりではない。 
平家の官職の独占で嫡子仲綱の出世は望めない。
後白河法皇をも幽閉し政治を牛耳る平家の暴挙に、頼政は疑問を抱かざるを得なかったのかもしれない。
平氏に不満を持つ人々は各地におり、それらに挙兵を促したと思われる。

以仁王も後白河の第三皇子(平家物語では兄が仏門に入ったため第二皇子と記載)であるものの、安徳天皇即位により即位の見込みが途絶えた。
そこで、頼政の誘いに乗じたと思われる。
平家追討の令旨は、頼朝・義経の叔父源行家によって、東国にもたらされた。
平家物語によると、清盛が「威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡じ、百官百民を悩乱し、
五畿七道を慮略し、皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を絶ち〜」と清盛の悪行を並べている。

清盛は孫の安徳帝が即位し、この世の栄華を謳歌している。
その一方で、平家打倒の勢力が着々と力を結集し始めている。
当時、都周辺は天変地異がたびたび起き、人々を不安に陥れている。
暴風による人家の倒壊おびただしく、被災者が出た。
高倉上皇は、朝廷に凶事を及ぼす不吉なしるしとして、祈祷を始めた。
京の南・醍醐周辺では清盛を調伏する祈祷が行われたとの噂があった。

感想
清盛が白河法皇に似て来た。
ドラマ設定では、白河は実父。
権力を握る老人の考え方は、古今東西似るものか。

【2012.11.23 Friday 12:59】 author : いづな薫 
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平清盛感想「そこからの眺め」

 平重盛が42歳の若さでこの世を去った。
重盛の死因は、胃がん、十二指腸潰瘍、胃潰瘍などが推測できる。
公卿・中山忠親の記した「山槐記」(さんかいき、)によれば、治承三年(1179)2月東宮の「百日(ももか)の祝」も出席後、
屋敷に閉じこもるようになった。東宮とは皇太子のことで、この場合は重盛の甥、言仁(ときひと)親王のこと。
3月には無理をして、熊野詣に出かけ後世のことを神に祈ったが、精進屋(祭礼や参詣の前に、心身を清めるために籠もる所)で吐血してしまう。
その後やや小康状態を保ち、やがて「不食・ふじき」に陥った。
点滴も適切な治療薬もない当時、口から栄養が取れなくなったら寿命は時間の問題である。
7月20日頃に重篤に陥り、29日に死去。
胃や十二指腸潰瘍で大量出血をおこし輸血が間に合わないか、腹膜炎でも起こさない限り、現代では死に至らないだろう。
食物を受け付けなくなった結果、衰弱死したのかもしれない。
幕末・明治期、胃がんで亡くなった岩崎弥太郎の病状の文献を読んだが、似通うものがある。

平家の敵対勢力がどんどん育つ中、平家のナンバー2・重盛の若死には平家にとって痛い。
しかも重盛は、父清盛も一目置く器量人である。
「愚管抄」は文中で重盛を心うるわしいと記し、平家物語にも「文章が上手く、心に忠があり、才芸正しくして言葉に徳がある」と褒めている。
平家が20年しか続かなかった起因の1つは、重盛の早世である。
清盛も、盛子に続いて重盛を失った悲しみは大きかった。
そして、盛子の所有した摂関家領に続き、重盛の知行国までも没収されてしまう。

余談だが、清盛の子の相次ぐ死に怨霊説が囁かれている。
九条兼実と言う公卿が書いた一文に以下がある。
「内裏には片仮名書きで、清盛が相次いで子供を亡くしたのは(清盛が斬首した)西光の怨霊のせいだと記されていた。」

感想
重盛役の俳優さんが、病に苦しむ重盛の演技が凄く上手い。
死の床にある重盛に双六を強要する後白河、迷惑な奴。
重盛を亡くし、やがて清盛も亡くなり平家も終焉を迎える。
危機がひたひたと足音を立て、やがて大きくなっていく様が伺える。
鹿ヶ谷事件から今回、ドラマが佳境に入っている。

明日はいよいよ衆議院解散、現代政治も大きく動くと良いのだが。
一票の格差が島根と神奈川で5倍もある違憲状態で選挙となってしまい、無効が出る可能性もある。


【2012.11.15 Thursday 20:05】 author : いづな薫 
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平清盛感想「忠と孝のはざまで」
 名将に不運の人はいない。

清盛も、まさに強運の持ち主である。
建春門院滋子が亡くなり平家への反対勢力が現れ始める。
そして、鹿ヶ谷事件が起きた。
平家の地位が脅かされるようになる中、清盛は娘の中宮徳子に皇子が誕生すること切望したに違いない。
慈円の書いた「愚管抄」には、清盛が外祖父になり権力を振るおうとしたことが記される。
まず妻時子が日枝神社に百日祈りを行ったが効果がない。
「ならば、わしが祈ってみせよう」、と清盛が早舟を仕立てて厳島に月詣でに出かけたと言う。
そうしたら、徳子が60日で懐妊した。
今度は皇子誕生に向けて、六波羅邸に産所を設けた。六波羅御所には厳島別宮まで勧請している。(神様を移した)
父清盛や兄弟の宗盛らがあちこちで神楽を奉納し、安産を願っている。
神だけでなく、仏にも護摩を焚き、ありとあらゆる手を尽くして皇子誕生を祈願。
これで、本当に皇子が生まれるのだから、清盛の強運も相当なものである。

皇子(後の安徳天皇)は、治承2年(1178)11月12日に生まれている。
清盛は皇子誕生を見とどけて福原に帰るが11月26日にはまた京に戻って来る。
生まれたばかりの「皇子を皇太子にせよ。」と言うのである。
清盛以前で、2〜3歳で皇太子になった人は、即位前になくなったので縁起が悪い。
1歳で立太子(皇太子になること)し、即位した清和天皇、鳥羽天皇の良き先例がある。
と言うわけで、生まれたばかりの清盛の孫が皇太子になってしまった。
平家が必ずしも安泰と言うわけでなく、清盛も年を取って来たので、焦りが伺える。

強運な父に比べ、不運な息子重盛。
妻の兄である、藤原成親は鹿ヶ谷事件に加わり備前に遠流。
食べ物を与えられず、餓死と言う悲惨な最後を迎えた。
鹿ヶ谷事件で斬首になった西光の息子2人が関連した山門強訴(白山事件)で、神輿に矢を放ったのは、重盛の家人である。

感想
仕える後白河と父清盛との板ばさみに遭い、苦しむ重盛。
真面目すぎる性格もあってか、彼は以前より病がちで大臣職を辞したりしている。
隙があればいくらでも付け入り利用する後白河、財と武力で政権を牛耳る清盛。
我の強い二人に挟まれた重盛は、病で命を落さんばかりである。
今回生まれた言仁親王(ときひと)、後の安徳天皇はわずか7年後壇ノ浦の海に沈む。
その時、もちろん清盛はいない。

【2012.11.08 Thursday 20:38】 author : いづな薫 
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平清盛感想「鹿ヶ谷の陰謀」
 治承元年(1177)京、東山の鹿ヶ谷の静賢法印(じょうけんほういん)の山荘に後白河法皇が行幸している。
その時、藤原成親、西光、俊寛らが後白河と共に、平家打倒の謀議を行ったと言う。
多田源氏蔵人行綱(ただげんじのくろうどゆきつな)と言う人物に、旗揚げの白旗用に宇治布30反が与えられた。

この謀議を、西八条邸にいる清盛に密告した者がいた。
布30反をもらった、多田源氏蔵人行綱(ただげんじのくろうどゆきつな)である。
清盛は怒り、布を焼き捨て、同年6月1日には西光を捕らえ拷問して自供させた。
西光は、平家打倒の目論見と謀議に参加したメンバーを白状している。
西光は、わずか2日後に斬首。
そして、後白河の近臣たちを次々と逮捕している。
謀議メンバーの藤原成親は捕縛され備前の国に配流、法勝寺執行の俊寛は硫黄島(または喜界島)に流された。
成親は、妹婿である平重盛が衣類を密かに送り支援したが、食事を与えられず殺害されている。
俊寛も流刑地から、生きて出ることはなかった。
しかし、後白河法皇への罰は清盛も控えている。

鹿ヶ谷事件の真相はいかなるものだったのか。
慈円の記した「愚管抄」では、謀議が密告されたことが記されているが、鹿ヶ谷事件の詳細は定かではない。
西光は、亡き信西の寵臣だった人物である。
信西の築いた政治社会基盤を丸ごと継承したのは、清盛である。
西光らにしてみれば、あるじの努力も功績も清盛にさらわれた感が否めない。
一方、清盛はしのぎを削る関係の法皇のもとで西光と成親が権力を増幅させるのは赦しがたいと言う、背景があった。

鹿ヶ谷事件、強訴、大火事を伴なった白山事件(前回ドラマ)は、法皇&近臣VS大寺院、または法皇VS清盛の政治紛争から生じたものである。
しかし、当時の人々は当時自然でもっともな事象を、その理由に求めた。
怨霊である。
当時の貴族日記には、朝廷を恨みながら讃岐(さぬき 現在の四国香川県)で崩御した崇徳上皇や保元の乱で戦死した頼長の怨霊の記述が増えてくる。
20年余り前に亡くなった藤原頼長、崇徳上皇の怨霊が世の中に災いしているものだと考えたのである。
建春門院、六条院、九条院ら安元2年(1176)に死に、翌年には鹿ヶ谷事件を始めとする社会的大事件が
立て続けに起きるのである。

法皇の命による鎮魂が行われ、頼長には正一位太政大臣の官位を、讃岐院(さぬき)と呼ばれていた崇徳上皇には「崇徳院」と言う
称号が贈られたのである。

感想
荒ぶる清盛を久々に見た。
平家はまだまだ力を持っている。
いつの時代も、変革黎明期には多大な犠牲を伴う。
ナイーブな頼朝にごり押しの政子、平家打倒の大本命、若き世代がタッグを組んでいる。笑

【2012.10.29 Monday 09:31】 author : いづな薫 
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平清盛感想「賽の目の行方」
建春門院亡き後、平家打倒の勢力が芽生え始めている。
建春門院の子である高倉天皇には、未だ皇子がない。
子がないまま後ろ盾である母・建春門院を失い、高倉天皇の地位は極めて不安定なものになった。
彼女は、平家と後白河をつないでいた存在である。
後白河法皇には他にも皇子が多くおり、それを平家への対抗馬として担ぎ上げようと言う勢力が出て来たのである。

建春門院の死後、朝廷だけでなく世の中全体が不安定になっている。
西光の2人の子が流罪になった白山事件、「平家物語」や「源平盛衰記」に詳細がある。
今日は平家物語から見てみたい。

西光の子に藤原師高(もろたか)と言う人がいる。
切者(実力者)であり、安元元年(1175)十二月二十九日、検非違使五位尉に昇進し加賀守となった。
政務をする間、神社仏寺、権門勢家の所領を没収し傍若無人の振る舞いを行っていた。つまり権力をカサにきたとんでもない奴。
安元二年夏、国司加賀守・師高の弟、近藤半眼師常(もろつね)が目代(もくだい)に任じられた。
目代(もくだい)とは、国司が本来現地に行かねばならない所、代理として派遣し執務を行わせた役人、職。

この目代(もくだい)師経が、国府周辺にある鵜川(うかわ)と言う山寺で僧たちがお風呂に入っていたのを、蹴散らかし自分が入ってしまった。
ついでに、馬も家人に洗わせてしまう。
僧は怒って止めようとしたが、目代(もくだい)が「今までの臆病な目代とは違うぞ!」と言い返し、両者争いになった。
殴り合いをしているうちに、目代(もくだい)師経が秘蔵している馬の足を誰かに折られてしまい、互いに弓矢で数刻戦う有様となった。
目代はかなわぬと思い一旦引き、加賀の在庁官人を集め1千余騎で鵜川に押し寄せ、坊舎1つ残さず焼き払った。
鵜川は、白山の末寺である。
白山三社八院の宗徒が決起し、総勢2000余人が目代師経の屋敷に押し寄せている。
白山は山門(比叡山延暦寺)の末寺にあたり、山門に訴え出ようと言うことになった。

山門(比叡山延暦寺)は朝廷に、兄・国司師高(もろたか)を流罪、弟・目代師経(もろつね)を獄中送りにすることを要求した。

寺を焼失させた罪を問われ、目代師経(もろつね)はクビ、配流。
しかし兄で国司の師高(もろたか)は罪を問われなかったので、比叡山の宗徒は納得しなかった。
さらに師経(もろつね)を目代にした兄、国司加賀守師高(もろたか)も流罪に処すよう要求し、強訴を起したのである。
神輿を奉じ、大勢で内裏へ押し寄せて来た。
当時内裏東側では、平重盛の軍勢が守っていたが重盛の郎党が放った矢が神輿に当たってしまう。
驚愕した宗徒たちは、神輿を捨てたまま比叡山に遁走してしまうのである。

人が矢に当たってもさして問題にされないが、神輿に矢が当たると阿鼻叫喚の大騒ぎ。
矢を当てた、郎党を抱える家の名誉失墜をも免れない。
この時代の神輿に矢を射ると言う、とてつもない罪深さが伺える。

この時代、後白河法皇に仕える近臣は知行国支配を強化している。
そして、地方の寺は比叡山のような大寺院の傘下に入り、グループを形成していった。
この二大勢力が、激しく衝突していたことが伺える。
それは、強訴や火事あるいは流罪などを頻発させ社会不安を招いて行ったのである。

感想
上記の白山事件、史実としては面白いが、ドラマとしてはどうだったかしら。笑

【2012.10.22 Monday 21:02】 author : いづな薫 
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平清盛感想「はかなき歌」

今日は建春門院の病状記録、死因についてお話をする。

彼女の死は当時の政界に大きな影響を与えるが、それは次回に。

彼女の死因は、当時の貴族の日記に時々出て来る「二禁・にきみ」である。
「二禁」とは何か?腫れ物のことである。

当時の公家・吉田経房(1142年 - 1200年)の日記「吉記」から見てみる。
安元二年(1176)六月九日に、女院が二禁を患い漢方薬の大黄を湿布したことが記されている。
大黄は、ダイオウ属の植物の根から取った生薬で、消炎、止血、緩下作用(かんげ作用・お腹が緩くなる)がある。
化膿止めに使われた。便秘薬にも配合される。

十一日には、腫れ物が3箇所出来て大黄に続き、針灸を施すことが検討される。

十三日には腫れ物が増えてしまい、当時の医療界の名だたる医師が集められた。
検討の結果、灸をしてみてはどうか、と提案した医師らに対し、建春門院の主治医和気定成(わけのやすしげ)が賛同したことが記される。
しかし、位の高い建春門院に対し常識外れの治療法だと指摘する医師がいた。
建春門院の腫れ物は、腋にある。

十七日には、腫れ物が背中に広がってしまった。
二十七日には排膿の必要性からか針治療が検討される。
当時の腫れ物治療法としては、冷水で冷やす、大黄を湿布する、排膿は蛭(ひる)か針治療でと言うのが一般的だった。

しかし治療の甲斐なく
七月八日、建春門院は亡くなった。

当時腫れ物は、毒性が増せば敗血症になり、命を落とす場合が多々あった。
糖尿病患者ならば、なおさら確立は高い。


感想
腫れ物でさしたる治療法もなく命を落とすのでは、長生きするのは本当に大変。
50歳を祝うのもさもありなん。
平家の御曹司、家人で優れた武人である伊藤忠清に弓を習い「戦など起きるのか?」と脳天気な質問。
父祖の代は戦の時代だったのに、平和になると危機感ゼロ。
この危機意識のなさは、実に危ない。
今でも、十分言えることである。


【2012.10.15 Monday 11:43】 author : いづな薫 
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平清盛感想「兎丸無念」

福原の港である輪田泊の工事が進む。
延慶本・平家物語には、この工事のことが語られている、
「かの海は港がなくて、風と波がひどくて通る船がのたうち、船人が死ぬことが昔から絶えない。
清盛はそれを聞いて、家人の阿波民部成良(しげよし)に計画させ、承安三年(1173年)から修築を始めた。
次の年、強風で島が壊れてしまい石の面に一切経を書いて船に積み共に沈めた。」
そして、この島は経島と名づけられたのである。

阿波民部は阿波の国の豪族で、阿波水軍の頭領である。
後に屋島の内裏を築いた人物でもある。
兎丸は亡くなってしまったが、一部阿波民部がモデルとも言える。

当時、日宋貿易が活発化しており清盛の下には宋からの輸入品がたくさん来ていた。
珍奇な品々は、福原の賓客や都の天皇への贈り物とされていったのである。
輸入品が来ると言うことは、宋の商人が多く来日していたことを意味する。
物資の中には、後々日本で重要な貨幣となる宋銭が輸入されている。
宋銭による土地や物資の取引が増え、歴史書「百錬抄」の治承三年(1179)六月には「銭の病」と言う疫病が現れる。
この前は羊の病だったが、今度は銭の病。
病に例えられるほど、治承年間には海外から渡って来た宋銭の流通が闊達になり、
人々を貨幣による経済活動へ駆り立てたことが分かる。

感想
京・五条の橋の上で出くわした遮那王と弁慶。
「義経記」にある説話の再現で面白い。
兎丸が清盛や時忠の政治を批判し、逆に抹殺される。
兎丸のような権力者に耳の痛いことを言ってくれる存在は大事にしなければいけないのに、
世のならいの如く抹殺された。
兎丸事件の後、「禿を始末せよ。」と言った清盛。
ドラマでは禿も抹殺されたことになるのかな。
身寄りのない子供が禿になると言う設定だったが、殺されたならばまた哀れである。
しかし、武力集団である海賊の頭領が不用意に子供に殺されてしまうストーリー展開は、考慮の余地がある。


【2012.10.09 Tuesday 20:07】 author : いづな薫 
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