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since 2007.5.21 軍師官兵衛「見捨てられた城」 | 戦国カフェ
   
 
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軍師官兵衛「見捨てられた城」
第2次上月城の戦いのキーマンは宇喜多直家である。
抜け目ないのが特徴と言われる播磨人だが、この人物は特に得体が知れない。

上月城を包囲する毛利軍の中には、宇喜多軍が含まれている。
天正6年5月、足利義昭は宇喜多直家に毛利へ人質を出すように求める。「萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)
誰が敵か味方か分からないような中で、毛利が、宇喜多を味方にしておきたかったと思われる。
「萩藩閥閲録」これが凄い史料である。
毛利家氏やその家臣、戦国時代の大内氏、尼子氏など中国地方の豪族の興亡が記され、鎌倉、南北朝期、戦国時代、
織田豊臣時代を含む歴史学不可欠の一級史料である。

織田軍が上月城救援を断念し、兵が引いていった後、毛利軍が以前にも増して激しい攻撃を加え、城は落城。
天正6年7月3日(1578年8月6日)尼子勝久自害。享年26歳。
その家臣の山中鹿介(しかのすけ)は、同年7月17日(8月20日)備後国鞆の浦の毛利輝元の下へ送られる途中、
阿井の渡し(岡山県高梁市)で謀殺された。享年34歳。
これで、尼子家再興の悲願は潰えた。
尼子は潰れたが、山中鹿介の子孫が、鴻池の祖となり〜三和銀行〜三菱UFJと変遷していくのは前回述べた。
※注 今回のお話は第2次上月城の戦い。1次は、光(てる)の姉らが戦った戦である。

天正9年7月20日には神吉城落城、8月には志方城が落ちている

「武功夜話」によると、尼子・山中らの立てこもる上月城救援を秀吉、官兵衛らが断念した時点で新たな展開がある。
備前の宇喜多直家を説得しようとするのである。
蜂須賀正勝、竹中半兵衛が相談し、実際の説得は黒田官兵衛が当たった。
第2次上月城の戦いの時、毛利軍の中にいたのは宇喜多直家本人ではなく、弟の忠家である。
当主の直家は、病。
本当に病かどうか分からないのがこの人。
秀吉がこの頃播磨から安土にやって来て、宇喜多を許すので信長の朱印をいただきたいと言った。
これに信長は、「あるじの許可もなく許すとは何事か!」と怒り、秀吉を追い返してしまった。
これが「信長公記」によると天正7年9月4日の条。
しかし、信長は結局許している。
戦略上、宇喜多直家を味方にした方が有利だと考え直したらしい。
「信長公記」、同年10月晦日には、赦免が決まり、宇喜多直家の甥が織田信忠に礼を述べている。
弟や甥が頻繁に出て来る所をみると、病が真実になって来た頃か。
嫡男秀家は、まだ8歳ほどである。
秀家の母のお鮮(円融院)、そう直家の妻は前回出て来た正室お鮮。さすが下世話に見える直家夫婦。笑
宇喜多直家の没年は、信長と同じ天正10年(1582)である。
下血があった言うから、消化器系の重い疾患と見受けられる。

短く感想。
大きな勢力に頼った、上月、志方が見捨てられた。
自立し抜け目なく動き、味方に付けると得だぞくらいに交渉しないといけない。
現代の政治もそうだが、尖閣を安保に入れると米国に承認させても武力衝突が起きれば口約束に過ぎなかったと言うことがわかるはず。
安倍の国内向けアピールに過ぎない。
毎回感じることだが、官兵衛の妻てるの書き方がつまらない。毎回泣くのも閉口。
司馬遼太郎氏の官兵衛作品「播磨灘物語」のような闊達さがない。
NHK経営委員長谷川氏が、”女性は家庭で子育て、男性は外で仕事”と言っていたがその反映か。

【2014.04.28 Monday 21:49】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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