大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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忠臣蔵

今日は、義士祭、播州赤穂浪士討ち入りの日。

久々に、歴史のお話をしたい。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松の廊下にて、刃傷に及んだのは
今から312年前の事である。

その頃、年の始めに将軍の使いが朝廷に参内し、その返礼に朝廷の使者が江戸に下るのが慣わしであった。
その接待役だったのが、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
そして、新年の将軍の使いが、吉良上野介であった。

朝廷の勅使(この時の返礼使者)を、もてなさねばならない浅野内匠頭は、
老中の言いつけどおり、高家の吉良上野介の指示を仰ぎながら御馳走役(接待役)を勤めていた。
浅野内匠頭は、天和2年(1682年)17歳の時にもこの役目を命じられ滞りなく果たしている。
内匠頭(たくみのかみ)は、今度も御馳走約を果たすため、作法で何か変更はないか吉良上野介に問い合わせることにした。
家臣は何か贈り物をした方がいいと進めたが、浅野内匠頭は拒否。
これが、吉良と内匠頭(たくみのかみ)の不仲になった理由その1.
そのほか、手土産なしで、吉良に尋ねたところ、「今更お尋ねになるようでは、御馳走役は勤まりませぬ。」と人前で嘲られたとか、浅野内匠頭が何度質問しても教えなかったとか、諸説いろいろ。
元禄11年(1698)江戸大火の際、吉良上野介は鍛冶橋邸を全焼させて失った。
この時、消防の指揮官だった浅野内匠頭が吉良邸を守らなかったことが吉良の反発を買った、と言うのが理由に挙げられることもある。

そして、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が、吉良良上野介に刃傷に及ぶと言う大事件が起きる。
今で言えば、傷害事件で大したことないが、当時”殿中”で刀を抜くのはご法度。
将軍綱吉は、浅野内匠頭に即日切腹、浅野家は改易となる。

赤穂に早籠が走った。昼夜通して走り6日かかっている。
江戸からの急使は、次々と到着し、刃傷事件が起きたこと、主君が切腹してもうこの世にないこと、喧嘩両成敗が武家法なのに、吉良上野介が罰も受けずに生きていることが家臣たちに続々と伝えられたのである。
赤穂藩の家臣270名は、一日にして藩主と禄などの生活基盤を失ったのである。

赤穂藩国家老・大石内蔵助は、「吉良が生きたままでは開城出来ない、上野介の処分と自分達の切腹と引き換えにお家再興を願い出る。」事を決意する。

内蔵助と行動を共にする者は、神に誓う「神文」を提出させた。
大石は、お家再興が叶わぬ時は吉良への”報復”も考え賛同者をひそかに集め始めていた。
神文を提出した者は60名ほどだったが、脱落者が増え、且つ大石の遊郭通いが噂になり仇討ちはないかに見えた。

吉良上野介は隠居の身となり、処罰される可能性がなくなり、浅野家再興の際は藩主となるはずの浅野内匠頭の弟・大学は安芸の浅野本家にお預けとなってしまった。
お家再興の夢は、破れたのである。

もう仇討ちしかない。

討ち入りの日は、元禄15年(1702)12月14日深夜。雪

黒小袖の袖口に、白いさらしの布を付けて、右後ろ側に氏名を書いた。
討ち死にしたときの目印である。
小袖の下には鎖かたびらを着込み、股引きを着用。

15日午前4時頃、討ち入り。
表門脇に二丁のはしごをかけて大石内蔵助ら23人が討ち入り、玄関前に討ち入り理由をを書いた「浅野内匠家来口上」を青竹に結んで立てている

裏門からは大石主税(内蔵助嫡男)ら24人が大槌で門を打ち破り中に入った。

目指すは、上野介の首ひとつ。
探し出した寝床にはまだぬくもりがあり、間際まで上野介がそこに居たことを示していた。
しかし上野介本人がなかなか見つからず、探し回っていると庭先の炭小屋でようやく吉良を発見。
四十七士のひとり、間十次郎(はざまじゅうじろう)が槍で突くと応戦する者があり、複数人での戦闘の末吉良の首を、間(はざま)が上げている。

吉良邸を出た四十七士は、近くの回向院で休息を取りたいと院に申し出るが、断られてしまう。

更に歩いて、隅田川に架かる永代橋に差し掛かる。


永代橋のふもとに乳熊屋(ちくまや)と言う味噌店があり、その初代主人竹口作兵衛は、赤穂浪士の一人大高源吾と俳諧を通じての友人であった。

竹口作兵衛は、四十七士の労をねぎらい、店内に招きいれ、甘酒粥を振舞った。
甘酒粥とは、米から作る甘酒のことである。
お礼に、大高源吾が店の棟木に「味噌四海遍し( あまねし・広く伝わるの意味)」と看板を書き残し、あるじ浅野内匠頭(たくみのかみ)のお墓のある泉岳寺に向かった。

四十七士は、討ち入りから1年後の永禄16年2月4日幕府の命により切腹。

赤穂浪士は世を去ったが、大高源吾の残した看板と棟木の文字が江戸市中の評判になったと言う。
看板と棟木は、惜しいことに関東大震災により焼失している。

【2013.12.14 Saturday 20:56】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と人と環境に優しい生活を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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