大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
真田丸 最終回
レビューは書いては来なかったけれど、毎回必ずではないが真田丸を見ていた。
この番組は、本放送と録画を合わせるとずいぶん人気だったそうだ。
そうそう史料がない時代で、三谷幸喜さんのオリジナルな部分が多かった。

真田丸が現代人に受けた理由を考えてみた。
いくつか明確なポイントがある。

1)敗者を描いたこと
2)偉大な父を持った2代目の苦労 
3)大阪の陣では、豊臣側近家臣と浪人がまるで正社員と非正規雇用のようであったこと。

1)に関して、歴史書は多くは勝者の立場で語られる。
  でも、敗者にも歴史はある。
  現代も昔も、人間の多くは自己の望みの多くを達成することなく生涯を終える。
  どうにもならない状況の中で、もがきながらどうにか生きる道を模索しているのである。
  真田家は弱小団体である。
  織田、徳川、北条、上杉ら強大な勢力に脅かされ、どこかについていなければ生きて行けない。
  その中で懸命に生きる姿に勇気をもらうのかもしれない。
  ドラマや小説など創作物は、主人公が苦労してなんぼのものである。

2)武田勝頼、徳川秀忠、上杉景勝、そして真田幸村、みな偉大な父がいる。
 父を乗り越えようとし、乗り越えられず、乗り越えても敵に惨敗する姿に視聴者は共感したのだろう。
 昔だと、不幸な生い立ちに生まれどんどん出世して行くようなドラマが好まれた。秀吉なんてその典型である。
 生い立ちが不幸でも、高度成長期やバブルで、国民の多くが豊かになれたのである。

3)大阪の陣では、秀頼の周りにいる重臣、淀、大蔵卿は正社員で、浪人は非正規雇用にあたる。
 浪人は、命をすり減らして働いているのに、信用もされない。
信用されない上に、真田丸ぶち壊しや堀埋めなど多大な妨害までされる。
まるでブラック企業である。
その悪条件の中で、必死に頑張る幸村は閉塞感の中を生きる現代人の共感を得たのかもしれない。
もう、昔のような景気の良さは望めない。JRの幹部が言った、それこそ戦争でも起こさない限り、である。
起きては困るが、起きるのではないかと思う。

私は、ここ10年くらいの大河ドラマだと、龍馬伝と篤姫が秀作だと思っている。
この2作は視聴率も良かった。
でも、龍馬伝は今から6年前だが、今放送したとして当時ほど共感を得られるか否か疑問だ。
それほど、目まぐるしく悪い方へ変化している。
龍馬は、侍の身分は低いが裕福な家に生まれ会社も興し今で言えば給料100万円超の一流商社マンである。
政治的にも重要な位置にいた。
一方幸村は、生まれはそこそこだが、政治家ではない。
軍略家としては父子そろってとても優秀だが、惜しむらくは豊臣方についてしまったことだ。

ドラマや小説など創作物を見ると、放送(発刊)された時代がどんな世相かわかる。
例えば真田丸なら幸村の生きた16〜17世紀より、現代の価値観が多く織り込まれるからだ。

脚本家の三谷幸喜氏は、幸村を「敗者の守り神」と称している。
悩める人への応援歌であると。
しかし、勝者にも悩みはある。
違うのは、勝てば苦労も報われるが、敗者は行き先に希望が見えない。
現代はそういう人が多くいると言うことなのだ。

最後家康vs幸村になった時、互いの主張を述べ合うシーンがあった。
幸村は父のため愛する者のため家康を討つと言う。
言わば仇討ちである。
家康は、わしひとりを倒しても何も変わらん。磐石だ、と主張する。
異なる主張であるが、双方納得出来るよう脚本家は書いたのだろう。
もしも本当にこう言ったなら、家康の方が説得力もあり利もある。
真田丸には出てこないが、
家康は、家臣たちのために泣く泣く長男を死なせている。

それも乗り越えた上で、政治家として戦乱を終わらせたのである。

【2016.12.20 Tuesday 16:07】 author : いづな薫 
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真田丸 「別離」
小早川秀秋が成人して出て来た。

ご存じ関が原で徳川方に寝返り、勝敗を決した武将である。

その秀秋について、先週、姫路市の外科医がこんな見解を出している

「関ヶ原の戦い(1600年)で戦国武将・小早川秀秋(1582〜1602年)が西軍から東軍に寝返った際、
決断が遅れたのは過度の飲酒で肝硬変から発症した肝性脳症による判断力低下の可能性がある。」

(読売新聞)

病気は事実だろう。

しかし、合戦直後の秀秋の家老たちと徳川方の書簡や宣教師の書き残した記録を見る限り、秀秋の寝返りは開戦直後である。


そんなに遅れたと言う印象はないのだが。

まあ、当時はお酒は20歳からではないので、若くても大量飲酒で体を壊しているのも否定できず。


鶴松が2歳で死亡。

これも当時、幼児死亡率は極めて高いので珍しいことではない。
秀吉は、弟秀長を先に病で失い、甥の秀次を切腹に追いやってしまった。

6歳の秀頼を残して秀吉が死ぬ時、豊臣家に成人男子がいないと言うありさまであった。

私は、秀次の歴史を調べて彼の城のあった近江八幡にも幾度か行った。

近江商人を育てた商業政策、治世をみるになかなか立派な殿様だったのではないかと思う。

近江商人は、安土城から移り住んだ人がかなりいる。

秀次が近江八幡に呼び、秀次亡き後、商人たちは全国へ商いに出かけて行った。


彼らは今も、日本経済の中心にいる。

ヤンマーディーゼル、伊藤忠、西川産業、高島屋、大丸、双日、東洋紡、トヨタ、武田薬品、ニチレイ、東レ、ワコール、セゾングループ。

【2016.06.29 Wednesday 14:56】 author : いづな薫 
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真田丸「滅亡」

今回面白かったのが、千利休の所で 作っていた鉄砲玉用鉛が北条の陣中で見つかった点。
千利休は、堺の商人で納谷業(倉庫業)を営む豪商である。屋号は魚屋(ととや)。

当時商人たちは戦争となれば、敵も味方もなく、商品を売り利益を上げるのが普通である。
千利休が特に、そうだったのではなく当時の商人の普通の姿である。
北条氏政、ドラマでは、死ぬ前”汁一気がけ”だったな。

子の氏直は出家し、僧の姿になり豊臣秀吉に降伏している。これは史実。高野山に入り、1年後秀吉に赦免され大坂に移っている。
1万石の大名になったが、同年30歳で没した。多門院日記によると死因は天然痘であったと言う。
氏直のいとこが、氏直の死後養子になりその家を相続狭山藩主となり家を存続させ、明治期には華族に列せられている。

秀吉が天下一統と言っていた。
当時は天下統一でなく、「天下一統」である。
統一は、江戸時代に初めて出て来る言葉である。

家康が、北条の後に関東を治めるよう秀吉から言われる。「噂以上のすすきが原」と嘆いていたが、実際はそうでもない。
江戸は北条支城が置かれ重要な土地であることには違いない。
東国の抑えとして、秀吉が家康に江戸を任せたと言うことである。

感想
伊達政宗、威勢の良い登場だったので何かと思ったら、餅つき。笑
政宗は小田原攻めで遅刻し(実母に毒盛られたので)、死に装束で弁明。
そういや、死に装束でやって来たのも今頃、6月。
この後またやらかすのだが、主人公は信繁なのでドラマでは触れないかな。


【2016.06.22 Wednesday 20:29】 author : いづな薫 
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真田丸「攻略」
小田原の北条家の滅亡が迫って来た。
北条家を滅亡に追い込んだのは、北条氏政を中心とするとする中枢部の外へ向ける目が不足したことが大きい。
戦国時代で大きな領土を維持していた北条家は、土木事業に力を入れ、米増産に力を入れている。
米の石高を細かく測り、地元領主が不正に多く取るようだったら小田原城まで申し立てに来い、と言っている。
つまりは、領国支配が上手く行っていたのである。
そのため、外に目を向ける力が弱く、強大な秀吉の力を見誤った。
ドラマでは、信繁が小田原に交渉に行っていた。
これは創作である。
行ったのは、徳川家康や織田信勝の家臣、そして小田原城開戦後に無血開城の交渉に行った黒田官兵衛である。
彼らは、徹底抗戦の氏政でなく息子の氏直と交渉していた。

秀吉が変なセンスの陣羽織を着ていたが確かこれ熱田神宮にあった。笑
信繁の背負っていた黄色い風船のようなものは、母衣(ほろ)と言う。
竹を細く削り円く形をこしらえ、黄色い布をかぶせた武具である。
軽いが、武家の7つ道具の1つである。7つとは 具足、兜、刀、太刀、弓、矢、母衣。
後ろから飛んで来た矢をよけることができる。
黄色の母衣(ほろ)は黄母衣衆で、秀吉の馬廻衆の中から選抜されたエリートである。
「甫庵太閤記ほあんたいこうき」「武家事紀ぶけじき」などに、黄母衣衆だった人たちの名前が挙がっているが、
もちろん信繁の名前はない。
秀吉に重用された黄母衣衆、その後、豊臣の落日とともに散って行った武士も多い。

PS.おしろいバタバタはたいている氏政、鬼気迫りかつ滑稽。
        息子の氏直、北条家当主ですでに29歳。
   10代だっていっぱしの戦国武将はいる。
   謙信なんて今の13歳(数え14歳)ですでに城主、翌年には攻めて来た敵を壊滅させている。
   
   氏直、徹底抗戦のオヤジどかして、北条家の実権を握らないとな。
   この人、実父信虎を追い出した武田信玄の孫なんだけどな。
   

【2016.06.13 Monday 19:42】 author : いづな薫 
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真田丸「前兆」
秀吉より弟の秀長が長生きすれば良かったのにね。
落書きの罪で、犯人も分からないのに17人も処刑してしまうと言う恐ろしさ。
この落書き事件は、史実である。
「多門院日記」と言う史料に天正17年2月25日のこととして載っている。
10人が即日門番たち10人が生け捕りにされた。
同日記の同年3月18日には、17あるいは18人が鼻を削ぎ耳を切りことごとくハタ物(はりつけ・処刑)されたことが記されている。
当時は、犯罪が起きると連帯責任取らされた。
今の刑法から考えると、卒倒しそうだ。

今回、信繁のアイディアで大谷刑部、石田三成の3人が死んだ門番・道休を首を秀吉に差し出していた。
本来の罪人の代わりに、責任取るため身代わりを出し問題解決する方法があった。
これを「解死人・げしにん」と言う。
江戸時代の時代劇で「下手人・げしゅにん」と言う言葉を聞いた方がいらっしゃると思う。
殺人犯や、死刑になる人で最も軽い罪である。
死刑でも6種類あり、下手人の場合は死んだら親族に返され、試し切りも禁止。
下手人(げしゅにん)は、中世の解死人(げしにん)が変化したものである。

秀吉を揶揄する落書きがあったことは確かだが、内容がどんなものかは伝わっていない。
方広寺大仏を建てる名目で刀狩りが行われ、巨大な大仏建設への批判、側室がたくさんいながら子がおらず、今頃茶々に子が出来たとからかう内容と推測される。
政権批判の内容である。

後の天下人家康も、政権批判のの落書きをされたことがある。
しかし、家康は、「落書きを禁止するべきではない。心得になることもあるので、そのままにせよ。」と言ったと言う。
徳川実紀にある史料なので、家康の功績をたたえる要素大だが、まあ秀吉よりは寛容だったのだろう。

信幸の妻おこう、実は上杉謙信の遠縁にあたる可能性がある。
信幸が、本多忠勝の娘小松姫と結婚する前からいた妻で従姉妹である。その後どうなったは不明。
正室も側室も持つのが普通なので、小松姫が来た後も真田家にいたことも否定できない。

【2016.05.23 Monday 16:27】 author : いづな薫 
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真田丸「恋路」
茶々の生まれた城、滋賀県の小谷城跡に2年前訪ねた。
茶々は言うまでもなく浅井三姉妹の長姉である。
父浅井長政は、守護大名京極家につかえる中堅程度の家臣で、国人(在地領主)である。
母は、信長の妹お市の方である。
母が信長の妹であったことが、信長、秀吉、家康と天下人に関わり続けることになった。
茶々の末妹は、江戸へ与えた江与である。昔ってホント人権ないのね。
2代将軍秀忠の妻となり息子は3代将軍家光、娘は後水尾天皇の妻で子は明正天皇である。
落城、切腹し、信長により頭骨に金箔加工までされた浅井長政は、将軍と天皇の祖父になったのである。

浅井3姉妹の人生を追うと、戦国史もかなり分かって来る。
そう思っての、小谷城を訪ねた。その時の、記録はここ。

浅井氏は、現在の滋賀県北部に領国を展開した勢力である。
戦国大名と呼ぶには領国支配が弱く、国人の大きいのぐらいか。
信長が、同盟関係にあった浅井に、妹を嫁がせたのである。
ドラマで茶々が、秀吉の側室になると決まった途端、信繁に高圧的になったが、 もとは、そんなに大きな勢力の生まれではない。
茶々が歴史の中枢に出て来たのは、あくまで信長や秀吉の影響である。

悲惨な過去を持つ茶々が、妙に明るいのは不可思議な感じがするが暗いとドラマが沈んでしまうのだろう。
先の話だが、秀吉死去後、豊臣政権の有能な外交官北政所が大坂城を去り、北政所が可愛がった子飼い大名たちも徳川方に寝返る。
明るい茶々が、徳川との衝突が避けられなくなって行く中で変容していく様をどう描くのか。
まあ、政治能力皆無のオバサンが実権を握る超危険政権だから、家臣も領民も迷惑な話である。
当時は権力者の家庭問題が即国政に直結している。

もう一つの婚姻話。 真田信幸と、本多忠勝の娘稲姫である。
結婚したのは、信長の死後3〜4年経過した1585、1586年頃と思われる。
後に小松殿と呼ばれた彼女だが、真田家に伝わる彼女の名前が稲姫である。
あと、おねい(お子亥)なんてのもある。
北政所も、ねいなのでドラマで一緒だと区別しにくい。
信幸と結婚後の手紙には、久とサインしてあるので、これが実名だろう。
かつて敵対関係にあった徳川・真田だが、裏切らないように徳川家康の娘として嫁がせたものと思われる。

【2016.05.17 Tuesday 16:01】 author : いづな薫 
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真田丸「上洛」
もはや法治国家でなくなった現代日本の方がすごくて、真田丸はどこかに行ってしまった感がある。
実は今日も、私が最も書きたいのは、真田丸ではなく新党を立ち上げた憲法学者小林節さんのお話である。
もう少しまとめてから書くので、今日はさらっと真田丸を書く。

今回のドラマの出来事がいつごろかと言うと、信長が死んで5年経った1587年のことである。
真田昌幸が、この時まだ羽柴と名乗っていた秀吉に同年2月大坂で会う。
その翌3月には、駿府城で徳川家康に会い、与力として組み込まれたのである。

「惣無事令」(そうぶじれい)が出て来た。
日本史の時間に出て来た。
秀吉が天下人なので、「勝手に戦をしてはいけませんよ」、の取り決めである。
「戦国時代は、領地は戦で切り取るものだったが、これからは天下人、中央政府の辞令により配置換えしますよ、」と言うことである。
大名は、秀吉に従属し惣無事令を守ることを課せられたのである。
真田昌幸のような生き方は終了したのである。戦国時代の終焉が近い。
ドラマの昌幸が、自分のして来たことはなんであったか、と悔恨し急に老いて見えた。

昌幸は小さいながら、さんざん徳川と覇権を争って来たが、結局の所、秀吉の命で家康の与力になった。
これは史実である。
過去の問題から家康が秀吉に追随する条件に、真田服従を提示したのではないだろうか。
秀吉は、強大になりつつある家康を恐れ、その条件を優先したと考えられる。
かつて真田は武田家臣であり、独立して大名になれるかと思ったら、今度は家康の家臣になってしまうかも?のピンチに
立たされている。

後半、松の記憶が戻り、父、娘、息子の再開を喜び合うシーンは良かった。
父の背中でしょんべんを垂れ、弟1の鼻を蟹で挟み、弟2に干からびたカエルを押し付け、木の上で男の品定め、
松の過去が暴露されていたのが面白い。

別番組だが、先日ブラタモリと言う番組を初めて見た。
結構人気番組だそうだが、これ普段私が家族や友達とやっている。笑
そういう人多いのではないでしょうか。
あと、面白かった番組は、英語落語かな。

【2016.05.09 Monday 18:50】 author : いづな薫 
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真田丸「人質」
鉄火偽証、出て参りました。
争うグループの代表者が、焼けた鉄を掴む。
こういう方法で、真偽を確かめた記録が古文書には実在する。
近江国や、会津など各地に残っている。
焼けた鉄を掴んで命を落とした者、これで負けが決まる、ひどい例になると遺体が分解され塚を築いたりした。
火傷して生き残っても、もう働けない。
その人及び家族は、そのグループが皆で面倒を見ると言う保険付きである。

中世と言う時代、人々はまだ迷信の中に生きていてこう言うひどい裁判例も存在していた。
 
今回、真田丸見たのは、まあ上杉フェアだと聞いたから。笑
景勝は、清廉で優しい人ですね。
実現できない約束をバンバンしちゃって、後で出来ませんでした、な展開だったが。
三谷脚本なので、どうにも軽いのは致し方ないか。
真田信繁が数えで19歳、景勝は31歳なので、「こう言う息子が欲しかった」はちと無理なんだが。

漁場をめぐる争いが今回あったが、現在でも水揚げした魚をどこに売るとか、独占買い上げなどいろいろ問題がある。

春日山が毎回やけに標高高く映っているのは、真田から見てはるかに大きな勢力と言うイメージか。
景勝が、御手選三十五腰(名刀シリーズ)を試しているのが、上杉ファンのツボ。笑
時々、景勝が無言で亡き謙信公を思っているような風情が良い。
あと、景勝の銀ネズミ色と黒を基調としたファッションが素敵。
質実剛健、上品で大身の大名らしい。

パパ昌幸が、上杉景勝を「義に厚く、わしと正反対」と言っているのがおかしい。

PS.昨日の戦争法反対署名、どんどんダウンロードされています。
  皆さま、どうもありがとうございます!



【2016.03.28 Monday 15:40】 author : いづな薫 
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真田信繁(幸村)は難民移民の子孫?
真田昌幸、信幸、信繁で有名な真田一族は、渡来系だとの説がある。

真田氏は、もとは信濃の名族滋野氏に連なり海野氏の嫡流だと自ら言っている。
この、滋野氏が渡来系一族であり朝鮮や渤海あたりから来たようだ。
ただ、確証となる史料はない。
まあ、歴史なんてこれが現状である。
見て来たかのように描く大河ドラマは創作である。


朝鮮あたりから来たかもしれない、真田氏のご先祖様が何をしていたか。
わかっていることが一つある。
朝鮮にいた頃も、日本渡来後も営んでいた職業である。
これが、牧場経営である。


牧場経営と言うと、ローカルな仕事のように思えるが奈良や京都に都が置かれていた頃は、
ハイテク技術なのである。
最先端テクノロジーである
当時の朝廷である大和朝廷が32の国営牧場を持ち、その管理者として滋野氏が知られている。
国営牧場の半分が、信濃にあった。
滋野氏のリーダーが、海野氏である。
これの子孫が真田だと言う。


石を円く削るの技術をもたらしたのも渡来人である。
彼らは、朝鮮で自国が滅び、難民として日本に来た。
そして当時の日本に、その高度な技術を高く買われて定住したのである。
石の技術は、古墳や飛鳥の遺跡となり、牧場は今日も各地に経営されている。

真田と滋野氏の血縁関係は、歴史学で厳密にいうと確証はない。
でも、真田信繁は優秀な技術を持った難民移民の子孫かもしれない。
古来から、日本は難民を多く受け入れて来た。
現在、日本は難民移民の受け入れ数が少ないことで有名である。
歴史を学ぶと、現代の日本とまた違う日本が見えて来る。

【2016.03.06 Sunday 10:02】 author : いづな薫 
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真田丸「奪還」
木曽義昌、武田信玄の娘婿である。
しかし、信玄の子勝頼存命中、新府城築城の重税に反発し信長に寝返った
織田の援軍を得て、武田と戦ったが新府に人質として差し出していた母と長男長女を処刑されている。
滅んだのは、義昌の子義利の時1600年に、改易にあっている。
ドラマでは、畳2枚も積んで居丈高に演出されていたが、悲劇に見舞われた人物である。
まあ、武田家重臣でまともに存続したのは真田くらいのものである。

真田昌幸は、信長が死に武田家が滅んだ1582年、あらん限りの知恵を尽くして領地を守るため行動している。
この時期の昌幸の、武略と努力は感服する。

武田が滅び、独立した戦国大名になれた真田だったが生き残りをかけた厳しい戦いに飲み込まれた。
信長を失った滝川一益は、京に帰ることを目指し、信濃に入り、小諸城を発つ。
あるじを失った上州はたちまち草刈り場と化す。
まわりの勢力が分捕るのである。
昌幸も、もちろん動いた。
しかし、動いたのは昌幸だけではない。
もっと大きな勢力が動いている。
上杉景勝は、配下の黒滝城主・村山慶綱(よしつな)を信濃の海野(うんの)に使わし、徳川家康も有泉信閑(ありいずみのぶつら)を甲府に向かわせている。
更には、毛利攻めから戻って信長の仇を討った秀吉がいる。
この中を、国の命運をかけて泳ぎ回らねばならないのである。

感想。
ビジネスの話だが、1回ぐらい相手をだまして上手くいっても2回、3回となると無理である。
真田昌幸が、「わしのやることは何でも裏目に出る。わしは疫病神かのう〜。」と言うようなことを言っていた。
真田パパよ、ウソをつかないでやってみるのも手かも。
ウソをつかず、生涯ぶれなかった上杉景勝も上杉家を後世に残している。

【2016.02.23 Tuesday 21:24】 author : いづな薫 
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