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since 2007.5.21 安土城探訪  | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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安土城探訪 
 安土城に行って来たので、その探訪記を書きたい。
安土山に信長の城があったのは、430年ほど前のほんの6年間である。
当時の公家、吉田兼見(かねみ)の日記によると、天正10年(1582)6月14日、安土城が炎上し、城下町も類焼したことが記されている。
その12日前には、本能寺の変が起き、信長は落命。

JR安土駅前の織田信長像。
これより、城に向かう。

安土城正面の大手道には幅の広い石段。しかしこれは当時のものではない。
しかも残念ながら、本物は昭和になってから破壊された。
昭和5、6年に、改修工事をしたが良かれと思って施行した工事で石段中央部はすべて破壊されてしまった。
しかし、破損したのは真ん中の3mで、全体約6mの石段は、両脇が信長時代のものである。
更にその外側につく、側溝は当時のものである。
歴史好きの方は、階段外側を注意深く観察されたし。
信長の時代のものである。

中には、石仏が石段に組み込まれた所もある。
写真では、石仏はほとんど見えないが、説明版左の石に薄っすらと浮き出ている。
これは、信長が仏を嫌ったと言うわけではなく、転用物。
城の建設には灯篭の台座、石仏、石棺なども転用して使われたのである。

階段はまっすぐ登り、途中やや左に曲がるが城としては見通しが良過ぎるきらいがある。
城とは防御しやすく造るのが普通で、侵入者には死角がたくさんあり、味方の兵を潜ませることが出来る様になっている、
安土山を登ってみると、視界は開けているが階段一段一段の高さも方向も幅も違い、なんとも登りにくい構造である。
石段の上面も、狭い段だと、靴底を載せるのが精一杯の小さな段の部分もある。
一方広い面積の段もあり、そして途中、踊り場がない。
夕方私が下山して来た時、下から杖をついて上がって来られるシニアご夫婦がいらした。
難儀されたのではないかと思う。

安土山は現在、信長の時代から存在する宛寺(そうけんじ)の私有地である。
当時の安土山には、宛寺(そうけんじ)の壮大な伽藍があった。
信長死去当時の天正の火災でも、城から離れていたため類焼を免れたが、安政元年(1854)11月の火災で仁王門と三重塔を残して消失。
しかし、この2つの建造物は信長も知るものである。
私が訪ねた時は、仁王門は大雨による土砂崩れで仁王門への道が通行禁止。
三重塔(重要文化財)の心柱に墨書紀年銘があり、享徳3年(1454)に建立したことが記されている。
それを、信長が甲賀攻めしたときに、長楽寺から移築したものである。

下、宛寺(そうけんじ)三重塔。


安土城の石垣は、昭和30年以降にあらたに積み上げた物が多い。
復元石垣である。
天主台の石垣と二の丸の石垣は、天正4年(1576)、信長時代のものである。

ちなみに、「信長公記」をはじめとする当時の信長関連史料には、安土城の「天主」と言う言葉が使われる。
「天守」と言う言葉は、秀吉時代以降のものであることが、歴史研究で分かっている。
なぜ、この言葉が使われるようになったのか、明確な結論はまだ出ていない。

下、天守の礎石群。

安土城の天主の一段低い所に「伝・二の丸」がある。
果たして、二の丸か?と疑問を呈す研究者もいる。
二の丸と言うには、天主のすぐ下で面積も天主に匹敵するほど大きい。
これは、信長の本丸御殿のあった場所ではないだろうか。
この場所は、信長死後、信長の廟所になった。
秀吉が信長の一周忌に、信長の衣冠、太刀、本能寺の灰を埋めた所とされる。
江戸時代に入り、織田家の人々もこの地を廟所として修理し維持している。

廟所入り口

信長公御廟所

伝・森蘭丸邸跡
当時はここに屋敷を建てるほどの面積があったのか、今は崩落したのか?
斜面になっている。

城の下に広がる、琵琶湖を臨む。信長が見た景色。

【2014.02.28 Friday 09:17】 author : いづな薫 
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この記事に関するコメント
石は最高の建材なんですね、構造性、耐久性、美観など一級品です。古代遺跡にも石が使用されているので何千年経っても、見ることが出来るんですね。エジプトのピラミッドの土台部分にも、おそらく加工に失敗しであろう石が敷き詰められています。だから見えない場所である土台に使用したのでしょう。問題は、問題はですよ、明らかに機械加工したであろう石が数多く使用されている事です。高速回転での丸鋸カッターかレーザー光線で石を溶かしなが切込を入れている石が多くあります。明らかに人工的に加工しています。歴史学者は黙秘です。南米にもカミソリの刃一枚も入らずに積んでいる石垣もあります。それも四角形でなく多角形なんですよ驚き(゚д゚)です。あれほどの建造物を建てておきながら、出土物は、茶碗とか簡素な農機具。普通なら高度な測量器具や土木機械などが発見されるべきです。私が思うにピラミッドの石を積み上げるには人間では不可能ですね、体力がもたないです。
| 串かつ | 2014/03/03 7:02 PM |
串かつ先生

今回も大変興味深いコメントと御解説ありがとうございます。
古代遺跡に高速回転カッターですか。笑
江戸時代日本の石職人の中には、安土の石を積んだ石工の子孫だと自慢した人がいたそうです。
それもかなりたくさん。
安土の工事に関係した人でない方もそう名乗ったのでしょう。
それほど、安土の城は城郭建築史の分岐点となる城です。
石垣は、人の身長以上に積み上げるには高度な技術が必要ですよね。
安土城、かなり復元した部分がありますが、信長時代の石段、石垣は実に興味をひかれます。
また行きたいです。

| いづな薫 | 2014/03/03 7:22 PM |
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時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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