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since 2007.5.21 八重の桜感想「やむにやまれぬ心」 | 戦国カフェ
   
 
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八重の桜感想「やむにやまれぬ心」
13歳の時、「四斗俵を四回も肩から上げ下げしました。」と八重は後年語っている。
四斗俵とは、明治時代末以降は60kgに規定された。
しかし、1俵は時代によって重さに差がある。
史料に出て来る最初の記述は、平安時代の延喜式(法律集)で「米五斗為俵」(五斗で一俵とする)とある。
換算すると、30kgである。
江戸時代の俵は、二〜三斗で、籾殻つきの米が入っていたので20kgほどだった。
13歳の八重が持ち上げた俵は、20kgと言うことになる。
会津は、食事も衣類も質素を旨として来た。
飽食の現代人に比べれば当時の人は小柄だが、粗食こそが高い身体能力を作ると言う話がある。
八重は、体力に自信のある女性だったのだろう。

佐久間象山の塾で、豚を逃がして大騒ぎを起こした子供がいる。
新島七五三太(にいじましめた)、後の新島襄(じょう)、八重の2番目の夫である。
上州安中藩士新島民治(たみはる)の長男である。
民治は、安中藩江戸藩邸で祐筆(書記、事務官)を勤めた人物である。
国許をほとんど知らない江戸育ち江戸勤務でいわゆる都会派、新島襄はこうした人に育まれたのである。
新島襄は、日本人として初めて学士を取得した人物である。
幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)で、数学、航海学を学び、尊王攘夷派でも開国派でもなく、1864年幕藩体制の続く
日本からまんまと脱出を成功させた。
留学中に幕府は崩壊し、岩倉使節団訪米の時通訳を努める。新政府のために働かないかと言われたが、拒否。
ほとんど外国人のような新島襄が日本に帰国したのは、渡航の約10年後である。

吉田松陰は、新島襄より10年早い1854年、ペリー艦隊に小船で近付きアメリカに渡ろうとしたが、拒否される。
松陰も新島襄も、幕末維新を大きく動かした教育者である。
松陰は、投獄され、郷里長州萩に帰り実家の杉家敷地内の納屋を増改築して松下村塾を開いた。
そこで、維新の原動力となった高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らが育つのである。
松陰は刑死するが、薫陶を授けた愛弟子たちはやがて、八重たち会津藩と戦うことになる。

PS.八重の兄覚馬が会津に帰国した1856年、殿の松平容保は数えで21歳、家老の西郷頼母(たのも)は27歳。
殿と頼母は6歳違い。頼母も実は若い。笑

【2013.01.15 Tuesday 15:18】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と人と環境に優しい生活を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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