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since 2007.5.21 軍師官兵衛 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
軍師官兵衛「天下動乱」
官兵衛は、三成と家康の戦が避けられないと見て三成がどう動くか予測を立てていたようだ。

秀吉は生前、大名の夫人たちを実質人質として大坂に住まわせるようにしていた。
三成ももちろん踏襲し、家康と戦になっても人質を取られた大名たちがいずれ自分に加担すると踏んでいる。

三成は大名夫人を大阪城に集める命令を出そうとしている。
官兵衛の妻光(てる)と、長政の妻栄(えい)も、当時大坂の黒田屋敷にいる。
官兵衛は前もって、2人を脱出させる算段を栗山善助、母里太兵衛らとしていた。
黒田家御用達の商人納屋小左衛門宅に、光(てる)と栄(えい)を移し大坂の湊に係留していた官兵衛手配の船で九州中津まで逃がすと言う作戦であった。
官兵衛は、大坂→鞆→上関→中津と言う航路を事前に調べている。
ところが、三成側の探索が厳しくなかなか屋敷から抜け出せない。
そこで、事件が起きた。
人質になるのを嫌った細川忠興夫人ガラシャが、家老小笠原小斎に自らの命を絶たせたのである。
キリシタンなので、自害はしない。
夫の忠興が三成に激怒したのは言うまでもない。

ガラシャの死と屋敷火災で、三成側の警備が手薄となり官兵衛の妻光(てる)と長政の妻栄(えい)は大坂から脱出成功する。

さて関が原。
息子の長政は関が原に行った。
隠居の身、大人しくしているのが通常だが官兵衛はここに来て野心が沸いて来たようだ。
関が原と同時期に九州で起きた、石垣原の戦いが勃発するのである。
官兵衛は、徳川方と決めていたが九州の大名は大方西方である。
九州豊後大友家は400年間その地にあったが朝鮮出兵で秀吉の怒りを買い改易された。
大友氏は毛利輝元の世話になり、旧領奪還に動き出したのである。

黒田主力部隊は長政につけて関が原に向かったので、九州にいる官兵衛のもとには大した兵力はない。
しかし、官兵衛の元には瞬く間に兵が集まり始める。
黒田の家は倹約家である。
節約して、かなりの蓄財があった。
浪人を金で集めたのである。
中津城に蓄えた金銀を、兵員募集に来た浪人、百姓たちに分け与えた。
総勢9千人も集まったと言う。
長政が関が原に連れて行った兵は5400なので、その数の大きさが知れる。

【2014.12.03 Wednesday 09:16】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「秀吉の最期」
慶長の役の最中、豊臣秀吉が死ぬ。
慶長3年(1598年)8月18日のことである。

死期が迫った秀吉の関心は、朝鮮に出兵させている軍のことではない。
あるのは、何としても秀頼に後を継がせたいと言う妄執である。

その年の春には、京・醍醐で新たに桜700本を植えさせ盛大な花見の宴を開いている。
出兵中のことであり、大名の参加者は秀吉、前田利家のみ。あとは幼児の秀頼である。
女性が1300人も参加という宴だった。

秀吉が、いよいよ床に伏せるようになる慶長3年5月、五大老五奉行に遺言書を書き、徳川家康には幾度も秀頼を頼んでいる。

しかし、家康は天下は回り物と考える。
信長が死んだ時、たくさん男子がいたのにもかかわらず、秀吉が天下を簒奪したのを家康は見ている。
秀吉は、身内をことごとく死なせたことが失敗だったと言える。
弟秀長が病没し、甥の秀次を殺してしまって、豊臣家には成人男子がいない。自ら防御機能を壊してしまったも同じである。

朝鮮出兵で諸大名が疲弊し、慶長の大地震による伏見城建替え命令で臣下の豊臣離れを呼んだ。
秀次と共に殺された妻妾たちに、諸大名の姉妹、娘が多くいたことも原因である。

秀吉が生きているうちは、口に出せなかった不満怒りがその死によって吹き出ることとなる。
それを、味方にして大きな力にしようとしたのが家康である。
家康は、秀吉の死後即座に動き出し諸大名と婚姻政策を結ぼうとする。
家康の6男忠輝には、伊達政宗の娘五郎八(いろは)、福島正則の養子正之には家康養女の満点(まて)が嫁いだ。
蜂須賀家政の嫡子至鎮(よししげ)には、養女万が娶わせられた。
黒田家も、次の天下人は家康だと見ている。
黒田家も家康グループに入ると決め、既婚で子もあった長政は離婚し、新たに家康の養女ねねと婚姻する。

さて、今回遭難死してしまった、官兵衛の次男、熊之助。
母里太兵衛の息子吉太夫と共に、官兵衛や長政のいる朝鮮に向け出航し響灘(ひびきなだ)を出た所で海の藻屑と消えてしまった。
官兵衛夫妻にとって、慶長の役はわが子を失う悲劇も重なった。

朝鮮出兵は、何万と言う多大の犠牲を払い秀吉の死で終わった。
天下の覇権をかけて、日本は再び争乱の時を迎えたのである。

短く感想
6歳の幼児(今で言う5歳)に、国の主権、司法行政権があり、何としても跡を継がせ続けたい老父の妄執。
判断のおぼつかない老人と幼児が国中枢にいる。
いやはや、物凄い社会である。
官兵衛と秀吉の愛憎劇は見ごたえがあった。

【2014.11.10 Monday 11:41】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「落ちゆく巨星」
関白秀次事件で、三成が讒言(ざんげん)したのではないかと言う説がある。
三成が、関白秀次と逆側の立場にあったことは事実である。

秀次が、確実に謀反心を抱いていたと言う確たる証拠はない。
しかし、秀次を関白から追い落とし社会的排除する陰謀であった可能性はかなり高い。

一次史料では見つからない秀次謀反だが、秀次切腹に連座して家臣20人近くと妻子侍女など39人が切腹や処刑となる。
秀次の家臣であった蒔田淡路守(まいたあわじのかみ)は、千利休の弟子で一説には利休を介錯した人物だったとも言われる。
秀次も介錯し、秀次の後を追い自害している。

謀反を疑われ、切腹させられた秀次の供養塔の石碑一部分がこの夏見つかったとニュースになった。
場所は、京都下京区貞安前之町である。
高島屋などが並ぶ、京都の中心街。
出土場所は、かつて大雲寺があったところである。
秀吉の死後、大雲寺の僧が供養のために建てたとの説が出ている。

さて、長政の遣いで伏見城下、福島正則の所へ来た母里太兵衛。
用事を済ませて帰ろうとしたら、酔っ払いの福島正則が呼び止めた。
「酒を飲んでいかぬかと。」
太兵衛は、あの鑓をいただけたら大杯で飲むと応じる。
あの鑓とは、福島が秀吉からもらった名鑓「日本号」である。
室町末期、正親天皇が所持していたのが、15代将軍足利義昭に渡り織田信長、豊臣秀吉
福島正則と渡って来た。
 
「おおしわかった、一献飲んだらくれてやる。」
一献どころか大杯で3杯呑み、まんまと鑓をもらって帰った。

翌日酔いがさめた福島正則は青くなった。
太閤殿下拝領の鑓を返してくれと、黒田家に申し出たが後の祭り。
未だに、「日本号」は黒田家の宝物として福岡にある。
刃の長さ79.2cm 螺鈿製の柄は321.5cm。
母里太兵衛(友信)、黒田節のモデルになった武将である。

【2014.11.04 Tuesday 19:27】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「如水誕生」その如水について
 官兵衛が出家して、その名に選んだ「如水」は、老子の「上善如水」からつけたのだろう。
2000年以上前の中国の思想家、老子である。
越後の銘酒銘柄にもなっている。
こちらは「じょうぜんみずのごとし」と読むそうだ。

「上善如水」とは、人としての理想の生き方を表した言葉である。
水は、容器によって変幻自在に形が変わる。
無理に、人に逆らわず柔軟に対処していれば人生を全う出来るという教えである。

水は万物全てに恩恵を与え、自らは人のいやがる下へ下へと流れて行く。
そして、硬い物を打ち砕く強さもあり、いざと言う時は力を発揮し目標達成も出来る。

老子は、人間は自然の一部であり、自然の中にあってこそ人の進むべき道だと説いている。
自然尊重主義なのである。

そして、「水」に、「最上の善」を見ているのである。
”最上の善”とは何か。

戦争をしないことである。

2000年ほど前、老子が生きた中国は春秋戦国時代で争いが絶えず、利権を武力で奪い合う時代である。 
この時代中国には、優秀な学者、学派があまた出た。
これを諸子百家(しょしひゃっか)と呼ぶ。
諸子とは、孔子、老子、墨子、荘子、孟子、荀子などである。
百家は儒家、道家、名家、墨家、法家などの学派をさす。

老子の時代よりも、1500〜1600年ほど後の日本の戦国時代も力ある者が武力で奪い取る時代である。
官兵衛が、老子の教えに理想を見たのもわかる。
上善如水の一文を訳すと、

最善の人とは、水のような人である。
住居は低地に建て、思慮深く、交友は親しく、言葉は誠実に、政治は良く治め、仕事の処理能力は高く、行動は時を誤らず、そして争わない。
これならば、災難は起きない。」 

2000年前の哲学者、老子。
時代は違っても、国が違っても、人が理想とする真理は変わらない。

人間は、理想を持たなければいけない。
そうでなければ、進化もないし歴史も刻めない。
幾度か、このブログでも述べたが、

歴史とは、人間が理想に向かって努力した軌跡である。

御用メディアと化したNHKもそうだが、
近頃の日本人は、理想を持たずに権力に擦り寄り、よどんでいる。
よどんだ水からは、悪しき物しか生まれない。

そう、感じるのは私だけではあるまい。

【2014.10.27 Monday 20:25】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「太閤の野望」
天正20年(1592)4月、朝鮮侵略のベースキャンプである肥前名護屋城が完成した。
この年は、途中で文禄に改元される。
文禄慶長の役の始まりの年になった。
文禄の役で、朝鮮へ渡海した日本兵は158,800人。
宣教師ルイスフロイスが、15万人渡海しうち5万人が死亡という記録を残している。
死因は、戦死ではなく飢え、寒さ、疫病、労苦による過労死である。

黒田家の当主は、長政なので彼が5000人を率いて戦闘に加わった。
官兵衛は、戦目付けのような役目である。
しかし官兵衛は、朝鮮で体調を崩し秀吉の許可を得て帰国している。

文禄元年4月12日、 日本の朝鮮侵略が開始される。
1番隊を率いて釜山に上陸した小西行長が、東莱城と釜山城を落とす。引き続き、大邱(テグ)、仁洞(インドン)、尚州(サンジュ)や忠州(チュンジュ)を次々と制圧し、漢城(ハンソン、現ソウル)に向けて朝鮮半島を縦断して進軍した。

地上戦では、日本軍の勝ち戦が続いたが開戦となると全く様相が違う。
同じ頃、文禄元年5月上旬、李舜臣率いる朝鮮水軍に初戦から大敗している。
この情報は、すぐに日本に届き巨済島近くに脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明を援軍として送っている。
しかし、6〜7月にかけまたもや日本惨敗。
翌年文禄2年になると戦況はこう着状態なり、日本側に犠牲者が拡大し秀吉の渡海が中止される。

そして、官兵衛の方は秀吉の命で渡海することになった。
今度は、浅野長政が同行している。
この時、珍妙な事件が起きる。
漢城(ハンソン、現ソウル)にいた石田三成が、渡海して来た官兵衛と浅野長政を東莱(トンネ、釜山北部)に訪ねた時のことである。

三成が来た時、官兵衛と浅野長政は碁に夢中で三成を待たせることになった。
それにへそを曲げて、帰ってしまった三成。
もちろん、秀吉に書簡でこのことを報告した。
焦ったのは官兵衛である。
申し開きをするため、冷静沈着な官兵衛が無断で帰国してしまった。
碁の一件だけなら、さしたる咎めはなかっただろうが無断帰国は軍律違反である。
官兵衛は蟄居させられ、出家し如水円清(じょすいえんせい)が誕生するのである。

短く感想
いじわる三成と害獣秀吉がものすごいんですけど。笑
秀吉よ、障害者の官兵衛を杖でつついてはいけません。他の人に対してもですが。

【2014.10.21 Tuesday 17:13】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「小田原の落日」 「男たちの覚悟」
秀吉の天下統一は、小田原城攻めを終点とする。
天正18年(1590)7月のことである。

北条氏の居城、小田原城は惣構(そうがまえ)と言う造りで城壁の中に城と町を組み込んでいる。
よって、容易く落ちない。
同年4月から、秀吉は21〜22万の大軍勢で小田原を包囲する。
兵糧米20万石を、小田原に輸送させ長期間大軍勢滞在を可能にした。
秀吉軍は、大軍なので力攻め出来ないことはない。
しかし、味方も多大な被害を出す。
そこで、開城を勧めてみようと言うことになった。

使者は、官兵衛。
官兵衛は、前もって北条氏政・氏直親子に酒2樽、ホウボウの粕漬けを贈り、官兵衛自らが小田原城を訪ねることを告げた。
官兵衛は、刀を持たず、肩衣袴で北条父子に会い開城を説得している。
即答では返事はもらえなかった。
しかし、後日官兵衛の元に酒と粕漬けのお礼に、名刀日光一文字(現在国宝)と北条白貝(ほら貝)、吾妻鏡が贈られて来た。
返礼の豪華さを見ても、官兵衛の説得に北条親子は思う所があったと推測できる。
父氏政はそれでも徹底抗戦を望んだが、子氏直は官兵衛に心を動かされ、自分の命と引き換えに城兵の命を助けるよう申し出て来た。
氏直の妻は家康の娘であり、神妙な姿勢を示したことが評価され、死をまぬがれ高野山に送られた。
翌年秀吉より赦免され、しかし同年病没。小田原攻めから、1年4ヶ月後のことだった。
父氏政、叔父氏照は小田原落城時に主戦派として切腹となっている。

天下統一は成ったが、秀吉は戦をやめない。
国内に戦がなくなれば、恩賞を与え大名たちを自分にひきつけておくことが出来なくなる。
そこで、考えついたのが外国の土地を奪い大名たちに与えようと言うものである。
現代でも、戦争を起こし、もしくは経済政策で外国の富を奪い自国を潤す政策はごく普通に行われている。

秀吉は、島津氏征伐など九州平定のあと辺りから、対馬の宗氏を仲立ちとして朝鮮との交渉を始めている。
北条を攻め滅ぼした天正18年(1590)11月、朝鮮からの使者が来日。
聚楽第で会ったが、自分に服従してきたものと勘違いした秀吉は明攻めへの先導役を申し付ける。
しかし、違うことが分かり怒って朝鮮出兵を決断している。
朝鮮を攻めるにあたり、肥前名護屋に城を築くことになった。
城普請を命ぜられたのは、官兵衛と小西行長、加藤清正である。
黒田家の家譜「黒田家譜」によると、縄張りは官兵衛だったと言う。

短くドラマ感想
手のつけられない我がまま老人秀吉を、命がけで諌めた利休の言葉。
「豊臣家のために天下があるのではなく、天下のために豊臣家がある。」
現代、公明党の山口代表が「アベノミクス維持のために、消費税10%増税が必要。」
分かりやすく言えば、「アベのために血税が必要。」と言うことである。
御用メディアNHK、千利休のセリフではまともなことを言わせるが、現代政治も豊臣同様とんでもないことになっている。

【2014.10.13 Monday 16:10】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「跡を継ぐ者」
秀吉が、いきなり無慈悲な殺戮を始めたようにドラマでは描かれていたが何もこの時始まったことではない。

天正17年(1589)5月15日、44歳の官兵衛は22歳の長政に家督を譲る。
今から考えると早い当主交代だが、官兵衛も22歳で44歳の父・職隆から家督を継いだ。
伊達政宗は18歳で41歳の父輝宗から家督を継いだ。
北条氏直は21歳で、父の氏政は43歳である。

子供は自立し、親は後見にまわり別の職務を始める場合もある。
官兵衛の場合は、秀吉がまだまだその知略を必要とした。
小田原城攻囲網を行った北条攻めは、この翌年である。

家督交代は許されても、隠居はさせない。
官兵衛が、子・長政家督相続を申し出た時、秀吉はすんなりOKしなかったことが、「黒田家譜」に記録されている。
訳すると、「孝高(官兵衛の名)の才智を惜しんで、年いまだ五十にもなっていないのに引っこみ安楽に暮らす事はかなわない。と、隠居は許されなかった。常に左右に置いて謀を問い知略を用いた。」

官兵衛は、北政所に願い出て秀吉を説得してくれるよう頼んでいる。
秀吉は茶々に入れ込んでいるが、正室おねの力は大きい。
長政は、子供の頃、信長に人質として送られ秀吉預かりとなりおねが面倒見ていた。

官兵衛が家督を譲ったのは、宇都宮鎮房(しずふさ)の一族皆殺しのような凄惨な出来事の後である。
責任を取るの意味を含み、政務を一新、そして秀吉の官兵衛への疑心暗鬼から逃れるためだったのかもしれない。

官兵衛は豊前を長政に任せ、京の聚楽第の猪熊邸に住むようになった。
猪熊邸は、千利休邸のお隣である。
今でも官兵衛にちなんで「如水町」や「小寺町」の地名が付近に残る。
この辺りは聚楽第跡の石碑の他に、上杉景勝邸や、利休邸の碑もあり面白いので可能な方は訪ねてみると楽しい。

一方、黒田家当主となった長政は、天正17年(1589)6月17日、従五位下甲斐守を任ぜられた。

【2014.09.29 Monday 09:57】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「追い込まれる軍師」
 「わしの後、天下を取るのは黒田官兵衛・・・。」
天下人となった秀吉は、おそらくそんなことはいわない。

でも、官兵衛が秀吉に疎んじられ、ひょっとしたら黒田家が危ないと感じていたのは事実だろう。
秀吉は、利休、官兵衛と耳に痛いことを言う人物たちを排除していく。
まもなく、武士でもない利休が切腹に追い込まれる。

秀吉に警戒されている官兵衛は、宇都宮の一件もあり、長政に家督を譲ることになったと思われる。
官兵衛が、明に攻め入ろうとしている秀吉に反対していたが、周知の通り朝鮮半島への出兵は行われる。
文禄の役だけで、158,800人が渡海。
ルイスフロイスは「日本史」の中で15万人渡海、5万人死亡と記録している。

当時、秀吉の甥・関白秀次がいる。
秀次の政治的求心力が増し始めると、今度はこれを恐れた秀吉&三成は、難癖をつけ秀次とその家族を処刑。
しかし、これが豊臣政権崩壊に拍車をかけることになった。
秀次には側室が大勢いたため、姉妹娘を殺された諸大名が大勢出たのである。
そこへ、慶長伏見地震が起きる。
秀吉は、朝鮮派兵と秀次事件で疲弊した諸大名に自分の居城伏見城の再建を命じた。
しかも、壊れた元の城よりも堅固に豪華な城を建てよと。
そして、明との和平交渉がまとまりかけた矢先、再度の朝鮮出兵・慶長の役を命じたのである。
官兵衛も、慶長の役の最中次男熊之助を溺死で失ってしまう。
文禄慶長の役の甚大な被害と、慶長の大地震で倒壊した伏見城建替えを言われた諸大名は、秀吉&三成の豊臣政権から心が離れていく。

大名も一般の人々も、豊臣家の滅亡を願い、徳川家康の台頭を待ち望むようになる。
しかし家康は、秀吉や前田利家存命中に無理に戦を起こし被害を被るより、老いぼれた秀吉の死を待った。

まだそこまで行っていない、ドラマの話。
秀吉が、天下平定が近くなり”まつりごと”の自己目的化をしようとしている。
それを官兵衛が懸念している。
戦国を終わらせるためでなく、おのれの欲である。
政治の自己目的化。
今の、日本の首相に似ているではないか。

三成は官僚としては大変有能でも、天下人の間違いを軌道修正する能力はない。
これまた、現代にいる。
国民利益は考えない官僚が、アホな首相の手綱を取っているのが現代。

昨今、日中、日韓の雪解けが始まったようでこれは良いことである。

【2014.09.22 Monday 16:19】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「紀井谷の悲劇」
宇都宮氏で思い出したことがあり、蒙古襲来絵詞(宮内庁蔵)の本を開いている。

文永11年(1274)と弘安4年(1284)の2度にわたる元寇で、出陣した肥後国御家人・竹崎季長が描かせた絵巻である。
風俗や戦闘の緻密な描写は鎌倉時代を今に伝える、大変貴重な史料である。
この絵巻の中に、竹崎の他にも、騎馬武者が沢山出て来る。
とある騎馬武者の甲冑の臑当(すねあて)に、左三つ巴の家紋が描かれているのである。
左三つ巴は、宇都宮氏の家紋である。
絵巻に出て来る人物郡は、絵巻を作成した竹崎季長と何らかの関係がある。
宇都宮は、竹崎の親類縁者である。

宇都宮氏は、元は藤原宗円と言う公家の流れを汲む名門家系で、鎌倉時代下野国(現在栃木県)に住む有力御家人であった。
宗円の次男の子信房が、源頼朝の命を受け喜界ヶ島(現鹿児島県)の阿多平四郎を討ち、功績により
豊前国で地頭職を与えられた。

蒙古襲来絵詞に描かれた元寇は、執権北条氏の時代である。
頼朝より後の、北条執権時代も宇都宮氏は北条氏と政治的に密接な関係を結び、当時国土の防衛線である九州において重要な任務を担っている。


彼らが、官兵衛に出て来る宇都宮鎮房(しげふさ)祖先である。
以来、400年間18代にわたり豊前・城井谷(きいだに)に住んだ。

余談だが、下野国宇都宮氏は秀吉の時代に改易になり、御典医だった・宇津権右衛門は帰農する。
農業の傍ら、村人のために作った薬が「金匱(きんき・貴重な)救命丸」。
これが、今でも売られている赤ちゃんの薬、「宇津救命丸」である。

宇都宮鎮房(しげふさ)に話を移す。
秀吉が、伊予へ転封を命じたのに命令に従わない。
後に入って来た官兵衛とは、合わないのは当然である。
一揆を起こし最後まで従わない宇都宮鎮房(しげふさ)を、父官兵衛の命令に逆らい、
長政が2000の兵で攻めるが、逆に惨敗。
失った兵は、なんと864人。
城は、城井川、峰に囲まれ、幾つもの砦を配置した天然の要害である。
比較的少人数でも、防御できる城である。

やがて、黒田と宇都宮は和睦を結び、宇都宮が息子・朝房と娘・鶴を黒田家へ出仕させることになった。
しかし、家臣を大勢討たれた長政は、宇都宮を許すつもりはなかったと見える。
元はといえば、長政自身の失策なのだが。
秀吉の命に従わなかった鎮房(しげふさ)も、一族皆殺しの原因である。

父官兵衛は、肥後出陣へ鎮房(しげふさ)の子朝房を連れて行っている。
この朝房も出陣中、殺される。

父子を引き離し、長政は酒宴に宇都宮鎮房(しげふさ)を呼び、惨殺。
城下の、合元寺に控えていた宇都宮家臣たちをすべて謀殺している。
合元寺の壁は、寺なのに真っ赤に塗られている。
この時の血糊が、消しても、消しても消えないので、壁を赤く塗ってしまったと言う。
柱には、当時の刀傷がいくつも残っている。

惨劇はまだ終わらなかった。
城井谷(きいだに)に長政らが攻め入り、鎮房(しげふさ)の父・長房ら一族も殺害された。
出仕していた娘・鶴も磔(はりつけ)となっている。

【2014.09.15 Monday 11:23】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「傷だらけの魂」
 NHKの8月の安倍内閣支持率、7月より4%もUPして51%。
UPする要因もないのに上がり、しかも51%もある。
私は、支持率調査など信じないことにしている。
数字をぶち上げて、それに近くなるよう持って行くのが日本のマスコミである。
NHKは、政府が右と言ったら右に向くそうなので、言うまでもなく政権の広報課である。

軍師官兵衛をはじめ最近の大河は、家族にこだわりが大きい。
これも、国民の面倒は見ないから、介護も子育てもなんでも家族でやれ、という政府の政策に沿っている。
政府の圧力が見え見えの大河である。


官兵衛が、キリスト教に入信する回だったので、そのことを少し書く。
興味深い資料がある。
1586年10月17日、ポルトガル宣教師ルイス・フロイスがアレッサンドラ・バリニャーニ司祭に送った
書簡の中に、官兵衛のことが書かれている。
「本年大坂に居合わせた関白殿の家臣の中に、高貴な貴族で30年前キリシタンとなった小寺官兵衛という
人物がいる。
思慮深く、まれな才能を有するため関白殿は彼を山口の王に遣わして交渉を始めた。」
山口の王とは、毛利氏のことで当時当主輝元は山口居住でなくて、安芸郡山城に住んでいる。
1586年から30年前と言うと、官兵衛は11歳なので官兵衛が単独でキリシタンとなるのは難しい。
なので、おそらくこれは間違い。
しかし、官兵衛が毛利と綿密な交渉を展開していたのは事実である。

官兵衛にキリシタン入信を勧めたのは、高山右近が1583年頃と言われている。
黒田家の公式な記録「黒田家譜」には、入信の記録がない。
家譜が、江戸時代の成立でキリシタン禁教の時代と重なるからであろう。
しかも編纂者は、儒学者の貝原益軒である。
儒学者は、儒教を研究するのでキリスト教には無理がある。

官兵衛の洗礼名は、シメオン。
「耳を傾ける」の意味がある。
古代ユダヤに由来する男性名。ギリシャ語化されてシモン。
「SIMEON JOSUI」と、ローマ字印が押された書状が残っている。

官兵衛は、秀吉の九州攻めにあたり戦場に修道士を連れて行ったとフロイスは書いている。
時間が許す限りそばに置き、自で彼らの世話をしながら、家臣たちに教えを聞かせた。
官兵衛が不慣れな手つきで十字を切り、頭と両手を床に着けひれ伏していたと言う。
その姿は真摯で、見ている者に感動を与えたとある。

1587年、秀吉によるバテレン追放令が出て官兵衛は表面上棄教する。
しかし、キリシタン迫害の時代になっても、官兵衛はキリシタンを保護し続けた。
イエスズ会に1000エスクの寄付があったことを、明治期にパリ生まれの東洋学者のレオン・パジェスは「日本耶蘇教史」に記録している。

長政ら子供たちは入信したが、熱心な浄土宗信者である妻光(てる)は入信していない。
秀吉にキリシタン庇護を責められたこともあったが、その信念は曲げなかったようだ。
家譜にはないが、官兵衛の葬儀は博多の教会でキリスト教式で厳粛に行われたとキリスト教関連の史料にはある。

【2014.08.18 Monday 11:34】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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