大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 篤姫 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
龍馬暗殺 その2
 客を2階に案内しようとした下僕・藤吉は、階段途中で背中から斬られ、絶命した。
龍馬と中岡が刺客に気付いた時には、刺客はすでに龍馬の部屋に侵入してしまっていた。
 当日風邪をこじらせていて、綿入れで厚着をし、佩刀(はいとう)は床の間にあった。
 龍馬は腕はそこそこたったが、惜しむらく用心深さがいまひとつ足りない。

 龍馬は前頭部、中岡は後頭部を斬られる。
頭に傷を受けた後、刀を掴んで応戦したが、なおも斬られた。
刺客は龍馬と中岡を幾たびも斬り付けた後、逃走した。
 龍馬は、行灯を持って階段のある廊下に這っていったと言う。
「石川または清、刀はないか」と叫び、絶命した。
「石川」、「清」とは、倒幕活動のため中岡慎太郎が使った偽名、「石川清之助」のことである。
頭に致命的な重傷を負いながら、中岡を偽名で呼んでいるのである。
これは、瀕死の重傷を負い2日生きていた中岡慎太郎が証言している。
 
 まもなく、軍鶏肉を買いに行っていた峰吉少年が帰宅し、驚いて土佐藩士谷干城と、
元土佐藩士で陸援隊の田中光顕に事件を通報した。

 その3に続く。

【2008.11.03 Monday 08:46】 author : いづな薫 
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龍馬暗殺 その1
龍馬の死について書かねばなるまい。
龍馬が死ぬのは、1867年11月15日、くしくも龍馬は誕生日と命日が同じになってしまった。
享年33歳、短くも燃焼し尽した生涯である。

坂本龍馬はこの日、同じく元土佐藩士・中岡慎太郎と凶刃に倒れた。
龍馬はすぐに亡くなったが、中岡がなお2日存命したため、襲撃があった時の様子を遺している。

 場所は、京都三条河原町の近江屋。
龍馬の死に場所となってしまった「近江屋」は、土佐藩御用達の醤油屋で、志士達の活動を支えている商人である。
 現在近江屋跡には旅行代理店が建っていて、龍馬が暗殺された場所は、石碑の建つ位置よりわずかに南とされる。
 
 15日、風邪を引いていて熱があったという龍馬のもとへ、中岡慎太郎が訪ねてくる。
その夕方、中岡は、峰吉少年に薩摩藩定宿の「薩摩屋」に手紙を届けるよう頼む。
 峰吉とは、土佐藩御用達の書店の息子で、龍馬や中岡に可愛がられ、また彼らのためにこまごまと働いた少年である。
 その後、峰吉が帰ってきて、軍鶏でも食べようということになり、今度は峰吉に鶏肉を買いに行ってくれるよう頼んだ。
 入れ替わりの午後9時、数名の不審な影が近江屋に現れたのである。

 龍馬は、暗殺の危険を避けるため、何度か隠れ家を移転させている。
つい数日前まで、同じ京都三条河原町の酢屋(材木商)にいたのを、近江屋に移ったのである。

用心棒で下男の藤吉が、応対に出た。
「十津川郷士」と刺客は名乗り、名刺を渡したと言う。
お客だと思った藤吉は、案内するため階段を上がろうとした。

 これが、坂本龍馬の運命を永久に閉ざすこととなった。
案内することは、龍馬在宅を意味する。

 その2に続く。

PS.今夜の篤姫「龍馬死すとも」仕事中で見てないです〜。
まだ残業してますー。


【2008.11.02 Sunday 22:13】 author : いづな薫 
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篤姫と小松帯刀のお守り
今日は、いづなが頂いたお土産の紹介です。
ご常連のまりも様が鹿児島に旅行され、お土産にと贈られました。
もう〜なんと、お礼を申してよいやらです汗
まりも様、本当にありがとうございます。

普通のお守りより、二周りくらい大きいです。
篤姫でも大きめな感じがしましたね。
右は、写真がご趣味のまりも様が撮った、桜島と熊本城。
秋の高い空が、とっても素敵です。
実は、いづなも写真好き。
普段はコンデジですが、ここぞの時は重たい一眼レフを持ち出します。
写真の旅もしたいな〜。秋の、春日山とか行きたいです。

【2008.10.31 Friday 20:17】 author : いづな薫 
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勝海舟
勝海舟の所蔵だった、源氏物語写本が話題になっている。
13世紀の品で「梅枝の巻」、本の遊び紙(表紙の次の白紙のページ)に、勝安芳とあるそうだ。
勝安芳は、維新前後に、海舟が使った名前である。
 軍事専門家である勝が、恋愛小説を所蔵し読んだことが特に記事になっている。
 軍事家だって、恋愛小説読むのさ。
戦の天才上杉謙信だって、源氏を読んでいたし。

 篤姫と仲が良かった勝、明治期には帰りが午前様のデートもしている。
実生活も小説以上??

【2008.10.30 Thursday 21:43】 author : いづな薫 
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坂本竜馬と明智家
 ご常連のタカセ様と竜馬の出自の話で盛り上がったので、書き留めたい。

坂本竜馬のご先祖様と言われている明智左馬助は、明智光秀の従兄弟とされる。
1556年明智家の居城が、美濃・斉藤義龍に攻められ落城し、光秀と共に逃げている。
 諸国を流浪後、光秀が織田信長に仕えたのは周知のごとくである。
1582年光秀は本能寺の変後、秀吉に破れ、京・伏見で”落ち武者狩り”に討たれる。
 光秀死後、左馬助は琵琶湖手前まで迫った追っ手を前に、馬を泳がせ湖を渡り琵琶湖畔の居城・坂本城まで帰ってしまった。
 彼の人生はこの時自害して終わったとされるが、子の1人が、土佐の国に渡り、一領具足になったと言う逸話がある。

 一領具足とは、当時の土佐で半農半兵の生活を送った武士のことである。
平素は槍に具足を通し農地に突き刺して、田畑を耕しているが、合戦時には具足を着て戦に出るのである。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の輩下で、獅子奮迅の働きをしたのは彼らである。
 左馬助の子孫は、土佐の才谷村に住み着き、年月を経たと言う。
そのうち商人になる者が出て、酒造業で成功し、土佐で坂本家と言えば、知らぬ者がないほどの豪商になった。
 屋号は棲み付いた地名と同じ、才谷屋である。
 竜馬はその分家に、生まれている。
ちなみに、郷士身分は竜馬のご先祖が金で買った。
 竜馬は、身分などどうでも良い、と言いそうだが。

 本当に、竜馬が明智家の末裔なら、一家系で2度までも天下を取り替える偉業を成したことになる。
 そう考えると、また面白い。

【2008.10.28 Tuesday 22:37】 author : いづな薫 
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篤姫感想 「嫁の決心」
 小松帯刀、良いお父さんですね〜。

帰ってきたら、子供が増えてた、って南極の皇帝ペンギンじゃないんだから汗。笑
 ペンギンの場合、メスですが。
お琴は2人子供が生まれて、26歳で早世し、薩摩の小松家のお墓に入っています。
 本日、帯刀が抱いていた息子は、妻お近が育てたそうです。

 篤姫が敵対していたので、あんまり良く書かれませんが、史実の徳川慶喜をいづなは好きです。
 家茂が1866年7月20日に薨去します。
慶喜が将軍職を継ぐのを嫌がったため、家茂は既に死んで大阪城内で酷暑中、遺骸となっているのに、未だに将軍でした。
 幕府は家茂の名前で朝廷に、
「自分(家茂)は病気なので、慶喜へ家督をゆずりたい。」との申し出までしています。
 形骸化した幕府はその間にもどんどん衰退し、大名達は徳川幕府へ忠誠心を失くしていきます。
 慶喜がようやく将軍になったのは、同年12月5日でした。

 将軍就任した慶喜は、巻き返しに出ます。
 ドラマ中に島津久光が立ち上がり席を辞した列侯会議がありました。
 いかなる有力大名でも、慶喜に議論で勝てる者はいなく、いずれの意見も論破してしまうほどでした。
 そして、翌年には260年間握り続けた政治の実権を、あっさり朝廷に返してしまう(大政奉還)わけですから、
まさに恐るべき将軍です。
 後に西郷らが、慶喜が生きている限り、(明治)帝のお命が危ないと言ったのもうなずけます。
 薩摩の西郷や大久保らは、倒幕と慶喜の首を狙い、謀(はかりごと)をします。
慶喜は、将軍である1年に足りない短い間、片時も油断せず敵の手の内を素早く見抜き、
間髪いれず手を打って行きます。
 家臣も暗殺されていく中、慶喜の緊張感たるや、大変なものだったと思います。
 良く1年弱も、もった、と言う感じです。

 来週は、竜馬死ぬのか〜ああああ。
何度見ても彼の早すぎる死は、悔やまれます…。

 で、本日のお題でもある「嫁の決心」は?
すみません、興味がないのでカットいたします。笑

【2008.10.26 Sunday 22:20】 author : いづな薫 
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坂本竜馬のブーツ
「篤姫」で、玉木竜馬が、”自分のような身分の者は土佐ではどうにもならない”、
と温泉で小松帯刀にぼやいていた。
皆様も、聞いたと思う。
 いづなは、坂本竜馬の大ファンだった事もあり、書き出すと長いので、あえて触れない出来たが、坂本竜馬2回めを書くことにする。

 坂本竜馬、篤姫や小松と同じ1835年、土佐藩の郷士(身分が低い武士)に生まれている。
本家にあたる才谷屋が豪商であったため、身分は低いが裕福な環境で育ったはずだ。

 この土佐藩と言う国、身分制度が大変激しく、上士と郷士の間にはトラブルがしばしば起きている。
土佐は、江戸時代初期山内一豊が移封され、土佐山内家が始まる。
もとよりいたのは、長宗我部氏である。
山内家入封を嫌った、旧長宗我部に仕えた武士たちは、一揆を起こし、山内家と対立した。
結局の所、山内家が一揆を鎮め、支配するのだが、山内家の武士である上士と、長宗我部氏の武士である郷士には、歴然の差をつけた。
郷士が、藩政に参加することはなく、郷士は上士にはなれず、揉め事が起きれば、上士は郷士を斬り捨てることが許されのである。

 1861年3月、上士と郷士の斬り合いが起きる。
上士・山田広衛が、郷士の中平忠次郎と”肩が触れた”ことで口論となり、
山田が中平を斬り捨ててしまった。

そこで、中平の実兄・池田寅之進が弟の仇とばかりに、上士・山田斬ってしまう。

 この事件は、日頃の鬱憤のたまった郷士と上士の大きな争いに発展してしまう。
土佐は、常に郷士に非情である。
上士が詰めかけ押し問答となった最中、弟の仇を取った池田寅之進は切腹してしまう。

 1)郷士・中平、上士・山田に斬られる。
 2)中平の兄・池田寅之進が、山田を斬り仇を討つ。
 3)上士を斬ったことで、池田が切腹。

 他藩なら、弟の仇を取った勇者と言われたはずの池田は、土佐に生まれたがために無残に死んだ。
中平・池田兄弟の無念、竜馬の心中、如何ばかりかである。

土佐では、差別は身なりにも及ぶ。
日差しの強い土佐で、郷士に日傘は許されず、肌の色を見れば身分が一目瞭然だった。
雨の日、泥はねしないための必需品であった下駄は、上士のみに許された履物であった。
身分差を嫌った竜馬が、ブーツをはいた理由はそこにある。
ブーツは、身分を表さないからである。

 竜馬は脱藩し、自ら会社を作り、海運業で生きている。
藩に縛られた西郷や大久保、小松、桂小五郎に比べたら、自由に生きているように見える。
しかし、竜馬が自由になった理由は、そういう悲しい背景があるのである。

 土佐藩は、薩長土肥と言われる倒幕グループの四巨頭の一角だが、上層部はいたって佐幕派(幕府派)であった。
 上司に反発している郷士が、尊皇攘夷派になるのは自然の成り行きであった。
尊皇攘夷派は、次第に強くなっていくのだが、土佐においては、郷士は先ず自藩上層部の佐幕派を倒さねばならなかった。
 維新までに、郷士の多くは倒れ、維新後新政府の高官になったのは、元上士の板垣退助や、後藤象二郎である。

 大変な竜馬ファンだったいづなは、竜馬と似たブーツを注文して購入したことがある。
 身分制度をなくし、新しい世を作りたかった竜馬を想い、大事にはいている。

【2008.10.25 Saturday 22:17】 author : いづな薫 
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篤姫の籠
米スミソニアン博物館にある、篤姫の籠が、2008年12月16日〜2009年2月1日に公開されます。
場所は、江戸東京博物館。
めちゃくちゃ混みそうですね。
●HKにある、撮影用の篤姫の籠より、ずううっと豪華です。
読売新聞など各新聞社のHPに、写真載っています。
 まあ、セットに比べたら、本物の方が立派なことが多いですが。
謙信の着物だって、本物は仕立ても生地も飛び切り上等です。
染色も刺繍も、400年以上経っていても本当に素晴らしい。

 こちらは●HKスタパにある、セットの籠。これも綺麗だよね。


今、「その時歴史が動いた」を見ています。
和宮が庭に飛び降りて、家茂の草履をそろえるシーン、ドラマではなかったですね。
あんなに対立していた篤姫と和宮がタッグを組み、徳川を守ろうとするのは、何とも不思議です。
 篤姫晩年は困窮し亡くなった時、所持金3円(現在の価値で6万円)ってすごいですね。
薩摩の援助を断り、徳川の人間として生を全うしたとか。
 う〜ん、篤姫って古武士みたいな人です。
 
いつの間にやら越えていた御来客32万人様、皆様のご愛顧感謝いたします。
拍手&メール下さる皆様も、ありがとうございます。

【2008.10.22 Wednesday 22:46】 author : いづな薫 
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坂本龍馬の新婚旅行
篤姫でも放送したが、坂本竜馬は薩摩に新婚旅行に出かけ、小松邸に滞在している。
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」にも、新婚旅行場面が出て来る。
司馬さんが、取材にお出かけになった頃は、地元でも地名を忘れられたほどの秘境の温泉だったと言う。
名を、温泉塩浸温泉(しおひたおんせん)と言う。
竜馬は京都伏見の寺田屋で幕吏に襲われ、負った傷を癒しに来たが、なんとまあ、傷にしみそうな名前である。
両手に傷を受けていたが、特に左手親指の傷が動脈を切断しており、重傷であった。
療養を兼ねて、竜馬は妻お竜と、船で薩摩へ日本初の新婚旅行に出かけた。
 医師の娘であったお竜が、負傷した竜馬を献身的に介護したようである。
土佐(高知県)の実家の兄、権平に、
「お竜が、いたから竜馬の命は助かった」と手紙を書いている。
竜馬の手紙は、昔の人にしては、字も上手くないし、挿絵まで入っていて、大変面白い。
仲の良い姉・乙女に宛てた手紙がかなり現存し、竜馬の人柄、暖かな家族観が伺えて実に楽しい。

新婚旅行などない時代、女性は船に乗らない時代、竜馬は何のこだわりもなくさらりとやってのけた。
(篤姫も本当は陸路で、江戸に嫁いだ。)
新しい時代の扉を押し開けた竜馬にしてみれば、何のこともなかったであろう。

 竜馬は、故郷土佐にいる姉、乙女に、塩浸温泉から手紙を送っている。
10日ほど泊まって、この世とは思えないほど珍しい所だとか、
魚魚を釣ったとか、ピストルで鳥猟をしたとか。
屈託のない手紙を、送っている。

今では、インターネットで塩浸温泉も出てくる。
竜馬の銅像まで、建っている。
いづな、旅行番組で竜馬が浸かったと言う、露天風呂を見たことがある。
今では、苔や草がむしていて入れる状況ではないが、竜馬が浸かったと思えば、しきりと感慨深い。

【2008.10.21 Tuesday 20:03】 author : いづな薫 
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篤姫感想「息子の死」
小松帯刀・近夫妻、面白かったですね〜。
「おなごに弱いのも新しい男だ。」龍馬のセリフも素敵です。
龍馬、寺田屋で、左手の親指が落ちそうなくらいの大怪我したんですが、治って良かったです〜。
でも、龍馬はあと一年の命、泣。
家茂、亡くなってしまいました・・・。
思いやりのある、素敵な公方様でしたね。

徳川家茂、脚気で亡くなったとされています。
今じゃほとんど聞かないこの病気、ビタミンB1不足により、心不全や末梢神経障害が出ます。
幕末明治初期の頃、西洋からお雇い医師たちが来日していますが、この病気に首をかしげています。
脚気は、「江戸わずらい」とも言われ、江戸にしかも身分の高い人に多い病気でした。
 副菜が少なく、白米ばかりを食べているので発病するのです。

家茂の遺骨は、昭和30年代に発掘調査されています。
家茂の歯は、実に30本が虫歯で穴が開いていました。
甘いものが大好きで、その上エナメル質が薄い体質でした。
そして、鼻が大変高く、肖像画とも合致します。
虫歯はともあれ、結構、イケ面だったかもしれません。
遺骨に残った髪が、高く結い上げた状態で豊かに残っており、21歳と言う若さで亡くなった彼を忍ばせます。
ちなみに、月代はありません。
 
 和宮の遺骨も同時に調査されていますが、棺の蓋を開けた時、将軍正室らしい豪華な副葬品はありませんでした。
しかし、遺体の腕が1枚の湿板写真を大事に抱いていたと言います。
湿板写真とは、ガラス板に薬品を塗り、感光膜が湿った状態で写す写真のことです。
調査隊は、湿板写真に、烏帽子(えぼし)、長袴(ながばかま)直垂(ひたたれ)姿の若い男性が写っていたのを見たそうです。
徳川幕府は、直垂着用を、将軍、御三家など四位以上の高位者にしか認めていません。
 しかし、80数年ぶりに陽に晒されたためか、その像は翌日には消えてしまったそうです。
かつての婚約者、有栖川宮熾仁親王だとか、夫家茂だとか言われています。
不本意ながら嫁いだけれど、仲睦まじかった夫・家茂の写真ではないかと推測しますが。
それが誰だったのか、今となっては謎です。

【2008.10.19 Sunday 21:31】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
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