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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
八重の桜感想「会津を救え」世良修蔵について
 久々、八重の桜感想。興味深い人物が出て来たので。

東北おける戊辰戦争のきっかけになった長州藩士・世良修蔵が出て来た。
鎮撫軍参謀、世良修蔵は仙台藩、米沢藩との会合中に会津藩が謝罪するための条件3つを出す。

1)松平容保の斬首
2)嗣子若狭守の監禁
3)城の明け渡し

タイトルにもあるが、会津藩を必死に救おうとした藩がある。
上杉家の米沢藩である。
米沢藩は、上記の「3条件は過酷過ぎるとし、会津藩も承服できまい」と考えたとの史料が残っている。
そこで、世良の案とは別に、徳川宗家の処分にならい「城明け渡し、削封(禄高を削る)、家老の首を差し出す」を、謝罪条件にしてはどうかと会津に持ちかける。

会津藩は、答えを決めかねた。
藩主親子は恭順の意があるが、家臣たちがああだこうだともめている。
会津は、「城明け渡しは出来ない、削封のみでいかが?」と米沢藩、仙台藩新たに交渉に加わった二本松藩に告げる。
「削封のみでは、鎮撫軍は到底受け入れまい、城明け渡しは必須である。」と、3藩は告げる。
米沢藩は、言うことを聞かねば「会津を討つ!」とまで言った。
今度は会津が折れ、藩主容保の「城外謹慎と削封」を条件に出した。

しかし、米沢藩から無条件降伏を条件に出されていたにもかかわらず会津藩はフランス式軍制改革を整え抗戦体制に入る。
新選組を会津に同行させているのも、戦に備えてのことである。

奥羽諸国は同盟を組み、新政府軍に対し平和的解決を要求している。
みな国を守るためである。
主戦論も一部あったが、穏健派の米沢藩に諸藩合意した。

世良修蔵ら鎮撫軍が仙台に入った時の記録、仙台戊辰史と言う文書がある。
一行は酔いに乗じてひどく愚かな振る舞いをした。乱暴狼藉を働き、仙台藩士を侮辱した事が記されている。
鎮撫軍を最も嫌ったのは、仙台藩である。
一部だが、薩長を武力で追い払おうと主張する者もいた。
実際、参謀世良修蔵暗殺事件も起きた。
世良が、東北諸藩を撃つべしの密書を送ったのが惨劇の直接原因である。

世良修蔵、立場柄、東北では非常に評判が悪い。
仙台藩士に福島で襲撃された時は、重傷だが生きた状態で捕縛された。
密書について尋問されたが、顔面血まみれ、負傷のため答える答えることが出来ず、失神したと言う。
白石にいた仙台藩首脳らのもとに護送は無理だと判断し、福島で斬首されたのである。

【2013.06.10 Monday 20:29】 author : いづな薫 
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八重の桜「遠ざかる背中」と龍馬伝
遠ざかる背中とは、孝明天皇のことだったのね。
孝明天皇は、慶応2年(1866)12月5日徳川慶喜を15代将軍に任命し、同月25日に疱瘡にて崩御している。享年36歳。
あくまで公武合体、攘夷論者であった。
丈夫だった孝明天皇が急逝したため、岩倉具視に暗殺されたとか噂が立ったが、種痘を受けていなかったのが仇となり
天然痘で落命した。

今回、中野竹子が出て来た。
腕が立って、頭が良くて美人だそうだ。
会津では、八重より竹子。
中野竹子の母は、照姫の祐筆だった中野孝子(こうこ)と言う人物。
竹子には、優子という妹がいる。
皆美しく、評判の家族だったそう。
特に、優子が綺麗で、会津戦争の時敵に捕らわれては大変だからと、母と竹子で優子を殺害してしまおうとする。
それを聞きつけたのが、同じく会津藩士依田(よだ)さんちの姉妹まき子&菊子で、中野母娘を思いとどまらせたと言う。

竹子は会津戦争で奮戦し、鉄砲の弾に当たって死亡。
ドラマでは八重の鉄砲をなじっていたが、彼女はその鉄砲で悲劇的な末路を迎えた。
母と姉に殺されそうになった、優子は逆に平穏に長生きし昭和6年まで生きた。79歳で没。

会津戦争を戦った会津女性で特に有名なのが、八重と竹子。
戦死した竹子の薙刀には、辞世の句が結び付けられていた。
「もののふの 猛き心にくらふれは 数にも入らぬ 我が身なからも」

山本覚馬と山川大蔵が、勝海舟にお前の目は節穴か!と怒られていたが、既に1866年末である。
幕府が倒れ、明治までもう1年の所まで来ている。
第2次幕長戦争では、大軍の幕府軍が軍制改革した少数の長州軍にボロ負けする有様。
長州や薩摩は外国と戦争をして、近代兵器の破壊力を身を持って知っているのである。
槍や刀では勝ち目はない。


さて、もうひとつの幕末。
龍馬伝アンコール放送。
龍馬が、江戸の道場へ修業に行く回で、偽手形を作成して弥太郎が付いて来てしまう。笑
主人公の活躍の場、視聴者をハラハラさせる展開、ストリーとしても良く出来ている。
龍馬の自筆の手紙からも察せられる通り、育ちが良く楽しげな人物で、日本史を動かし、ドラマティックな人生である。

1866年は、薩長同盟締結の年でもある。
西郷隆盛は39歳、大久保利通は37歳、桂小五郎は34歳、龍馬は32歳。
日本の政治を大きく動かした人物たちである。

【2013.04.22 Monday 21:03】 author : いづな薫 
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八重の桜「薩長の密約」
アメリカ密航に成功し、新天地で学問を学べる新島七五三太(しめた・後の新島襄)の高揚した気持ちが出ていて良い。
いかほどばかりの喜びかと思う。
しかも、新島が行ったのは南北戦争から3ヵ月後の復興期のアメリカであり、日本は内戦真っ只中である。

さて、龍馬が背中しか出て来なかった「薩長同盟」の回である。

この時、薩摩から坂本竜馬の亀山社中を介して長州に渡された銃に、ミニエー銃がある。

ミニエー銃は、日本史を変えた銃である。

ミニエー銃と軍制改革のおかげで幕府軍10万人余に対し、農民を含む長州軍・数千人で勝ってしまった。

当時、アメリカの南北戦争後で大量に銃が余り、もしくはインド大乱でも同様の状況だった。
では、まだ使える銃をどこに売りつけるか。

武器商人たちが選んだのが、日本である。
当時日本には、50万挺もの銃が持ち込まれたという。

幕臣勝海舟は、著書「海軍歴史」の中で鉄砲買い付けのことを記している。
幕府も長崎で洋式銃や大砲の買い付けをしているが、薩摩藩が群を抜いている。

薩摩の五代才助(後の友厚)は、1864年藩命で長崎に行き、イギリス人トーマスグラバー仲介で、
新式銃エンフィールド銃を大量買い付けしている。
エンフィールド銃とは、イギリス製のミニエー銃を言う。ミニエーはフランス陸軍大尉ミニエーの創始によるもの。
そして、薩摩は長崎での武器取引の過半数を占めるほどのお得意様である。

長州の桂小五郎も、噂を聞きつけ、1865年伊藤俊輔(後の博文)と井上聞太を秘密裏に派遣。
なぜ秘密裏かと言うと、幕府を敵に回した長州との取引を幕命により禁じられている。
トーマスグラバーから、慶応元年には汽船とセットで4300挺(7万7千400両)、慶応二、三年には7000挺の
エンフィールド銃を薩摩名義で買ってもらう。
この銃購入と同時に、締結されたのが、薩長同盟である。

新式銃を大量に駆使した長州軍に、幕府軍は敗退。権威は大きく失墜する。

会津や東北諸藩も、新式銃を買い付けに走るが、西洋式と言うだけで性能の落ちるゲベール銃を購入した例も多い。
山本覚馬は長崎で高価なスペンサー銃を買い、妹・八重に贈ったが、1866年末藩命で買い付けたのは、
ドライゼ銃と言われるものである。撃針銃(Zuendnadelgewehr)とも。
語尾にゲベールと付くが、幕末日本で大量に出回っていた命中精度の低い俗に言うゲベールとは違う。
ゲベールはドイツ語やオランダ語で小銃の意味。
プロイセンは(大雑把に言うと昔のドイツ)、この銃でオーストリアに勝った。
発火装置部品撃針が細い針で、破損しやすい難点を持っていた。


覚馬がドイツ人商人に注文して、在庫300挺を受け取り残りはドイツから取り寄せとなった。
商品が届いたのは1869年、戊辰戦争は既に終わり、銃は新政府に押収された。
八重は会津戦争時、スペンサー銃で奮戦するが新式ゆえ弾丸製造が出来ず、ゲベール銃をも使用することになる。

ドラマで、
薩長が恩讐を乗り越え長州が新式銃買い付けに急ぐ一方、会津藩士や新選組が槍の立ち合いをしているのが、
それぞれの未来を暗示している。

諸藩を言うこと聞かせるために、皆に望まれて将軍になろうとする一橋慶喜が面白い。
味方の松平容保など譜代の前では、他国を排斥する勇ましいことを言い、政権を取ると、休戦に踏み出す。

現代の話である。
長州出身の安倍首相も似たようなことをやっているが、首相と違うのは、
慶喜は、これより薩長相手に政治の高騰戦術を展開して行く。
頭のいい”政治家”である。

【2013.04.15 Monday 19:45】 author : いづな薫 
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八重の桜「鉄砲と花嫁」
勝海舟と西郷隆盛が、幕府の行く末を予言するかのような会話をしていた。
このふたりは、いずれ江戸無血開城の直接の当事者となる。

勝海舟は、旗本幕臣である。
幕府の軍艦奉行並に就任、幕府海軍の創設に当たった。
摂海(大阪湾)において絶大な権限が与えられ、神戸に海軍操練所を開く。
塾生には坂本龍馬や、陸奥宗光などそうそうたるメンバーがいる。
塾生に、池田屋事件や禁門の変にかかわった長州藩士がいたことから、勝も責任を問われ塾長を罷免され操練所も閉鎖された。

長州は、対会津・幕府との戦の他に、1863年に下関を通過する米仏商船を爆撃していた。
攘夷の決行である。
その報復が、禁門の変直後の1864年8月頭に起きた。
英米仏蘭の四国艦隊により砲撃を受けたのである。
この一件で、長州藩は攘夷がとんでもないことを知る。
長州藩内では、幕府寄りの周布政之助(すふまさのすけ)が実権を掌握、幕府に恭順。
攘夷派の3家老は切腹させられる。
禁門の変でも戦った1番若い家老・国司信濃(くにししなの)は、他家から養子に来て、23歳で潔く割腹して果てた。

3家老の命と引きかえではあるが、長州は領地を削られてはいない。
この判断を下したのは、薩摩の西郷隆盛である。
この次期、西郷は勝海舟と会っている。
勝は西郷に、公武合体は無理があり幕府に味方すべきではないことを諭し、西郷は来るべき時のために長州を温存したと考えられる。

幕府・会津、四国艦隊との戦いで満身創痍の長州ではあったが、長州の歯車は逆戻らない。
1863年、長州がやらかした外国船砲撃事件の賠償金を、幕府に支払わせることに成功するのである。
四国連合艦隊側と、直接交渉したのは高杉晋作。
これを期に長州藩は、政策を180度転換してイギリスに急接近するのである。
新しい学問や技術を積極的に導入、軍備を近代化するのである。
これらの事件を収めてまもなく、高杉晋作が、クーデターを起こし、長州藩を倒幕派に覆し、倒幕への道を進んで行くのである。

文久三年(1863年)長州が、下関を通過する外国船を攘夷のために砲撃していた頃の話である。
長州藩士の伊藤俊輔(しゅんすけ、後の伊藤博文)と井上聞多は、横浜から英国に留学のため密航した。
攘夷決行の一方で、藩士を留学させるのが長州藩のすごい所である。

彼らは、ロンドン留学中、ロンドンタイムズに長州藩が度々下関で外国船を砲撃している記事を目にする。
そして、被害を受けた各国は長州に賠償させようとしているのを知る。
西洋の進んだ文明を目にした彼らは、攘夷の無謀さを良く知っており、藩論を攘夷から開国に説得するため、
伊藤と井上は急遽帰国する。
列強軍備の物理的破壊力の凄さ、幕府による第一次長州征伐と、伊藤博文は、長州藩存亡の危機を幾度も経験している。
しかし、坂本龍馬が仲介者となり、薩長同盟が締結され、長州藩は起死回生、難局をかろうじて乗り切った。

短く感想
目の前の敵だけ見ていると失敗する。会津藩もだが、現代の日本人もそう。
アジアの中で対立し、誰が漁夫の利を得るか、大局を見ないと損をするのは日本である。

【2013.04.02 Tuesday 20:36】 author : いづな薫 
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蛤御門の戦い
蛤御門の変の舞台、京都にちょうど今週仕事で行っていた。
御所の蛤御門の門扉に今も”鉄砲の穴”があるので、可能な方はご覧いただきたい。
で、ようやく今、八重の桜を見た。

蛤御門の戦いは元治元年(1864)7月19日に勃発する。
1863年、八月十八日の政変で三条実美ら公家と長州藩は京都を追われ、冤罪を訴えるため京に進軍しようと言う
動きが、長州藩内にあった
これは、桂小五郎、高杉晋作、周布政之助ら慎重派は反対したが、そうこうしている内に池田屋事件が
起きてしまう。
新選組により多くの仲間を惨殺された長州は、久坂玄瑞や来島又兵衛らが、公武合体派と京都奪還を目指して、
進軍することとなる。

この門は、1788年天明の大火前まで、新在家御門(しんざいけごもん)と呼ばれていた。
大火で初めて門が開き、焼けると開く蛤にちなみ、蛤御門と呼ばれた

蛤御門の変では、薩摩藩は幕府・会津藩側に加勢し、長州藩はみたび都を追われる。
長州藩の桂小五郎らは、因州藩(鳥取)と秘密裏に約束し、有栖川宮を奉じて決起することを決めていた。
しかし、土壇場になり因州藩は有栖川宮邸に入り、桂には比叡山に行けと言う。
桂らは因州藩が約束を反故にしたことを知るが、久坂玄随らが立てこもる鷹司邸の戦闘に
巻き込まれてしまう。
久坂玄随、真木和泉、来島又兵衛は死亡。
来島は、胸を撃たれ甥の喜多村武七に介錯させ自害。
来島が八重の兄に狙撃されていたが、来島を撃ったのは後に初代大警視(警視総監)になる薩摩の
川路利良(かわじとしよし)だと言われている。
龍馬伝でも書いたが、来島又兵衛は作家・永井路子氏のご先祖様である。永井氏の旧姓は来島さん。

桂小五郎は、剣術の達人であったがこの戦闘には参加していない。
師・吉田松陰は彼を、「寛洪の量、温然愛すべき日となり、且つ才気あり」としている。
人望があり温和な人物で、激派の多い松下村塾の門下生を止められるのは桂小五郎しかいない。
しかし、桂は池田屋事件、蛤御門の変でも多くの仲間を失うことになる。
ドラマ中で、一人落ちていく桂が、河原で戦災孤児と抱き合って泣くシーンが印象的だった。
桂は乞食や荒物屋(雑貨商)に身をやつし、後に妻となる幾松に助けられながら、潜伏して行くのである。

短く感想
久坂玄随が、死に際、「死んでも後に続く者たちがいる。時の流れは戻せない」と言っていた。
巻き戻され、既得権益者が勝つように見えて、多大な犠牲を払いながら歴史はけっして巻き戻ることはない。
現代もまた同じである。

【2013.03.28 Thursday 19:11】 author : いづな薫 
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八重の桜「守護職を討て!」
開国派で蘭学の大家であったであった佐久間象山は、元治元年(1864)7月11日京都三条木屋町で、
熊本藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)らに暗殺される。
殺された時、後ろから斬られたため、武士として卑怯な振る舞いがあったとされ、所属する松代藩からお取り潰しにあう。

佐久間象山には、三浦啓之助(みうらけいのすけ)と言う実子がいる。
父の非業の死を聞いた三浦は、八重の兄山本覚馬の勧めで新選組近藤勇に会い、入隊し仇討ちを
しようとする。
三浦と言う姓は、義理の母順子が再婚して名乗った姓である。
三浦啓之助の実母お蝶は、象山の妾で佐久間家を去る。
象山の正妻は順子とは、勝海舟の妹・勝順子である。
勝海舟の「海舟」は、佐久間象山の直筆書「海舟書屋」から取っている
新選組への紹介は、山本覚馬でなく伯父の勝海舟と言う説もあるが、新選組嫌いの勝が書状を出したとは
考えにくい。

三浦啓之助、伯父は勝海舟、親は佐久間象山、家族親族に著名人を持つ彼は、新選組の中でもちょっと変わっていた。
ふんだんにある仕送りでいつもよい着物を着ていたと言う。
親の才能を一切受け継がず、乱暴で問題ばかり起こしているどうしようもない人物。
父象山も傲岸不遜な人物であったが、象山から受け継いだ物と言えば、この傲慢な性格ぐらいか。

佐久間象山の、生前の話を少ししてみたい。
象山は、松代藩士佐久間一学の子として生まれている。
一学は剣術使いで、流派は卜伝流である。
上杉謙信の信頼厚い家臣に斉藤朝信と言う人物がいる。
真偽の程は定かではないが、朝信から7代目にあたるのが、象山だと言う。

象山が20代の頃、藩主真田幸貫が海防掛老中になり、象山は海外事情の研究を命ぜられたのである。
象山の研究は、カメラを作ったり、養豚、ぶどう酒、薬用にんじん、馬鈴薯栽培、ガラス製造、洋式兵法、砲術と
当時の自然科学の多岐に渡る。

象山が蘭学を志すもうひとつのきっかけは、清(昔の中国)がイギリスに負けたことにある。
もちろん清がイギリスに軍事力で劣っていたのだが、西洋の学問が清の上を行っていたことを
理由に挙げている。
日本も西洋学問により、国内の充実を目指さねばならないとしている。
国防、国家的課題に取り組み、日本の近代化を目指した象山。
これは当時の学者としては珍しい。
そして彼は、当時の武士階級に西洋自然科学を普及させた。

門人には、吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋下佐内、坂本龍馬、小泉元首相の所信表明演説に使われた
「米百俵」の小林虎三郎もいる。

【2013.03.18 Monday 19:09】 author : いづな薫 
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八重の桜感想「池田屋事件」
 池田屋事件の新選組への恩賞として、会津藩は、近藤に30両、土方に23両、その他に計600両を与えている。

池田屋事件は新選組の名を世に知らしめた事件であり、討幕派の大変な恨みを買った事件でもあった。
有力な志士が殺害されたため、維新が1年遅れたとも言われている。

元治元年(1864)6月5日、京都三条小橋の旅館池田屋で、新選組が攘夷派志士たちを襲撃した。
発端は、四条寺町で道具屋を営む枡屋喜右衛門が新選組に捕まったことから始まる。
その時、武器弾薬と血判書などを押収される。
彼は近江出身の志士で、本名・古高俊太郎と言い、長州藩のスパイ活動と武器調達を担っていた。
古高は逆さ吊りの上、足の裏から五寸釘を打たれる凄惨な拷問を土方歳三らにかけられ、攘夷派の動向を自白する。

自白内容とは、「6月20日頃、京都に放火し混乱に乗じ公武合体派の中川宮、京都守護職の松平容保を殺害し、
天皇を長州へ移す計画である。」

この自白内容には幕府側の記録のみで異説がある。
自白はでっち上げで、長州藩による古高俊太郎救出作戦のための会合との説である。
古高は1ヵ月半後、処刑され口は封じられる。

更には、桝屋喜右衛門(古高俊太郎)の捕縛を知った攘夷派が集会を開くという情報を新選組が入手する。

新選組の局長近藤勇は、集会を襲撃することを決断する。
集会がどこかは、この時点では不明。
新選組を二つにわけ、1つは土方を先頭に縄手通りの四国屋に、近藤らは池田屋を午後10時に襲撃した。
近藤は、池田屋の主人を呼び出し、「旅籠改めである。」と言う。主人は驚いた様子で、建物の奥に逃げ込んだ。
近藤らがその後を追いかけると、部屋の中で志士たちが抜き身を構えていた。
戦闘が開始されてまもなく、土方らも合流した。
戦闘は2時間余とも、明け方と言う説もある。
新選組の沖田総司は、結核のため戦闘中、吐血。
浪士の死亡者は9人、23人逮捕。新選組は1人死亡、2人重傷。囲んでいた諸藩の死亡者も10人を数えた。

さて、次は桂小五郎について。
後の木戸孝允となる彼は、長州藩医和田昌景の子として生まれ、同じく長州藩士・桂家の養子になった。
実父の和田昌景は、蘭学系の眼科、外科の医者で、小五郎はアカデミックな家庭環境に育つ。
長じて、知識欲旺盛で西欧の政治制度、科学技術に関心が高く、維新3傑の中で唯一外国語を理解する。
言葉を勉強すれば、自分の知らない大いなる知識を得られると言う感動は大変な喜びであったに違いない。
彼の貪欲な知識、情報探求、構想力は、めまぐるしく変わる幕末維新の状況判断で遺憾なく発揮される。
温和な性格で、周囲への気配りを忘れず多くの人望を得て、外交にも大いに尽力している。

池田屋事件では、吉田松陰と諸国を見聞した宮部鼎蔵や、吉田稔麿など惜しい人材が死亡している。
桂小五郎は、間一髪難を逃れている。
彼をこの時点で失わなかったことは、歴史の上でも幸いであった。

八月十八日の政変、池田事件、禁門の変と、京都での度重なる長州の敗北は、藩外交を担当していた桂を失意の
どん底に陥れる。
桂は、幕府の追及を避け但馬の出石へ逃亡する。
幕府の詮索が厳しく、名を広江孝助と変え、荒物屋(家庭雑貨店)を営んでいる。

しかし、高杉晋作と言う軍事的天才が藩内勢力を再び討幕派に巻き返すことに成功し、桂を再び政治の舞台へ呼び戻すことになるのである。

ドラマで佐久間象山が、池田屋事件の後「長州は牙を剥いて来るぞ。」と八重の兄に警告する。
しかし長州も、第二次長州征伐で勝つまで、大変な苦難が待ち受ける。
この後第一次長州征伐に遭い三家老切腹、藩内は保守派で固められ、高杉晋作ら討幕派は潜伏せざるを
得なくなる。

新選組は、時代が大きく変わろうと言う時、彼らはあくまで武器は刀にこだわった。
農民、町人を含む浪士で、武士になる夢を持ち、刀により世の中が変わると錯覚したのである。

「長州の反撃」を予告した佐久間象山は、京都三条木屋町で暗殺される。
その高瀬川畔には「佐久間象山遭難之碑」「大村益次郎遭難碑」が建ち、私もお参りした。
すぐ近くにあるホテルオークラは、長州藩邸跡である。桂小五郎の像がある。

桂小五郎は最初ここにいたが手狭になり、近くに屋敷を借り後に妻となる・幾松と暮らした。
幾松は元芸妓で、宴席に出る立場を利用し諜報活動を行い、桂の政治活動のパートナーと言える同志である。
新選組に踏み込まれ時、桂を長持(衣装、寝具を入れる箱)に隠しかくまっている。
長持の中身を疑った近藤勇に、幾松はもし中に桂がいなかった場合は、近藤の切腹を要求した。
あらゆる面で、桂を徹底的に庇護した女傑である。
その寓居跡で現在旅館「幾松」として営業しており、私も泊まったことがある。
桂を隠した長持、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などが当時に近い状態で保存されている。

PS. 上記の古高俊太郎邸跡の碑も、四条河原町近くの料理屋「志る幸」(利休弁当で有名)敷地にある。

【2013.03.14 Thursday 19:42】 author : いづな薫 
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八重の桜感想「八月の動乱」
孝明天皇の御宸翰(ごしんかん、天皇の直筆の手紙)が出て来た。 
会津藩主、松平容保が終生肌身離さず竹筒に入れ首から提げていた品である。 
容保は、それを死のその時まで誰にも言わず誰にも見せなかった。

容保は、孝明天皇から絶大な信頼を受けたが、戊辰戦争では朝敵として戦うこととなるのである。

 文久3年(1863)松平容保が孝明天皇から下賜されたご 宸翰(ごしんかん:天皇直筆の手紙)と
御製 (ぎょせい:天皇の和歌)とは以下である。 

《御宸翰》 「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長 につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、 速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の 存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の 余り、右一箱これを遣わすものなり」 
文久三年十月九日

 訳: 公家たちは暴論を重ね増長していることは耐えがたい。  私を理解してくれ忠誠を尽してくれるそなたに感悦し、
右一箱を遣わすものである。

 《御製》 たやすからざる世に 武士(もののふ)の忠 誠の心をよろこびてよめる 「和(やわ)らくも たけきも相生の 
ま つの落葉の あらす栄へん」 「武士(もののふ)と心あはしていはほをも 貫きてまし 世々の思ひて」 

訳: 大変な世の中に武士の忠誠心に会い喜んで詠んでいる。 「穏やかな心も猛き心も一本の根の相生の松のように栄えて欲しい。 武士と心を合わせればどんな困難も乗り越えられる。


 八月十八日の政変について書く。
長州藩をはじめとする尊皇攘夷派は攘夷祈願として孝明天皇を大和と伊勢神宮に行幸させる計画を練っていた。
これは天皇が大和国の神武天皇陵・春日大社に行幸して、自ら討伐軍を率いて軍議をなし、伊勢神宮にも行幸するという
計画である。
立案者の真木和泉らは、倒幕実行を視野に入れていたと言われている。
これに驚いた会津藩と薩摩藩は譜代、外様の関係を乗り越え公武合体はとして手を組み、
長州藩を京都から追い出すのである。
文久三年(1863)8月18日未明、長州藩寄りの公家・三条実美ら7人が京都から追放、官位は剥奪された。
これを八月十八日の政変と言う。
大和行幸立案者の真木和泉も、七卿と共に長州へ落ち延びていく。
そこで、「出師三策」を表し、軍事力で京都奪還を主張した。

都では、勝ちを収めた会津、薩摩の勢力が強くなる。
会津藩の支配下にあった新撰組により、尊皇攘夷派、倒幕派の弾圧が厳しくなって行く。
しかし、長州も京都に潜入を謀り、巻き返しの機会を狙い続けるのである。
次には池田屋事件、禁門の変と幕長戦争へ発展していく。

【2013.03.04 Monday 09:11】 author : いづな薫 
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八重の桜感想「ままならぬ思い」
 会津国家老・西郷頼母は、江戸で、藩主・松平容保に京都守護職辞退を求めたのに続き、京都に向かった容保の元へ参じ、守護職辞職を求める。

容保は、愚直なまでに生真面目な人物である。
孝明天皇は、松平容保が守護職になったことを大いに喜び「枢機を依頼すべき愛臣」とまで言っている。
孝明帝は親幕派で、倒幕派の多くいる殺伐とした京都の政情を嫌う。
容保は、浪士集団である新選組を支配下に置き、徹底した過激な尊皇攘夷派、倒幕派の取締りを行う。
これが、大いに恨みを買うことになった。

容保は、西郷頼母の意見を受け入れることはなく、逆に頼母を罷免に追い込む。(頼母が家老を辞したとも。)
頼母は5年に及ぶ蟄居生活を余儀なくされる。
今は信頼されても、容保はいずれ多く敵を作るとの、頼母の指摘は当たる。
5年後、頼母は家老に復職するが、時は慶応4年(1868)旧幕軍が鳥羽伏見で惨敗し、容保が会津に帰国した頃である。
この時も、恭順と謝罪を進言、登城禁止、蟄居になってしまう。

鳥羽伏見の戦いの時、会津藩は朝廷の敵(朝敵)として戦い、多くの死傷者を出すのである。
京都黒谷、金戒光明寺〜真如堂の間にある会津藩殉難者墓地には、京都守護職就任から鳥羽伏見の戦いまでの死者352名が眠っている。

西郷頼母と言う人物、会津の国家老にして非常に先見の明ある人物である。
主張しては退けられ、しかし頼母の言うことは予言のように現実になって行く。
今の政治においても、真っ当な意見を言うがため退けられ、中枢から葬り去られて行く人物があまたいる。
それを私たちは見逃してはならない。
歴史は、過去のことであって過去ではないのだ。

【2013.02.25 Monday 20:52】 author : いづな薫 
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八重の桜感想「将軍の首」
 黒船をはじめ、外国の脅威を目の前にした幕府及び諸藩は、日本の近代化が必要なことを悟る。
それは、徳川幕府を中心とするものか、さもなくば西南雄藩を中心とするものかで対立し、抗争がやがて戊辰戦争に発展して行く。
幕藩体制で近代化するのは無理があり、欧米に習い日本の政治システムそのものを変えようと言う胎動が見られた時期である。
後に坂本龍馬の「船中八作」に代表される、新しい政治案が出て来る。
しかし、会津藩主の松平容保はあくまで徳川側の人間であり、幕府が倒れることなど到底許せる物ではない。

京都守護職は、西南雄藩の幕政介入を阻止するため、京都での主導権回復する目的で置かれた役職である。
幕府は、会津藩に対し京都守護職在任中手当てとして文久2年(1862)に5万石、同3年に更に5万石、元治元年(1864)にもう5万石も加増している。
当時諸藩は慢性的赤字に加え、諸外国の脅威に対する海防や手伝い金で、逼迫していたのである。
平和な時代は、城普請や護岸工事などに駆り出されていた大名達は、幕末に至り軍事的賦役を課されることになったのである。

当時京都では、攘夷派の武士たちが奸物とあれば公家だろうと名のある武士であろうと、天誅と称し襲撃する過激な行動を取っている。
攘夷とは、外国を打ち払えと言う排斥運動である。

特に”倒幕”を藩是(はんぜ・藩の主軸政策)として来た長州は、さかんに攘夷を唱えるようになる。
天皇の勅許を得ずに勝手に不平等条約を締結した幕府に対する、不満からの抵抗であった。
そして別の意味、”倒幕”の意味合いを持っていた。
安政の大獄で刑死した吉田松陰は、開国を唱えながら攘夷を叫んでいる。
その弟子たちが多く京都入りしていたのも事実である。
尊皇攘夷派が勢力を握った長州藩は、三条実美らと朝廷工作を着々と進めている。
孝明天皇は攘夷論者であったが、攘夷派の過激行動に眉をひそめた。
朝廷内には、長州につながりの深い三条実美、姉小路公知らが力を持つことを心良く思っていない者も多い。
こうして、孝明天皇は京都の治安維持役の松平容保に期待をかけることになるのである。

慶喜が、京都守護職松平容保を呼び、秩序の回復のため厳しく浪士取締りをするよう求めている。
はじめ、容保よりも慶喜の方が、攘夷派厳罰に賛成であった。
しかし、直後松平容保は新撰組を使い攘夷派を斬り捨てるようになるのである。
これが、会津藩の悲劇の直接原因を作って行く。

来週は長州の桂小五郎が出て来そうで楽しみ。
彼は腕が立ったが、新撰組や会津藩からはとにかく逃げまくる。
生きていなければ志は成せず、である。

【2013.02.18 Monday 20:16】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、サッカー日本代表、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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