大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 唐沢山城跡 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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唐沢山城跡
唐沢山城跡に行って来た。

場所は、栃木県佐野市。
標高241m、唐沢山一体に広がる大規模城郭で織豊期の貴重な遺構が数多く残っている。
ここは、戦国時代、上杉氏と北条氏が10回に渡る攻防を繰り広げた城でもある。
最初に城を築いた人は藤原秀郷、1100年前。 
藤原秀郷は、平将門を討伐した平安時代の貴族 武将である。
秀郷の子孫が土地の名・佐野を名乗り、代々子孫が唐沢山城の城主になり、秀郷から700年間
佐野信吉(さののぶよし)まで続いた。
1607年、山城である唐沢山は廃城。
 
唐沢山城には、(信憑性は疑問だが)こんな説話がある。
永禄三年(1560)八月、(『名将言行録』による。『佐野記』では永禄二年、1559)北条軍3万5千に包囲された城を、謙信は上野(こうずけ)平井城から8千の兵を率いて救援に向かった。
徒歩の兵士もいるため、唐沢山城に謙信が到着した時、ついて来たのは騎馬の旗本のみ。
辺りは北条軍であふれかえり、味方が到着する前に落城が不可避である。
これ以上、城が持ちこたえられぬと判断した謙信はこう言った。

仮に総大将北条氏政を討ち取っても、唐沢山城は落城し、城主・佐野昌綱は死亡するであろう。
それでは、景虎(謙信)は世間の笑い者となろう。
ここは、運を天にまかせ、敵中突破して城中の指揮を上げることが大事である。

謙信は、甲冑もなしで、白綾絹の鉢巻に黒木綿の胴服、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を黒馬に載せ、
十文字槍を持って、わずか40数騎で敵の囲みを中央突破。

 
謙信の鬼人も恐るる勢いに、大軍の北条方が驚き、「夜叉羅刹とはこれなるべし」と、手も足も出せなかったと言う。
城主の佐野昌綱(さのまさつな)は、城内に現れた馬上の謙信を見て感涙したと言う。
北条軍は、後から続々来る謙信の本隊を見て包囲網を解き撤退をはじめたが、謙信は門を開けて追撃。
北条方の首級1300あまりを上げ、唐沢山城の危機を救ったと言われる。
謙信の奇策は、世間に知れ渡り軍神の名を欲しいままにして行くのである。


このような説話の残る城跡だが、訪ねてみて遺構の保存の良さに驚いた。
東日本では珍しい高石垣が残りし、家臣団が住まいとした根古屋地区もかなり良好な状態で残っている。

本丸の高石垣は、算木積(さんぎつみ)で高さ8m以上もある。
算木積(さんぎつみ)とは、織田豊臣時代の城郭建築方式である。
それから考えて、この高い志垣が建設されたのは天正18年(1590)から慶長7年(1602)あたりと推測できると言う。

本丸跡には、現在唐沢山神社が建っている。
祭神は、藤原秀郷。


本丸西側には、土塁で囲まれた二の丸がある。
北城北側の堅堀は、北条氏の堀として特徴的な長くて深いものではなく、上杉氏が建設した可能性がある。
この城は、永禄7年(1564)には謙信の家臣で上野(こうずけ)平井城城主・色部勝長(いろべかつなが)が城代を務めており、上杉氏が築いたかもしれない。 


おまけ。
お弁当を食べていたら、猫が3匹足元にびったり張り付く。
当方が、猫好き(動物好き)だと分かっているらしい。
猫がにゃ〜とすり付き、「その方ら、上杉の者か?美味い村上の鮭は持っておらぬのか。」と聞かれた気がする。笑
唐沢山城は、休憩所に猫が多くいる。猫好きにはお勧めな山城。


【2014.04.06 Sunday 19:42】 author : いづな薫 
| | comments(2) | trackbacks(0)|
この記事に関するコメント
いづなさま
 「唐沢山城」私もぜひ、お供したかったでござりまする。無念。
お屋形様ファンであれば、あの伝説的な3万vs40騎「唐沢山城伝説」は有名ですよね。

 窮地のなか、救出にきた謙信公の姿をみた佐野昌綱の喜びようはいかばかりであったか、察するにあまりあるでしょう。まさに毘沙門天そのものに映ったことでしょう。本当にあらためて「謙信」という生き方は光明そのものと実感しますね。
 大河ドラマ「軍師官兵衛」を見ていて思うのですが、「もし、戦国時代に謙信という人がいなかったならば、日本はどうなっていたでしょうか?」という疑問がよぎりました。あの梟雄の雄・松永久秀、まむしの斉藤道三、反則魔人・宇喜多直家、そして第六天魔王・織田信長…。みな、ルール無用、力こそ正義、弱い者は蹂躙して当たり前、というポリシーの有名人ばかりです。たぶん、彼らだけであればフェアプレイの精神などは日本人に根付かなったでしょう。
 いろんな意味で、徳川家康は狡猾でした。上杉家を消さなかった、いや消せなかった。徳川幕藩体制に、諸大名をコントロールするもう一つの力を入れました。それが、上杉家の「義」というスピリッツです。彼は決して力だけでは統御できないことを信長・秀吉体制から学び、心でまとめることをしました。
 現在の政治もそうですが、すべて合理的なことだけで片付けていくと必ず弱者にしわ寄せがきます。謙信公は武将の中で唯一、弱きものの声に耳を傾けた武将でした。
 謙信公の存在が、日本人の精神構造に影響を与えた功績は大きいと思います。

 私も猫好きなので、きっとノラくんたちも寄ってきたかもです(笑)また次回、機会があればぜひとも行きたいです。義太郎
| 義太郎 | 2014/04/07 9:30 AM |
義太郎さま

コメントありがとうございます。
唐沢山城で、義太郎様のこと話していましたよ〜。
お忙しい時期で本当にお疲れ様です。
唐沢山城、今年2014年3月18日国指定史跡に指定されたそうです。
織豊期の石垣や堀が、大量によく残っていて驚きました。

>反則魔人・宇喜多直家

笑笑笑。反則魔人!
はたから見ている分には、宇喜多直家は面白いです。
鹿狩で鹿と間違えて撃っちゃいました、だの義父を茶会に招いて暗殺だの
手口はあくどいのですが、大きな戦にしないで敵を排除するため犠牲者は少ないのです。
宇喜多直家と信長は、毒蛇と毒さそりの争いですね。どっちもどっち。笑
官兵衛は、播磨人ですが”抜け目ない”播磨の気質を嫌っていたと言われています。
ひどい世の中だからこそ、立派な人も出て参りますね。
今の原子力村を潰すためには信長が欲しいです。笑
| いづな薫 | 2014/04/07 11:51 AM |
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 仕事(技術・研究系)と人と環境に優しい生活を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、野球、音楽、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住→東京→Toronto

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