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since 2007.5.21 蛤御門の戦い | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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蛤御門の戦い
蛤御門の変の舞台、京都にちょうど今週仕事で行っていた。
御所の蛤御門の門扉に今も”鉄砲の穴”があるので、可能な方はご覧いただきたい。
で、ようやく今、八重の桜を見た。

蛤御門の戦いは元治元年(1864)7月19日に勃発する。
1863年、八月十八日の政変で三条実美ら公家と長州藩は京都を追われ、冤罪を訴えるため京に進軍しようと言う
動きが、長州藩内にあった
これは、桂小五郎、高杉晋作、周布政之助ら慎重派は反対したが、そうこうしている内に池田屋事件が
起きてしまう。
新選組により多くの仲間を惨殺された長州は、久坂玄瑞や来島又兵衛らが、公武合体派と京都奪還を目指して、
進軍することとなる。

この門は、1788年天明の大火前まで、新在家御門(しんざいけごもん)と呼ばれていた。
大火で初めて門が開き、焼けると開く蛤にちなみ、蛤御門と呼ばれた

蛤御門の変では、薩摩藩は幕府・会津藩側に加勢し、長州藩はみたび都を追われる。
長州藩の桂小五郎らは、因州藩(鳥取)と秘密裏に約束し、有栖川宮を奉じて決起することを決めていた。
しかし、土壇場になり因州藩は有栖川宮邸に入り、桂には比叡山に行けと言う。
桂らは因州藩が約束を反故にしたことを知るが、久坂玄随らが立てこもる鷹司邸の戦闘に
巻き込まれてしまう。
久坂玄随、真木和泉、来島又兵衛は死亡。
来島は、胸を撃たれ甥の喜多村武七に介錯させ自害。
来島が八重の兄に狙撃されていたが、来島を撃ったのは後に初代大警視(警視総監)になる薩摩の
川路利良(かわじとしよし)だと言われている。
龍馬伝でも書いたが、来島又兵衛は作家・永井路子氏のご先祖様である。永井氏の旧姓は来島さん。

桂小五郎は、剣術の達人であったがこの戦闘には参加していない。
師・吉田松陰は彼を、「寛洪の量、温然愛すべき日となり、且つ才気あり」としている。
人望があり温和な人物で、激派の多い松下村塾の門下生を止められるのは桂小五郎しかいない。
しかし、桂は池田屋事件、蛤御門の変でも多くの仲間を失うことになる。
ドラマ中で、一人落ちていく桂が、河原で戦災孤児と抱き合って泣くシーンが印象的だった。
桂は乞食や荒物屋(雑貨商)に身をやつし、後に妻となる幾松に助けられながら、潜伏して行くのである。

短く感想
久坂玄随が、死に際、「死んでも後に続く者たちがいる。時の流れは戻せない」と言っていた。
巻き戻され、既得権益者が勝つように見えて、多大な犠牲を払いながら歴史はけっして巻き戻ることはない。
現代もまた同じである。

【2013.03.28 Thursday 19:11】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と人と環境に優しい生活を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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