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since 2007.5.21 軍師官兵衛「中国大返し」 | 戦国カフェ
   
 
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軍師官兵衛「中国大返し」
秀吉&官兵衛が、光秀に勝利したのは、勝つための手立てを用意周到に準備したからである。
備中高松城にいた秀吉軍25000のうち、5000は移動途中姫路に残し、全行程210kmほどわずか7日で駆け抜けると言うのが中国大返しである。
驚異的なスピードである。
ちなみ箱根駅伝往復216kmは10人リレーで走る。

しかも秀吉軍は、走った後に戦をするのである。
昔の人の身体能力はすごい。
粗食の方が、身体能力が高いと言うのはうなずける。
兵士は走って行くだけだが(これも大変)、秀吉や官兵衛は勝つための手立てを絶えず実行している。
光秀にはこれがない。
秀吉らは、金と米をすべて、兵に分け与え士気を高め、無傷で畿内まで全軍を召還させている。
この作戦が、摂津の高山右近らを味方に付けることに優位に働いた。

秀吉が、信長の旧臣たちに参陣を呼びかけている文書が1通だけ残っている。
宛先は、摂津の中川清秀。
中川は、高山右近らとともに、摂津の領主で、位置的に秀吉と明智の間にこの時いる。
つまり、秀吉にしてみればどうしても味方にしたい相手である。
しかも、実はこれ「偽書」である。
信長の遺骸が見つからないことを良いことに、「信長公父子は難を逃れ健在、共に明智を討とう!」と書いている。
信長が生きているのと死んでいるのとでは、判断も違って来る。
生きていれば、求心力は失われず、明智へ厳罰も確実である。
事実、中川は秀吉に組した。
中川、荒木村重失脚の時も信長側に寝返り、今度もちゃっかり秀吉側にいる。

官兵衛も抜かりない。
小早川隆景から借りた、毛利の20本の旗を兵庫辺りから先頭に掲げ始める。
黒田家譜によると、毛利家が秀吉軍に味方したことを示すためだったと言う。
この時、秀吉が官兵衛を褒めてこう言ったと家譜にはある。訳してのせる。
「若い者たちよ、これを見て学ぶが良い。 戦は謀にて勝つものである。敵を斬り、首を取るのは匹夫の働きにて、誰でも出来る。官兵衛の謀は凡人の及ぶ所ではない。このような手立てを誠の大功と言うのだ。」

秀吉陣中にいた、占い僧について。
官兵衛が参謀的軍師に対し、彼は呪術的軍師とも言える存在である。
この時代、出陣日を占い戦勝を願い加持祈祷をしたりする。
従軍僧は、医師でもあり負傷者を救護したり死ねば経をあげる。
その僧が、「明日出陣すれば2度と帰れない悪日に当たる。」と言う。
士気が落ちるを恐れた秀吉は、これを逆手に利用する。

「2度と帰れないなら、むしろ吉日。
信長公のため討ち死にする覚悟は出来ている。
再び帰ろうなんて思ってはいない。
天下人になったら、どこでも好きな所に城作っちゃうし。
だからもう、この城には帰らない吉日!」

当時の人は、まだ迷信の世界に生きている。
僧侶の言うことは信用に値するが、秀吉は機転を効かせた。得意の人身掌握術である。

6月6日に備中高松城を発って、13日には畿内の天王山にて開戦。
光秀軍は、安土城や長浜城にも守備兵を当てており、且つ形勢不利と見た厭離者も出て、だいぶ目減りしていた。
天王山東麓にいた、官兵衛、中川清秀、神子田正治に、光秀軍の先鋒部隊が攻撃を仕掛けたが、光秀が頼りにした斉藤利三(春日局実父)が戦死した。
これを機に光秀軍は瓦解した。

感想
サル(秀吉)が猿の屏風の前で、諸将への手紙を用意しているのが面白い。

【2014.07.29 Tuesday 08:36】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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