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since 2007.5.21 関ヶ原と上杉家 6 運命の手紙 | 戦国カフェ
   
 
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関ヶ原と上杉家 6 運命の手紙




 長谷堂城を攻める直江兼続のもとに、一通の書状が届く。

関ヶ原で、西軍敗れる。
 
 そして、その返書が最近になって見つかっている。
差出人は、直江兼続。
 以前の研究では、兼続が西軍敗れるの知らせを受け取ったのは、慶長五年(1600年)9月29日とされて来た。
しかし、新たに見つかった文書の日付は、慶長五年(1600年)九月二十一日、関ヶ原の戦いのわずか6日後である。

 上方散々まかりなり候由聞き申候(秋田藩蔵文書)

上方で大敗してしまったのを聞きました。

 これを書いた兼続の心中を、沈痛な想いで読んだ。

長谷堂城の兵は当初1000人余と見ていたが、山形城からの援軍で、予想以上の兵が集結していた。
 西軍敗退が、明らかになった以上、上杉軍は即刻この戦をやめねばならない。
 もはや勝負の駆け引きではなく、兵の損失を最小限に食い止め、一刻も早く居城に撤退しなければならない。
 山形城からの援軍で、最上軍は意気揚々である。

兼続は、会津や米沢から遠い地から、2万の兵を帰さねばならなくなったのである。
 傷病兵を抱えながらの退却は、困難を極める。
当然、殿(しんがり)が必要である。

殿(しんがり)とは、味方を逃すために敵と戦う、命がけの戦闘部隊である。
 これは、史上名高い退却戦となった。
上杉謙信の得意とした、懸かり引きと言う戦法である。
退却すると見せながら、果敢に攻撃を仕掛け、敵を追い込む。
大将・最上義光(もがみよしあき)自ら、追撃軍に加わり、敵味方入り乱れての大混戦となったに違いない。
 
 事実この戦いは、一連の上杉対最上戦の中で、最も激しい戦になった。

最上義光歴史館には、上杉軍水原親憲隊に浴びせかけられた鉄砲傷のある、最上義光の兜が現存する。
 
 兼続が退却の途中、命を絶とうとしたと言う。

大将たる人物は、むやみに死んではならない。」と、

止めたのが、前田慶次郎である。
 
 次回は、前田慶次郎の登場です。

【2009.09.30 Wednesday 14:41】 author : いづな薫 
| 天地人or直江兼続 | comments(0) | trackbacks(0)|
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時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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