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河口慧海(かわぐちえかい)

80歳の登山家三浦雄一郎さんが、ヒマラヤ山脈エベレスト登頂に成功し無事帰国された。
その強い心肺力、精神力に感嘆させられる。

113年前に、日本人として初めてヒマラヤ踏破した河口慧海(かわぐちえかい1866-1945)と言う人物がいる。
上写真は、故郷の大阪府、南海鉄道・七道駅前に建つ慧海の銅像。
彼は、チベット研究の学術探検家であり、黄檗宗の僧侶でもある。
戦乱の幕末からまもない明治の初め、徴兵制に反対した人物でもある。

慧海は、江戸時代の終わり1866年、現在の大阪府堺市七道に生まれた。
父は桶、樽職人で、少年慧海が職人になるのに学問はいらないとの方針だった。
親の意見に反し、慧海は高い向学心を持ち同志社大学に進む。
しかし、学費が足りず断念し教員になる。
慧海19歳の時、徴兵令に反対し天皇へ直訴のため上京。
直訴はうまくいかず、25歳の時、僧侶になった。

現在も南海鉄道七道駅近くに、生家跡の碑が建ち、通った清学院(寺子屋)が残っている。
左:生家跡の碑。   右:寺子屋清学院。江戸時代後期の建物。

慧海は1897年32歳の時日本を出発する。
慧海は、正義感強く人柄が良い人物であったそうだ。
弁が立ち、学問もあった。
宇治黄檗院にて、一切蔵経を読誦し、仏典の真理はチベットにあると悟る。
単独チベット行きを決めた慧海に、大阪や堺の友人、黄檗宗の信徒らが寄付でお金が集めてくれる。
1900年慧海は、ヒマラヤを越えチベットに入国した。

当時のチベットは鎖国政策を取り、入国は困難であった。
飢餓に苦しみ、犬にかまれ怪我をし、強盗に遭い、川でおぼれる。高山病になり無人地帯で吐血したこともあった。
標高5000mを超える山岳地帯をヤクの背に荷物を載せ、歩き、またある時は自身で30kgの荷物を背負い山を登った。
現在の装備のように、酸素ボンベや歩きやすい登山靴があるわけでない。
平底の靴は靴擦れを起こし、歩けなくなる事もあった。

苦難の果てにチベットに入り、法王の知遇を得てセラ大学に学ぶ。
鎖国政策のため対外的にはチベットの国内の様子は知られていなかったが、慧海はその人徳で、見知らぬ地にも
彼を支える人々に出会う。
ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、ネパール首相チャンドラ・シャムシェル、そして現地の一般の人々。
チベット蔵経、梵語蔵経、仏像仏具、博物標本などを持って帰国した。
現在これらは、東京大学などに保管されている。
慧海は、チベット旅行記の克明な記録を残している。

晩年はチベット語の辞典編集に没頭する。
太平洋戦争が終わる半年前、防空壕の入り口で転倒、脳溢血を起こし、東京世田谷の自宅で死去。享年80歳。

高野山奥之院で、慧海の供養塔を見つけた。(下写真)

墓地は、東京港区の青山墓地である。

【2013.05.29 Wednesday 15:33】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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