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since 2007.5.21 軍師官兵衛「帰ってきた軍師」 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
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軍師官兵衛「帰ってきた軍師」
 三木城落城あっさり終わってしまったが、実は3年ごし20ヶ月にも及ぶ戦いである。
竹中半兵衛は途中で没し、官兵衛は有岡城の牢に捕らわれた。
秀吉は、2人の参謀を欠いた状態で播磨攻めを強いられたのである。
  
官兵衛が係わる戦と言うのは、三木城の干し殺し、鳥取城の渇え殺し、備中高松城の水攻めななど敵にとっては惨憺たる戦法である。
秀吉軍が、はじめ高松城を攻めた時、低湿地帯にある高松城のまわりのぬかるみに兵士が足をとられ城から狙い撃ちされ多く被害を出した。
そこで味方の被害を最小限にするため編み出されたのが、水攻めである。
だがどのような形態であっても、戦は悲惨極まりない。

三木城開城時の、惨状を書き記した記録がある。
筆者は前野長康と言う人物である。秀吉の家臣で、のちに豊臣秀次に仕え秀次切腹時に同じく自害している。
その記録を現代語訳してみる。
「城中の士卒は幽鬼の様である。草の根、木の根を食べたため、城中に草はない。
顔色を見れば肉は落ち、声は衰え、何か聞いても答えることはなく、体にぼろきれまとい、具足はちぎれ、杖を頼りにそろそろと出て来た。
あるいは、這って出て来る者もあった。
これも武者であろうか。
意地も料簡もなく三々五々連れ立ち落ちて行った。」

官兵衛は、主君小寺政職が出奔したのであるじからもらった”小寺”姓をこの頃使うのをやめている。
本来の、”黒田”に戻しているのである。
いつそうしたかは不明だが、天正7年(1579)末に有岡城の牢から出て来て、現存する天正8年(1580)7月24日の秀吉宛書状には”黒田”と記している。

三木城の、別所長治が自害したのが天正8年(1580)1月17日である。
播磨が、信長の手に落ちたのである。
秀吉は、信長から播磨と但馬の2ヶ国を与えられている。
蜂須賀正勝には5万3千石(3万5千とも)、冒頭の三木城の記録を書いた前野長康は3万2千石(3万1千)を与えられ三木城も与えられた。
浅野長政に2万石、官兵衛にも1万石が与えられ晴れて大名の仲間入りをしたのである。

さて、出奔した小寺政職について。
各地を転々とした後、天正10年備後鞆の浦(広島県福山市)で天正10年(1582)に亡くなっている。
本能寺と同じ年である。
嫡子氏職が遺されたが、これを引き取り育てたのがなんと官兵衛である。子孫も代々福岡藩士となった。
黒田家に残る『黒田家譜』には、「恩をもって仇を報ずとはかかることなるべし」とある。
主君に裏切られたのに、どこまでも義理堅い官兵衛である。

感想。
古文書や本だけでなく、大河ですら見て思うのが、集団的自衛権行使容認なんて絶対やめるべきである。
実際の戦争は娯楽ではない。
後方支援などと言ってもそこは戦場、物資運ぶ人員を攻撃するのは当たり前である。
官兵衛たちの戦国時代と違い、現代の兵器は無人爆撃機で大量殺戮をする。
米国が金のために引き起こす戦争に、日本が自腹参加して血を流すなんて狂っているとしか思えない。

明けて深夜1:00、W杯ドイツ・ポルトガルがあります。
見たいけれど1:00は無理・・・。眠い頭では仕事の精度が落ちるので録画しまする。

【2014.06.16 Monday 19:55】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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