大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 関ヶ原と上杉家 1  | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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関ヶ原と上杉家 1 
上杉家は関ヶ原で戦っていないのは、皆さま周知の如くだが、その社会状況と上杉家の密接な関係について、特集したい。

慶長三年(1598年)正月十日、上杉家は会津へ国替えになる。
会津は、昔、民を悩ませた洪水がほとんど見られず、盆地のため冷害も少ない、肥沃な土地であった。
 上杉家が会津入封の前、東北の要であったこの土地の殿様だったのが、蒲生氏郷。
 信長の娘を妻に持ち、妹は秀吉の側室、日本で初めて給料制度を始めた人物である。
 蒲生よりさらに前の城主が、伊達政宗である。
政宗時代、会津黒川を呼ばれた土地を、蒲生氏郷が、会津若松とした。
 彼は教養もあり有能な武将であったが、惜しいことに40歳と言う若さで、急逝してしまった。

 氏郷は、七層の若松城建設に踏み切っている。
地震にあったり、五層に改修されたりして、激戦だった会津戦争後の、明治7年に取り壊された。
 いづな、会津戦争後の砲弾でぼろぼろに壊れ、痛ましい城を写真を見たことがある。
 今は、鉄筋コンクリート製の復元だが、城の規模、古い石垣などから城の威容を感じ取ることは出来る。
 現在の会津若松城

 氏郷亡き後、その子秀行が継いだが、力不足と感じた秀吉によって、上杉家の会津移封が成される。
 石田三成が会津を蒲生家から受け取り、上杉家へ渡すと言う手続きをしている。
 同様に越後・信濃も、上杉から堀家に渡されたと言う、記録が残っている。(塔寺八幡宮長帳)
 豊臣家の強い意向を汲んでの、会津入封であった。

 しかし、この若松城、とんでもない欠点があった。
若松城は盆地の中に建ち、越後の山城のように、要塞と言える城ではない。
 城の南東1.3kmの小田山と言う、小山がある。
幕末の戊辰戦争では、まさにここから大砲が撃たれた。
新し物好きな鍋島閑叟(かんそう)じーちゃん(鍋島藩殿様)が買った、アームストロング砲が置かれたのである。
射程距離2000m超える砲筒で新政府軍は、どっかんどっかん
鶴ヶ城(若松城の後の名前)を爆撃してしまったのである。

兼続時代に新開発された大砲でも、小田山のように高所からなら若松城が射程距離に届く。
そんなわけで、景勝兼続は、新城建設に踏み切った。
若松城の北西、神指の地である。

 神指城(こうざしじょう)である。

【2009.09.12 Saturday 22:37】 author : いづな薫 
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時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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