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since 2007.5.21 軍師官兵衛「天下の秘策」 | 戦国カフェ
   
 
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軍師官兵衛「天下の秘策」
 パレスチナ、集団的自衛権など、現代政治がすごくて、官兵衛がかすんでしまいそうだが、少し書く。

天正10年6月4日、正午過ぎ、高松城主・清水宗治が、城前の水面に舟を浮かべ切腹。
この時の場所と様子を、史料のある範囲で書いたので、よろしければこちらをご覧下さい。

毛利は講和交渉の際、人質として小早川秀包(ひでかね・毛利元就の子)と桂広繁を、秀吉は森高政を出している。
この交渉時、近くの猿掛城(岡山県)に毛利輝元が来ていたので輝元も叔父の吉川元春、小早川隆景同様、その場で承諾したかもしれない。

そして、毛利が信長の死を知ったのは、清水宗治自刃の直後である。
吉川元春は、怒り「信長がいないなら、講和はないも同じ。破棄して秀吉を討つ。」と主張した。
小早川隆景は、「誓紙の墨が乾かぬうちに、反故になどできぬ。」
結局毛利は、小早川の言う通りに軍を引く。
家族構成解説:吉川元春は毛利元就の2男、小早川隆景は3男、毛利輝元は元就の孫(父の隆元はすでに他界)。

当時の毛利家は、実質、吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊が動かしている。
中でも知将の誉れ高い小早川隆景は、のちに秀吉から70万石をあずかり、養子に秀吉ねねの甥(ねねの兄の子)をもらいうけ、秀秋としている。
これが、関が原の時の小早川秀秋。

ドラマで出て来た、毛利から旗を借りる話は、後で兵庫付近を通過する時、毛利が味方についたと見せかけるため使われる。

吉川、小早川の軍が引き始めたのが、清水宗治の死の翌日6月5日。
同日午後2時、秀吉の撤退命令が下る。
秀吉の高松城包囲軍は2万5千は、秀吉の家臣もいたが信長から付けられた軍勢が多い
それらが、信長の家臣も含めて、今や秀吉の配下のような形になった。
この大軍勢を、どうやって光秀のいる畿内へ返すか。

兵糧は、信長軍がさらに 備中に下る予定であったので各地に用意してあり、それを利用して帰れば良い。
しかし、ライバルより先に帰らねば意味がない。

ライバルたちは何をしていたかと言うと、
織田家中第一の実力者・柴田勝家は越中富山で上杉勢と交戦中、滝川一益は上州(前橋 市)で交戦中。
丹羽長秀と信長の3男信孝は攝津(大阪)にいたが、信長の死を知り兵が逃走してしまった。
有力武将の徳川家康は、堺で遊んでいたが、伊賀越えで三河に命からがら逃げ帰った。
誰しも仇を討ち、天下を取る状況ではなく、結果的に絶好の機会を掴んだのは秀吉であった

光秀が当てにした、親友で娘の舅でもある細川藤孝が出家してしまい光秀の旗色は悪くなる。
秀吉と光秀の間にいた摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近らも秀吉の援軍に加わった。

全行程200km、最高移動距離・日に55km、驚異的なスピードの強行軍の始まりである。

【2014.07.22 Tuesday 16:33】 author : いづな薫 
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かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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