大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 関ヶ原と上杉家 4 革籠原(かわごはら) | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
<< 関ヶ原と上杉家 3 直江状 | main | 天地人感想 「ふたつの関ヶ原」 >>
関ヶ原と上杉家 4 革籠原(かわごはら)
徳川軍を迎え撃つ場所に、兼続らが選んだのは、革籠原(かわごはら)である。

 革籠原(かわごはら)、この変わった地名は、源義経を奥州藤原氏のもとへ逃がした、金売り吉次に由来する。
 奥州の金を、京で商う商人である。
彼が、奥州の白河付近で殺害され、金の入った革籠を奪われたことで、この地を革籠原(かわごはら)、と呼ぶようになった。


  宇都宮城にいた徳川軍が、奥州街道を北上したところを、上杉軍が攻撃を仕掛ける。
 攻撃し、すぐに後退、追いかけて来る徳川軍を、国境を越え、会津領まで引き込む。
 引き込む場所が、革籠原(かわごはら)と計画した。


革籠原の作戦、直江兼続が考えたと言う、確たる証拠はないが、決定には彼の意志が大きく影響したはずである。


この地に、土塁を築き、奥州街道を徳川軍が通った後、街道を遮断する。
この防塁が、現在も残っている。
土塁など、築城術には家々に特徴がある。
革籠原の防塁には、上杉家築城術の特徴である、文字通り二重に土塁をめぐらす”二十土塁”が作られている。
 

 徳川軍を革籠原におびき寄せる先発隊と、革籠原に入った徳川軍の後ろに回り、景勝軍が挟み撃ちをするという、戦法である。

 じきに徳川の援軍が到着すると思われるが、それには、兼続と常陸の佐竹義宣(よしのぶ)が攻撃すると言うものである。

 この、佐竹義宣(よしのぶ)、実は徳川方の武将で、徳川方の駒として、
戦いの計画に入っている人物である。
これが、密かに上杉家と内通していたというから、驚きである。ちなみに伊達政宗の従兄弟でもある。

 兼続が、三成の使者や佐竹家の使者が来たことを伺える、書状が現存していて興味深い。
 日付は慶長五年、八月六日、関ヶ原の40日前である。
関ヶ原の戦いの迫った、この時期、上杉、石田三成、佐竹義宣(よしのぶ)が、連携しているのが推測できる。

ちなみに書状宛名は、景勝の側近中の側近、清野助次郎(長範)である。
  清野ってだれ?の方は、以下にどうぞ。
http://cafe.kenshingen.fem.jp/?day=20090421

【2009.09.18 Friday 09:22】 author : いづな薫 
| 天地人or直江兼続 | comments(0) | trackbacks(0)|
この記事に関するコメント
コメントする









過去のページへ
この記事のトラックバックURL
http://cafe.kenshingen.fem.jp/trackback/1291560
トラックバック

戦国カフェオリジナルグッズショップです。 戦国カフェオリジナルグッズショップへ
    いづなへメール

 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

   当サイトは、コピー、転載、ダウンロード、直リンク、持ち出しは禁止です。
◆ 著作権はすべて、
いづな薫に属します。
 過去のページへ


   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村。
   ランキングはお休み中