大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
信長の蝶の陣羽織

今日は、信長の陣羽織を見に東京国立博物館に参りました。
黒地に蝶の部分は、鳥の羽で出来ています。
伝織田信長から溝口家に伝来 。

【2015.01.07 Wednesday 12:38】 author : いづな薫 
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「里見八犬伝」見て参りました。
 

舞台「里見八犬伝」を見て来た。
映画や舞台で大変な数上演された、古典、伝奇小説の名作である。
作者は、江戸時代後半に生きた曲亭馬琴(滝沢馬琴)である。
今回の舞台は、そのストーリーとは若干変えてある。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」は、執筆年数28年全106巻と言う膨大な作品。
あらすじだけでも、大変なのでほんの一部をご紹介。

時は、戦国時代。舞台は、今の千葉県の南総(南房総)、里見家。
城主・里見義実(よしざね)により、謀反の罪を着せられ処刑された妻・玉梓(たまづさ)。
玉梓(たまづさ)の無念の思いが犬神と融合し、怨霊として害をなす。
里見家や城下に、その呪いが疫病として蔓延して行く。

疫病を瘴気(しょうき)と言っていたが、古代から19世紀頃まで、「悪い空気」が引き起こすと考えられていた病気、感染症である。

里見家当主、義実(よしざね)も、その病気で死の床にあった。

時代を少しさかのぼる。
城主里見義実(よしざね)と玉梓(たまづさ)が、まだ仲むつまじかった頃、愛娘伏姫が生まれた。
伏姫が成長した折、戦が起きる。
父である義実が、飼い犬の八房(やつふさ)に敵の大将首を取って来たら娘の伏姫を与えると言ってしまう。
八房(やつふさ)は、敵の大将首を取って来て伏姫を要求する。
義実(よしざね)は、姫と八房を山奥に幽閉してしまう。

その後、父・義実の命を受けた家臣が姫を迎えに来たと言って現れる。
しかし、その家臣は妻子がありながら姫に”駆け落ち”を持ちかける。
拒んだ姫は、家臣に撃ち殺され体から8つの玉がはじき出される。
玉には武士にとって大事な、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が浮き出ている。

姫の話とは別に、城下では犬塚信乃(いぬづかしの)と言う若者が、浜路(はまじ)と言う女性と駆け落ちしようとして反対した養父を切り殺してしまう。
そこへ出くわした、信乃(しの)の家の下男・荘助。
荘助は当然の如く、自分のあるじを殺したその養子・信乃(しの)を猛烈に非難する。
信乃(しの)と荘助は、友達同士で大変仲が良かった。
しかし、今やふたりは刀を抜いた争いになり、止めに入った浜路(はまじ)が切り殺される。
信乃(しの)も荘助も嘆き、互いを罵りながら分かれるが、死んだ浜路(はまじ)を怨霊玉梓(たまずさ)が蘇らせる。
浜路(はまじ)は、玉梓(たまずさ)の一味になったのである。

養父を殺した親不幸者の信乃(しの)に与えられた玉には、なんと”孝”の文字が。
その他の玉を持つ剣士たちも、玉の文字とは間逆の性格や境遇である。
本人の責任もあるが、戦国時代と言う環境の苛酷さがそうさせているのも否めない。
年下の者を大事にする意味の”悌”の玉を持つ小文吾(こぶんご)は、愛する弟妹を殺されてしまう。
仁を持つ剣士・親兵衛は、人の心が分からない。

そして、とても印象的な人物がいる。
病に冒され、余命いくばくもない医師・犬村大角(いぬむらだいかく)。
彼が、怨霊と戦うヤマ場がある。
槍を八方から腹に受け、死に際、怨霊たちに慈愛に満ちた言葉で語りかけるシーンが良い。
「(怨霊の)生前は、私が診た者たち。」正確ではないが、同内容のセリフである。
怨霊の頭・玉梓(たまずさ)も、かつては善良な奥方だった。

勧善懲悪のストーリーとは言いながら、善悪混濁する“人間の業”を考えさせられる作品である。
惜しみない拍手を贈りたい。

【2014.11.13 Thursday 16:50】 author : いづな薫 
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忠臣蔵

今日は、義士祭、播州赤穂浪士討ち入りの日。

久々に、歴史のお話をしたい。
播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松の廊下にて、刃傷に及んだのは
今から312年前の事である。

その頃、年の始めに将軍の使いが朝廷に参内し、その返礼に朝廷の使者が江戸に下るのが慣わしであった。
その接待役だったのが、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)
そして、新年の将軍の使いが、吉良上野介であった。

朝廷の勅使(この時の返礼使者)を、もてなさねばならない浅野内匠頭は、
老中の言いつけどおり、高家の吉良上野介の指示を仰ぎながら御馳走役(接待役)を勤めていた。
浅野内匠頭は、天和2年(1682年)17歳の時にもこの役目を命じられ滞りなく果たしている。
内匠頭(たくみのかみ)は、今度も御馳走約を果たすため、作法で何か変更はないか吉良上野介に問い合わせることにした。
家臣は何か贈り物をした方がいいと進めたが、浅野内匠頭は拒否。
これが、吉良と内匠頭(たくみのかみ)の不仲になった理由その1.
そのほか、手土産なしで、吉良に尋ねたところ、「今更お尋ねになるようでは、御馳走役は勤まりませぬ。」と人前で嘲られたとか、浅野内匠頭が何度質問しても教えなかったとか、諸説いろいろ。
元禄11年(1698)江戸大火の際、吉良上野介は鍛冶橋邸を全焼させて失った。
この時、消防の指揮官だった浅野内匠頭が吉良邸を守らなかったことが吉良の反発を買った、と言うのが理由に挙げられることもある。

そして、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が、吉良良上野介に刃傷に及ぶと言う大事件が起きる。
今で言えば、傷害事件で大したことないが、当時”殿中”で刀を抜くのはご法度。
将軍綱吉は、浅野内匠頭に即日切腹、浅野家は改易となる。

赤穂に早籠が走った。昼夜通して走り6日かかっている。
江戸からの急使は、次々と到着し、刃傷事件が起きたこと、主君が切腹してもうこの世にないこと、喧嘩両成敗が武家法なのに、吉良上野介が罰も受けずに生きていることが家臣たちに続々と伝えられたのである。
赤穂藩の家臣270名は、一日にして藩主と禄などの生活基盤を失ったのである。

赤穂藩国家老・大石内蔵助は、「吉良が生きたままでは開城出来ない、上野介の処分と自分達の切腹と引き換えにお家再興を願い出る。」事を決意する。

内蔵助と行動を共にする者は、神に誓う「神文」を提出させた。
大石は、お家再興が叶わぬ時は吉良への”報復”も考え賛同者をひそかに集め始めていた。
神文を提出した者は60名ほどだったが、脱落者が増え、且つ大石の遊郭通いが噂になり仇討ちはないかに見えた。

吉良上野介は隠居の身となり、処罰される可能性がなくなり、浅野家再興の際は藩主となるはずの浅野内匠頭の弟・大学は安芸の浅野本家にお預けとなってしまった。
お家再興の夢は、破れたのである。

もう仇討ちしかない。

討ち入りの日は、元禄15年(1702)12月14日深夜。雪

黒小袖の袖口に、白いさらしの布を付けて、右後ろ側に氏名を書いた。
討ち死にしたときの目印である。
小袖の下には鎖かたびらを着込み、股引きを着用。

15日午前4時頃、討ち入り。
表門脇に二丁のはしごをかけて大石内蔵助ら23人が討ち入り、玄関前に討ち入り理由をを書いた「浅野内匠家来口上」を青竹に結んで立てている

裏門からは大石主税(内蔵助嫡男)ら24人が大槌で門を打ち破り中に入った。

目指すは、上野介の首ひとつ。
探し出した寝床にはまだぬくもりがあり、間際まで上野介がそこに居たことを示していた。
しかし上野介本人がなかなか見つからず、探し回っていると庭先の炭小屋でようやく吉良を発見。
四十七士のひとり、間十次郎(はざまじゅうじろう)が槍で突くと応戦する者があり、複数人での戦闘の末吉良の首を、間(はざま)が上げている。

吉良邸を出た四十七士は、近くの回向院で休息を取りたいと院に申し出るが、断られてしまう。

更に歩いて、隅田川に架かる永代橋に差し掛かる。


永代橋のふもとに乳熊屋(ちくまや)と言う味噌店があり、その初代主人竹口作兵衛は、赤穂浪士の一人大高源吾と俳諧を通じての友人であった。

竹口作兵衛は、四十七士の労をねぎらい、店内に招きいれ、甘酒粥を振舞った。
甘酒粥とは、米から作る甘酒のことである。
お礼に、大高源吾が店の棟木に「味噌四海遍し( あまねし・広く伝わるの意味)」と看板を書き残し、あるじ浅野内匠頭(たくみのかみ)のお墓のある泉岳寺に向かった。

四十七士は、討ち入りから1年後の永禄16年2月4日幕府の命により切腹。

赤穂浪士は世を去ったが、大高源吾の残した看板と棟木の文字が江戸市中の評判になったと言う。
看板と棟木は、惜しいことに関東大震災により焼失している。

【2013.12.14 Saturday 20:56】 author : いづな薫 
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堺の利休

今日は千利休の大学公開講座に参加中。
私は、春に参りましたが、利休生誕の地・堺(大阪府堺市)では貴重な文化財特別公開が11月16〜24日まで
あるのでご興味ある方、お近くの方はいらしてみて下さい。

 

【2013.11.09 Saturday 13:24】 author : いづな薫 
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犬の伊勢参り

伊勢神宮では今年、式年遷宮(20年ごとに宮を建て替える)が行われているが、関連のちょっと面白い本を
読んだ。
江戸時代、”犬が単独で伊勢参りする話”を史料に基づいて検証している本である。

最初の犬の伊勢参りは、明和8年(1771)4月16日昼頃に起きた。
犬が、お参りにやって来たと伊勢の街中が騒いでいる。
毛色は茶と白の斑犬(まだらいぬ)。
茶店でおにぎりをいただき、手水場で水を飲み、広場で伏せ拝礼の姿勢を取った。
宮内に、犬は入れなかったが、この犬の尋常ではない姿にみな犬をいたわり、御祓いを首にくくりつけてやった。
犬はつつがなく帰国する。
帰国先は、山城国(現京都府)で飼い主は高田善兵衛と言う人であった。
犬は高田の名札をつけている。

以後100年の間、目撃談が続く。
江戸時代の人は、伊勢参りに行くのが夢である。
でも、女性や奉公人は行きたくてもなかなか行けない。
行ける環境の人は、男性でしかもかなりの旅費が必要である。

そのため、犬を伊勢神宮へ代参させるのである。
お金を袋に入れたり、穴の空いた銭を紐で通して犬に持たせる。
犬にご飯を上げたり、寝る所を提供した人は、そこからお金をいただいて良いとなっているが、犬の所持金は
どんどん増えていく。
伊勢参りするとは、えらい犬だと言われお金を結びつける人がいて銭でだんだん重くなり、銀の小玉に
両替されたり、同行して銭を運んでくれる人が現れる。

長州藩の、犬の母子が伊勢参りに出かけたことがある。
母犬の首には「御犬」と書かれた札が下がっており、かなり身分の高い人のペットらしい。
殿様の犬かもしれないが飼い主は不明。
長州藩から広島藩に入り、母犬が首から提げていた木札にはこんなことがかかれている。
「周防久米市にて一子誕生つかまつり〜1宿ずつお貸し下さるべく候」
犬が途中で、子連れになったことを記している。

広島藩内の玖波駅(くばえき。駅は宿場)では、破損していた木札が付け替えられ、文章も新たに加わる。
「犬一疋 ただし子連れ 伊勢参宮の由にござ候。寝る時は部屋に上げて、ふとんを出して下さい。」

伊勢参り犬の最長距離は、青森〜伊勢だと言う。
広島は当時鷹狩りをするため、犬が街中におらず、豚が伊勢参りに行った話が残る。

犬の所持金が減るどころか、えらい犬だと寄付が増え、お金を持って同行してくれる人、生まれた子犬を抱いて
同行してくれる人がいた。
江戸時代は、犬は誰か個人に飼われるより、町犬、里犬であった例が多く、迷っている犬がいると、
「伊勢参り犬だ!」と思われ、”伊勢参り代参”の札がつけられ、伊勢に行ったのではないかと著者は記している。
運悪く、道中で命を落とせばそこに碑が建てられ供養された。

明治になり、犬は個人の飼い主に首輪をつけ飼い主の住所氏名が明記された。
これがなければ、処分の対象となったのである。

やがて、犬の伊勢参りは忘れ去られて行ったと言う。
犬が信仰心から伊勢参りには行かないので、習性からご飯の出る所、親切にしてくれる人に付いて行き
結果的に参宮をしたと言うことである。

平和な江戸時代の、おおらかな話である。
蘇らせてくれた著者は仁科邦男氏、「犬の伊勢参り」。

【2013.10.01 Tuesday 08:56】 author : いづな薫 
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河口慧海(かわぐちえかい)

80歳の登山家三浦雄一郎さんが、ヒマラヤ山脈エベレスト登頂に成功し無事帰国された。
その強い心肺力、精神力に感嘆させられる。

113年前に、日本人として初めてヒマラヤ踏破した河口慧海(かわぐちえかい1866-1945)と言う人物がいる。
上写真は、故郷の大阪府、南海鉄道・七道駅前に建つ慧海の銅像。
彼は、チベット研究の学術探検家であり、黄檗宗の僧侶でもある。
戦乱の幕末からまもない明治の初め、徴兵制に反対した人物でもある。

慧海は、江戸時代の終わり1866年、現在の大阪府堺市七道に生まれた。
父は桶、樽職人で、少年慧海が職人になるのに学問はいらないとの方針だった。
親の意見に反し、慧海は高い向学心を持ち同志社大学に進む。
しかし、学費が足りず断念し教員になる。
慧海19歳の時、徴兵令に反対し天皇へ直訴のため上京。
直訴はうまくいかず、25歳の時、僧侶になった。

現在も南海鉄道七道駅近くに、生家跡の碑が建ち、通った清学院(寺子屋)が残っている。
左:生家跡の碑。   右:寺子屋清学院。江戸時代後期の建物。

慧海は1897年32歳の時日本を出発する。
慧海は、正義感強く人柄が良い人物であったそうだ。
弁が立ち、学問もあった。
宇治黄檗院にて、一切蔵経を読誦し、仏典の真理はチベットにあると悟る。
単独チベット行きを決めた慧海に、大阪や堺の友人、黄檗宗の信徒らが寄付でお金が集めてくれる。
1900年慧海は、ヒマラヤを越えチベットに入国した。

当時のチベットは鎖国政策を取り、入国は困難であった。
飢餓に苦しみ、犬にかまれ怪我をし、強盗に遭い、川でおぼれる。高山病になり無人地帯で吐血したこともあった。
標高5000mを超える山岳地帯をヤクの背に荷物を載せ、歩き、またある時は自身で30kgの荷物を背負い山を登った。
現在の装備のように、酸素ボンベや歩きやすい登山靴があるわけでない。
平底の靴は靴擦れを起こし、歩けなくなる事もあった。

苦難の果てにチベットに入り、法王の知遇を得てセラ大学に学ぶ。
鎖国政策のため対外的にはチベットの国内の様子は知られていなかったが、慧海はその人徳で、見知らぬ地にも
彼を支える人々に出会う。
ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、ネパール首相チャンドラ・シャムシェル、そして現地の一般の人々。
チベット蔵経、梵語蔵経、仏像仏具、博物標本などを持って帰国した。
現在これらは、東京大学などに保管されている。
慧海は、チベット旅行記の克明な記録を残している。

晩年はチベット語の辞典編集に没頭する。
太平洋戦争が終わる半年前、防空壕の入り口で転倒、脳溢血を起こし、東京世田谷の自宅で死去。享年80歳。

高野山奥之院で、慧海の供養塔を見つけた。(下写真)

墓地は、東京港区の青山墓地である。

【2013.05.29 Wednesday 15:33】 author : いづな薫 
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理想の上司を戦国武将にたとえると誰ですか。
1位 武田信玄 37.2%
 部下の力を引出し、チーム力を高めていく。
2位 豊臣秀吉 25.6%
 人間味に溢れ、アイディアとフットワークの良さを持つ。
3位 織田信長 11.1%
 絶対的なリーダーで、カリスマ的革命児。
4位 徳川家康 10.5%
 忍耐強く努力して成功を実現。
5位 上杉謙信 7.7%
 儲けることよりも道義を重んじる。
6位 前田利家 5.2%
 出世至上主義ではなくとも、重要な仕事を着実にこなす。
7位 伊達政宗 5.1%
 自分の領分をしっかり固めて実績を上げる。
8位 その他直江兼続 島津義弘など 1.2%
 愛を重んじている、人に対する情がある。   

以上、東京、名古屋、大阪で新入社員に、三菱系シンクタンクが理想の上司アンケートを取った結果である。


5位にお屋形さまが入っているが、儲けることより道義でなくて、双方両立させたのよん。

秀吉、三都市の中では大阪がもちろん1番人気。
謙信は、三都市の中では東京が1番謙信好き。

3位信長、この上司はやめた方が良い。

1位武田信玄、ある意味うなずける。
機能主義で裏も表もある信玄、敵に回すとやっかいだけれど(しみじみ)、味方には思いっきり
利益誘導してくれる。笑
そして信玄の優れた所のひとつは、自身の好き嫌いは置いておいて、どんな人でも適材適所に配置できること。
人使いが抜群に上手い、これは領国を率いる者として素晴らしい才能である。

甲陽軍艦にこんな話がある。
武田信玄の家臣に、曲淵少左衛門(まがりふちしょうざえもん)と言う人物がいる。
戦場では良く働いたが、不平不満の多い男で生涯に何十回もの訴訟をおこした。
しかも勝訴は1回だけ。
裁判の結果が気に食わないと、判決を下した奉行人たちに悪態を付き乱暴狼藉を働いた。
奉行人たちはほとほと困り、信玄に、曲淵少左衛門(まがりふちしょうざえもん)を何とかしてくれと陳情する。

同僚はみな曲淵を嫌い怒ったが、ボス信玄は彼らをなだめた。
信玄いわく、
「例えば、猫は主人を主人と思わず、今清めたばかりの炉に糞をしたり、ペットの鳥を捕ったりする。
鼠はもっと悪くて、屏風や襖、大事な書物をかじったりする。
こういう時、鼠を猫に捕らせる。
猫が鼠を捕ればなんていい子だと褒め、猫の欠点など忘れている。
あいつはどうしようもない奴だが、役に立つこともある」

また、信玄は人を使うのではなく、その人の”技を使う”のだと言ったことがある。

後にそれを聞いた徳川家康が、確かに猫はして欲しくない所に糞をしたり、困り者だが、鼠を捕らせるために買っておく必要があると、信玄の人使いに感心したと言う。

何事も、好きか嫌いかで判断するのを私も避けたいと思っている。
仕事であればなおさらだ。

【2013.05.15 Wednesday 20:06】 author : いづな薫 
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空海入定
今日は何の日?
弘法大師こと、空海がお亡くなりになった日。
承和2年3月21日、西暦だと835年4月22日である。62歳。
高僧が亡くなると、入寂とか入滅(釈迦や菩薩も入滅)とか言うが、高野山では、未だにお亡くなりにはなっておらず、
入定(にゅうじょう)と呼ぶ。

高野山奥之院(おくのいん)の御廟で、大師さま(空海)は心魂を留め、今もなお衆生を救い続けていると信じられている。
食事も毎日、行法師(ぎょうぼうし)というお坊さんたちが作り、日に2回運ばれる。
仏教の戒律で正午を過ぎると、食事は取ることを許していないため、食事は午前6時の小食(しょうじき)と
10時半の中食(ちゅうじき)2回である。
朝の午前は1汁4菜。昼(10時半)は1汁5菜もデザート付き。

遣唐使の留学僧として唐に渡り、20年間学ぶ規定があったが、をたった2年で帰国した。
最新の経典と、歴史書、医学、土木、詩文、占術など多くの文物を日本にもたらしている。
当時、日本人は中国語を介して仏教を受け入れようとした。
しかしそれは、あくまで翻訳である。
空海は、中国語とサンスクリット語が堪能である。
真理を追い求める天才行者らしく、ものすごいスピードで語学、自然科学、土木、医学など多種多様の学問を習得して研究発展させていく人物である。

仏教の原典はサンスクリット語である。サンスクリット語なくして密教の理解は難しい。
空海は、おそらくはサンスクリット語を理解した最初の日本人であったろう。
わずか2年の滞在の間に、密教の最高継承者・恵果(中国唐時代の密教層)の1番弟子になった。

得がたい真理の教えである密教を会得し、生きて日本に帰り国の安定を図り、人々を救済したい。
これが空海の願いである。

弘法大師(空海)の時代から、1200年が過ぎたが、未だ衆生は悪しき振る舞いが多く困っている。
電力改革に関しては空海どころか、信長が欲しいとすら思う。笑
時事問題で書きたいことが山盛りだが、今日は空海のお話のみ。

【2013.03.21 Thursday 19:53】 author : いづな薫 
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映画「のぼうの城」見て参りました。
「のぼうの城」、礼節を重んじ、人に対して愛情がある作品である。

私は礼節や愛情は、人間のみならず生命、環境全般に対して必要なものだと思っている。
政治、文化、社会、いずれの分野でも不可欠である。
これが損なわれれば社会、コストと利益だけですべてを乗り越えていく経済ですら、やがて上手く回らなくなる。
礼節に欠ける卑怯者が増えれば、社会秩序が乱れるからである。

封切られたばかりの、この映画を見て来たので、その感想を書きたい。

主人公、のぼう様は、忍城(現、埼玉県行田市)城主・氏長(うじなが)の従兄弟である。
智も勇も武もないが、人徳だけはものすごくある。
そして、平和に暮らしていた忍城下に侵略者して来た三成軍を赦さず、誇り高い。

時は、秀吉の小田原攻めの時であるから1590年6〜7月のことである。
成田家は、小田原・北条家の支配下にある。
北条に味方するため、殿様の氏長(うじなが)は小田原に出向くことになった。
「北条に見方するのはうわべだけ、実は秀吉に内通する。」と、城主・氏長(うじなが)は家臣たちに言い含め
忍城(おしじょう)を発つ。

しかし、忍城の家臣たちは殿様の命に叛き、攻めて来た秀吉が差し向けた石田三成軍と戦になる。
殿様は秀吉に内通しているのに、国許の家臣たちは三成軍となぜか戦になり、しかも勝っている。笑

角はあるが勇敢な家臣&有能な農民を、人望でまとめ上げている、のぼう様。
のぼう様の、のぼうはでくの坊の意味。
本名は、成田長親(なりたながちか)である。
トップに立つ者は、特技に秀でている必要はない。
人臣をまとめあげる人望こそ、大事なのだ。

成田家一の家老、正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで) 、この武将が素敵。
戦法がまるで、ミニ謙信公なのだ。
上杉家と成田家は、その30年ほど前に戦をしている。
忍城とは、小田原の北条氏と越後の上杉氏の国境最前線の地域なのである。
小説に、丹波少年と謙信公の出会いのシーンがある。
丹波少年は、忍城に攻めて来た謙信を塀越しに見ていたのである。
鉄砲の達人に謙信を狙撃させたが当たらず、”予を撃ってみよ”とばかりに逆に謙信公に胸を張られる。
弾は、みな謙信を避けて通った。
これは、”いくさがみ”だと子供の丹波は思う。
弾を当てれば、祟りがあると。

「謙信のようにはなれない」と丹波少年は思うが、成長した丹波の獅子奮迅の働きぶりが大スクリーンで見るのが
実にふさわしい。

さて、のぼう様。
殿様の従兄弟だが、農民の農作業を手伝いをするのが大好き。
赤子をあやし、武士なのに馬にも乗れない。
ひょろろん、ひょろろんと踊っては、つかみどころのないキャラだが、農民たちの彼に対する愛情は
子が親に対するそれと似ている。
忍城が水攻めに遭い大ピンチに陥った時、水攻めの巨大な池の上に舟を浮かべ、自らを敵に狙撃させる。
のぼう様が敵に葬られた?らどうなるか。
農民の行動は、親を撃たれた子らの行動に似るだろう。
戦国時代の農民は戦があれば兵士に変貌する。従順にばかり生きているとは限らない。
これからご覧になる方が多いので、それ以上は詳しく書かない。

22歳の若き家老酒巻靭負(ゆきえ)、豪傑・柴崎和泉守、大武辺者の甲斐姫。
敵役の三成がりりしくて素敵なんだ、これが。ベストオブ三成かもしれない。笑
慈父のような秀吉、良友の大谷吉継、三成の周りの人間関係も心地よい。
設定がわかりやすく、キャラが立っている。
作者の人間に対する深い愛情が感じられ、小説で読んでよし、映画で見てよしの素晴らしい作品である。
ただ、すごい津波シーンがあるので、3.11で被害に遭われた方はご覧にならない方がいいかもしれない。
あと戦闘シーンが多く、セリフが聞き取りにくいので原作もお読みになるといいと思う。

こちらは、今年春、のぼうの城の舞台、忍城、石田堤、丸墓山古墳を訪ねた時の様子。
東京からほど近い。また行きたい。

【2012.11.04 Sunday 16:08】 author : いづな薫 
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利休忌
千利休が切腹により生涯を閉じたのが、天正19年(1591)2月28日であった。
太陽暦で4月21日、利休が亡くなった日は陽春うららかなる日ではなく、寒冷前線通過で雷が鳴ったようである。
毎年ひと月後れの3月28日に、裏千家家元では利休忌の追善茶会を行って来た。表千家は27日。
利休忌には、菜の花を生けるのが恒例である。
菜の花は、利休が特に好み、最後の茶室に生けられた花だと伝わっている。
今日はあいにく菜の花写真は用意できていない。

開花を待つ桜のつぼみ。


馬酔木の花


上杉鷹山公の奨励したうこぎの新芽。

【2012.03.28 Wednesday 13:50】 author : いづな薫 
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