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since 2007.5.21 軍師官兵衛「長政初陣」 | 戦国カフェ
   
 
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軍師官兵衛「長政初陣」
備中と備前の国境線に、「境目七城」と呼ばれるものがあった。
・宮路山城
・冠山城
高松城
・鴨城
・日幡(ひばた)山城
・庭妹(にわせ)城
・松島城

今の、岡山県を流れる足守川の流れに沿って7つの城はあった。
この足守川と言うのが、備中高松城水攻めの際せき止められた川である。
上記、3つ目にあるのがその高松城である。

しかも、高松城の近くには重要幹線道である山陽道が走っている。
まっさきに秀吉軍の攻撃にさらされるのが、この備中高松城であることを毛利側も読んでいる。
高松城城主清水宗治だけでなく、近隣の常山城の城主中島元行を援軍に行かせている。

秀吉は、まず官兵衛と蜂須賀正勝に清水宗治を調略させた。
備中・備後をやるから、織田につけと。

忠義と武功で毛利から信頼の厚い、高松城城主・清水宗治は一蹴。
宮路山城城主・野見七郎も調略失敗。
日幡城城主・上原元将は官兵衛らの工作に乗り、城を開城した。

官兵衛らは、開城しない残りの城を武力で攻め落とすことにする。
次々と城を落とし、残ったのが高松城である。

これが一筋縄で行かなかった。

城は、海抜が低い低湿地に建つ平城である。
沼や水田と城の比高はわずか4mしかなく、馬や兵士が進軍しにくい天然の要害である。

秀吉軍が攻めて来ると、ぬかるみに足を取られた所を、城から鉄砲で狙い撃ちされた。
かなりの犠牲者が出したと思われる。

官兵衛らは、攻めにくい低湿地を逆手に取り水攻め作戦に出るのである。

私も、今年岡山県にあるその備中高松跡に行って来た。
奇しくもその日も雨。
そのときの様子を書きたいが、現在繁忙期+出張中のためそのうちまた。

次、快川和尚。
甲斐国、恵林寺の高僧で武田信玄の葬儀も勤めた。
和尚の一句、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の額が今も恵林寺の重要文化財の三門にかけられている。
(”三門”は、仏殿前にあって仏殿を法空・涅槃とし、そこへ入る入口の三解脱つまり
空門、無相門、無願門の三解脱門を略したもの。)

信長は、宿敵六角氏が潜伏庇護する恵林寺に対し引渡しを命じる。
しかし、恵林寺側は拒否。
怒った信長は、三門に快川和尚ら100人を閉じ込め火を放った。
壮絶な最期を遂げた、快川紹喜和尚の一句である。
快川和尚、伊達政宗の師・虎哉宗乙(こさい そういつ)の師である。
恵林寺は信長に焼かれた後、家康の寄進により再建されている。

官兵衛に二男・熊之助が生まれているが、この子、朝鮮に攻め込む慶長の役の時に、母里太兵衛の子らと共に溺死してしまう。
しかも、戦闘ではない。
父の官兵衛に城で留守居役をしているように命じられたのに、父や兄の後を追いかけたのか、船を仕立てて朝鮮に向かい嵐に遭い水死している。
黒田熊之助、わずか16歳である。

【2014.06.30 Monday 09:13】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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