大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 花燃ゆ | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
花燃ゆ「塾を守れ!」
 文(ふみ)がいくら家庭的な温かさを見せ、松陰の暴挙を止めようとも松陰は聞く耳を持たない。
更には、親友で義理の弟でもある小田村伊之助をも罵る。

ただ、松陰の言動は分からなくはない。
彼は、幼い頃から国を守る武士として、兵学者として苛烈な教育を受けている。
けっして、温かな家庭を守って生きるようにとは教育されていない。
教えた叔父玉木文之進は、日露戦争の時の乃木希典を教えた人でもある。

度重なる過激な言動により松陰は投獄されたが、もちろんそれでおとなしくしている松陰ではない。
伏見要駕策(ふしみようがさく)、老中間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画と、過激さを増して行く。
さすがに、愛弟子たちも時期尚早、計画阻止に入る。
伏見要駕策(ふしみようがさく)とは、江戸に向かう毛利藩主を尊皇攘夷派公家が待ち伏せして、
尊王攘夷の旗揚げをしようと言うもの。

これを誰が行くがで、算段していたのがドラマのシーン。
入江九一・野村靖兄弟のうち、弟の靖が行くことになったが露見している。
(野村は、兄弟の実父の旧姓)
入江・野村兄弟は、下級武士が入る岩倉獄につながれることになった。

松陰が死にこだわるのは、自分が非業の死を遂げることで尊王攘夷運動が盛んになると言うもくろみがある。
自ら、起爆剤になろうと言うのである。

江戸で投獄された後、死を拒否し、生きることへの希望、死生観の転換も見せるがそこまで進んでいないのでそのうちまた。

花燃ゆ、ブログに書いてはいなかったが毎回見ている。
ホームドラマ、学園ドラマ風だが面白いと思う。
一般視聴者には、トラブルメーカーの兄に振り回される大変な家族の話に見えるかもしれない。
ふみたち家族が、何を思い暮らしていたかは歴史的に探索するすべはないが、
吉田松陰の壮絶な人生も、そろそろ佳境である。

【2015.04.15 Wednesday 15:58】 author : いづな薫 
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花燃ゆ「波乱の恋文」
吉田松陰が、親きょうだいの元を離れ、江戸遊学に向かったのは嘉永4年(1851)数えで22歳の時のことである。
目的は、軍事学研究である。
江戸では、松代藩出身の蘭学者・佐久間象山の塾に入門している。
象山は、身なりにうるさい男で、ドラマの中でも松陰は親友の小田村伊之助に着物を借りて会いに行っている。

松陰は、江戸に出て国許長州との学問レベルの差について驚いている。
そのことを記した手紙が残っていて興味深い。
友人には、江戸は大したことはないというような内容の手紙を書いたが、実兄梅太郎にはその驚きが記されている。
「天下に英雄豪傑は多くして、彼らの上に出ようなどと言うことは、才能のない私にはできません。
私が一歩進めば、ライバルも一歩進みます。
できの良くない私は、人が十歩、百歩進む間にやっと一歩踏み出します。」

大げさな表現だが、松陰が江戸に来て多大なショックを受けたのは確かだろう。
その次に、松陰は東北へ巡視の旅に出る。
水戸に寄り、松陰の思想が大きく転換するほどの変化があった。
水戸は、徳川御三家でありながら勤皇の家柄である。
藩主斉昭(なりあき)に仕え政治改革をした会沢正志斉、豊田天功ら高名な学者に松陰は師事している。

東北への旅に出ることは許可されていたが、過所(かしょ 過書とも)の交付がまだであった。
過所とは何か。
過所とは、幕府や朝廷が発行する関所通行手形である。
松陰が、東北への度にいざ出発しようと言う時、江戸の長州藩邸の役人が「過所」がおりていないと
言い出した。
松陰は、単独の旅ではなかった。
肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)らの同行者がいたのである。
過所の発行を待つことは、宮部らとの約束を違えることを意味していた。
宮部らと出かけてしまえば、過所不所持で国法を犯すことになる。
松陰が選んだのは、宮部らとの約束であった。
過所なく、旅に出てしまい、亡命の罪を着ることとなったのである。

藩は、松陰に長州帰国させ蟄居謹慎を命じた。
父・百合之助(ゆりのすけ)の監督下におくことにしたのである。


さてもうひとり出て来た興味深い人物。
周布政之助(すふまさのすけ)。
長州藩の英才で重臣、若き志士たちを大変可愛がった。
志士たちが、その行動から若いうちにこの世を去ってしまうことを予想し涙するような人物である。
志士たちから絶大な信頼を置かれたが、薩摩の西郷のように尽きることを知らない情を振りまくには
この人物は理知的過ぎた。


周布は、文政6年(1823)長州藩萩に生まれている。
同年に、父と兄を失ってしまい、周布が家督相続した時、彼はわずか生後4ヶ月の赤ん坊だった。
8歳で藩校明倫館に通い、中国古典や書を習う。
21歳の時、同館の”居寮生”となった。
明倫館とは、長州藩の子弟が通う教育機関である。
学生の中から特に優秀な生徒を選び、寄宿させ”居寮生”と呼んでいた。
周布は、居寮生となりますます勉学に励んている。
明倫館を出て、藩の役人となったのは1847年、周布が25歳の時である。
最初の仕事は、金や穀物の出納検査係。これは見習いでのちに本役に昇進。

松陰が江戸や東北で研鑽を積んでいる頃、周布は藩の機密事項を扱う重職に就いている。
江戸祐筆添役(えどゆうひつそえやく)と言う職である。
政治的任命権もあり、藩役人の中でも特に優秀な人材が選ばれた。
周布は、藩政府中枢に入ったのである。

日本はまだ泰平の眠り中にいたが、
程なくして、海の向こうでは日本に向けて出航しようとする艦隊があった。
米国のペリー艦隊である。
浦賀に来るのは、嘉永6年(1853)である。
松陰の人生も、幕末日本の行く末も大きく変換させる時が迫っていた。

【2015.01.14 Wednesday 19:35】 author : いづな薫 
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花燃ゆ「人を結ぶ妹」&現代を考える
幕末男子の作り方だの、今回の大河およそつまらないキャッチコピーを添えている。
NHKでは、南京大虐殺を南京事件と言い換え安倍政権への遠慮から来る、自粛、自己検閲が盛んになっているそうだ。
”権力の監視”と言う、メディア本来の機能なんて微塵もない。

昨今、大河ドラマもやたら家族、家族と言っている。
家族と言う概念は、そんなに古い物ではない。
せいぜい、明治からこちらである。
家族をテーマにすれば、歴史に興味のない視聴者からも視聴率を稼げると踏んでいるのか。
そして何より、安倍政権広報NHKからの、政府は国民の面倒を見ないから介護でも何でも家族でやりなさいよ、
と言うメッセージである。

まあ、それでも幕末の志士たちが出るので「花燃ゆ」第1回目を見た。
吉田松陰が、長州の藩校・明倫館で学ばなければいかん、考えなければいかん、と盛んに言っていた。
幕末明治の人たちは、非常時を生きる。
彼らは、今よりも情報は少ないのにその情報がやがて何を引き起こすか、どう対処したらいいか、あらゆる可能性を深く考えている。

この点、現代人は全く退化している。

薩摩や長州の人々は、幕末欧州の国々と戦争をしている。
戦争をしてみて、戦っている場合ではない、学ばねばいけないとすぐに気がつくのである。
長州の凄い所は、外国船への砲撃(攘夷決行)の1863年5月、井上聞多(馨)や伊藤俊輔(後の博文)ら
5人(長州ファイブ)を横浜から英国留学に向けて旅立たせているのである。
井上伊藤ら5人を英国に密航させたのは、長州藩重臣・周布政之助。

そして、井上と伊藤はロンドン留学中、ロンドンタイムズに長州藩が度々下関で外国船を砲撃している記事を目にする。
そして、被害を受けた諸外国は長州に賠償させようとしているのを知る。
西洋の進んだ文明を目にした彼らは、攘夷の無謀さを良く知っており、藩論を攘夷から開国に転換させるため、
伊藤と井上は急遽帰国する。
列強軍備の物理的破壊力の凄さ、幕府による第一次長州征伐と、伊藤博文は、長州藩存亡の危機を幾度も経験しているのである。

ドラマ最後に、祐筆・椋梨藤太(むくなしとうた)が出ていた。
簡単に言えば、「幕府&江戸時代続行!改革だめ!」の人物である。
この人物により、高杉晋作、周布、井上ら改革派は、散々苦しめられ多くの命で贖うことになるのである。

現代日本では、メディアが中国、韓国のネガティヴニュースを垂れ流し、今や日本人の9割が中韓に悪いイメージを持っている。
外交はもっと大局的に見ないと何が起きているか把握出来ない。
小競り合いに夢中になり、弱者と弱者の戦いになり富や権利を簒奪する巨悪に気付かない。

そして、外交には常に裏がある。

戦乱の時代を見れば簡単だ。
情報として流布する内容は嘘が多く、敵を欺くためにわざと流されるものが多い。
正確な意味を解読するのが当然だが、これが現代行われているか。
否である。ニュース内容を鵜呑みにしている人が多い。
現代の日本の与党に、国際社会の政治力学、駆け引き出来る政治家が一体何人いるか。
米国にくっついていれば、植民地であれば、考えることすら不要である。
だから、知的貧困をさらす安倍首相みたいなのが出て来る。

幕末の志士たちは、多くは20〜30代である。
彼らはわずか2000人程度である。
彼らが倒幕し新しい世の中を作り、回天の偉業を成し遂げた。

今回の大河は、主人公の歴史史料が非常に少なく創作が多くなるので、私も毎回見るとも限らない。
けれど、幕末明治の人たちが、強大な欧米列強が日本を簒奪をしようとする中で、どう国益を守ろうとしたか考えてみたいと思う。
現代の特に米国、そして米国を追い抜く中国との付き合い方の答えが見えて来るだろう。

【2015.01.05 Monday 21:24】 author : いづな薫 
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時事問題、歴史、環境、料理、W杯、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
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