大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
東大寺大仏殿大刀2振り、1251年ぶりに確認


 歴史的大発見、と言って良いだろう。
奈良・東大寺の大仏の右足元に埋められていた2振りの刀が、1907年に見つかっている。

 その刀、1251年前、正倉院から持ち出され、行方不明になっていた宝物であると、この度判明した。
 鉄製で、長さ97.2cmと98.5cm。
X線をかけて、剣の柄近くに浮き上がった文字は、「陽劔」と「陰劔」である。

2剣は、1907年、大仏殿を修理した時、大仏の載っている、須弥壇(しゅみだん、土台)の中から見つかっていた。
現在、国宝で奈良国立博物館で保管されている。
正倉院に納めた宝物の目録で、「国家珍宝帳」と言うものがある。
756年聖武太上天皇が崩御し、遺愛の品々を東大寺に納める時、楷書体で書かれた、5巻ある目録のうち1巻である。
 当時の、国家的重要文書と言って良い。
そこに、「陽寶劔」(ようほうけん)と「陰寶劔」(いんほうけん)と言う記載が見られ、持ち出したことを示す、「除物」の文字が書かれている。

 持ち出したのは、光明皇后だと考えられている。 
取り出したのは、夫の聖武太上天皇が崩御した3年後の、759年12月。
亡き夫の供養のため光明皇后が正倉院から出し、大仏に供えたのではないか?と推測されるとのことである。


【2010.10.25 Monday 20:53】 author : いづな薫 
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卑弥呼のバット?


鬼道に仕えよく衆を惑わす・・・『魏志倭人伝』の、女王卑弥呼を巧みに表す一文である。

それと関連付けられるのか、否か、奈良の纏向遺跡(まきむくいせき・2〜4世紀初、奈良県桜井市)から、
2000個以上の桃の種が出土した。

 は古来、不老不死に効くとされ、魔よけ、呪術に使われている。
前漢の武帝が長寿を願うと、仙女・西王母(さいおうぼ、せいおうぼ)が天から舞い降り、不老不死の実、桃を授けている。
 これ、教科書に載っていたな。笑
 
 纏向遺跡(まきむくいせき)遺跡近くの穴から出てきた桃の種、果肉が付いていたとの痕跡もあり、近くからは竹ざる6点(30〜60cm)、木製の剣、小さい甕(かめ)10個、わざと割ってある土器、漆塗りの弓、獣骨も発見されている。
 桃の種は、同時代の各地の遺跡で発見されるが、こんなに出て来たのは初、極めて異例である。
 国家的行事(祭祀)を、為政者が執り行った痕跡か?

 さて、わざと割られた土器が気になる。
自然に割れたなら、破片を集めればもとの形が分かるが、今回は意図的に一部分だけを捨てたようだ。
 悪しき物の吸い込むといけないので、神様に使った道具は、再び使わないしきたりは今でもあるが、なぜ一部分だけ投棄されたのか?は謎。
 面白いのは、土器を壊したと思われる、野球のバット型の棒2本の発見。
土器はわざと壊したらしいが、バットは完全な形で残っている。
 祭祀で土器を割り、バットも一緒に投棄したのかも?とのこと。

 出土土器は、東海地方に出る土器と似通ったものが非常に多いのだそうだ。
纏向遺跡は、東海地方の人々と強い関連があるのか。
 調査はまだまだ続くそうで、新たな発見が楽しみである。

【2010.09.18 Saturday 21:52】 author : いづな薫 
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スーパー女帝 斉明天皇
お墓がほぼ確定した斉明天皇、国際感覚あふれ、自らも戦に行くすごい女帝である。

 今日は、その斉明天皇のお話。
日本書紀には、斉明天皇が、石を切り出して、飛鳥まで運んで来たという記述がある。自分でじゃないが。
 彼女は、石の文化を好んだ。
 中国は土、朝鮮は石、日本は水と森の文化である。

明日香村で、どこが好きかといづなは尋ねられれば、一にも二もなく、稲淵!と答える。
奥明日香の稲淵、渡来系学者の南淵請安のお墓があり、男綱(おづな)など古代の豊穣信仰が残る。
ひとりで歩いていると、飛鳥時代に迷い込んでしまったような気分になる。
もうまもなく、彼岸花の群生する美しい棚田も見られる。

男綱(おづな)とは、村の入り口から悪疫が侵入しないように架けられた綱。
さらに上流の栢森(かやのもり・かやもり)には女綱がある。性と豊穣を結びつける古代信仰で、陰陽を形どる。

左:南淵請安の墓                            右:男綱
 

 この土地は、あちこちにボコボコと石灰がむき出している。
稲淵を流れる飛鳥川を下ると、扶余(ふよ)に似ていると言う。
扶余(ふよ)とは何か。3〜5世紀朝鮮半島北部にあった国。
扶余(ふよ)は5世紀末に滅んだが、その民は朝鮮半島に広く分布していた。
その朝鮮半島の百済、新羅、高句麗、この古代最も進んだ地域の人が、飛鳥に渡来人として移り住んだと言う。
 故郷の景色に近い飛鳥に、棲みついた。
石の加工技術、当時の最先端技術を持った渡来人の子孫が時を経て、戦国時代代表的な石積み工法の
穴生衆(あのうしゅう)となっている。

 飛鳥川は今は、ちょろちょろの川だが、当時はもう少し水流があった。
飛鳥川の護岸工事にも、携わったのかもしれない。

 斉明天皇の治世7年間に彼女は、飛鳥を大改造する。
日本書紀は、女帝を批判しているが、まあ実際やったから記事として残っているんだろう。

 女帝、都大改造の他に、蝦夷や九州へ遠戦もする。
蝦夷へ実際行ったのは、将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)だが。
 しかし、九州へは自ら行った。天皇自ら九州へ、百済に味方して、百済×新羅の戦に赴いたのである。
 都作りと、戦に明け暮れた御世であった。
こんな天皇、珍しい。しかも女帝。ドラマになるじゃん。

 で、彼女、国際感覚も抜群。
都にはたくさん渡来人が集まって来て、飛鳥は国際都市として栄えた。
 都作りに、石加工の上手い渡来人が活躍したに違いない。

蘇我馬子あたりから始まった国際交流、当時の先進地域朝鮮半島を介して来る技術集団は、文字数字が分かり、それまでの技術集団よりもレベルが高かった。

 
 明日香に、亀型石槽施設と言うものがある。
亀の洗面器みたいな不思議な遺跡である。
硬い花崗岩で出来ており、しかも丸く掘るには高い技術が要る。
朝鮮系の技術者がいたのではないか。
 
 斉明天皇の建築した石垣は、水の離宮ため?宗教のため?と言う説もあるが、規模がかなりのものだ。
 斉明天皇、要塞でも築くつもりだったんとちゃうんか。軍事施設のようである。
 戦争も悪い意味での、国際交流である。
宗教も軍事も根幹は似ている。
 古朝鮮で戦争を経験した人たちが、防御の意味で造ったのか?

斉明天皇、都造営、軍事費、資金はどこから得たか?
彼女は天智天皇と天武天皇の母で、娘婿は実弟の孝徳天皇がいる。
孝徳天皇の御世に税システムをがっちり作り、税収を確保していた。

 斉明天皇は、2度天皇の位に着いた天皇である。(一度目の名前は皇極天皇)
661年、百済復興の戦に備えていた朝倉宮(北九州)で、崩御した。御年68歳。

【2010.09.11 Saturday 18:51】 author : いづな薫 
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牽牛子塚古墳けんごしづかこふん、「斉明陵」強まる

奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん、7世紀後半)が、この時代の御陵の特徴である、8角形を確認し、
斉明天皇陵である可能性が強いと発表された。

斉明天皇(594〜661)とは、天智天皇、天武天皇の母で、飛鳥時代絶大な権力を握り、巨石の土木工事をいくつも成し遂げ、百済滅亡に立ち会った天皇である。
 日本書紀には、斉明天皇の「飛鳥の石垣工事」の記載が残る。
後飛鳥岡本宮(のちのあすかのをかもとみや)の東の山に、石上山から石を舟200で運んだとある。
 
 7〜8世紀の八角形墳は、天武・持統陵(明日村)など天皇級の古墳の特徴である。
 墳丘は高さ4.5mで3段構成と推定され、底辺部分が135度で曲がり8角形を構成している。
石の土木工事を好んだ斉明墓とされる陵墓、は対辺は22m、周りのじゃり部分を入れると32mに及ぶ。
 墳丘の石室は、幅5m、奥行き3.5m高さ2.5m、側面は安山岩で囲まれている。

 以前の石室内調査で、遺体を収める部屋が2つあり、合葬墳だったことが判明している。
 日本書紀には、斉明天皇と娘の間人皇女が合葬されたと記述がある。
間人皇女と同じ年代の歯や、玉が出土している。
 棺の一部と見られる破片は、漆と布を交互に塗り固めて作る、最高級の「夾紵棺(きょうちょかん)」であった。

この古墳の西2.5kmの場所に、車木(くるまぎ)ケンノウ古墳と言うのがあり、宮内庁は斉明天皇陵に指定している。
 墓誌など決定的証拠が出ない限り、このままで行くそうだ。
いや、陵墓だと思ったら違った。違うと思ったら天皇のお墓だった。
こんなの結構あるけれど、案外そのまま。笑

 斉明陵だとされる牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)からは、非常に重要なデータが出ている。
 より良い保存も、為されていくであろう。
目が覚めるほどの、興味を覚えた。

余談だが、NHKさん、斉明天皇+息子2人でドラマ作ってくれんかの〜。来年崩御後1350年だし。笑

【2010.09.10 Friday 13:03】 author : いづな薫 
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三国志ミステリー 覇王・曹操の墓は語る!
曹操の墓発見の大ニュースが、飛び込んできたのは、昨年暮れ。
その後、別人じゃないか、いや曹操だ、の論争の後、今年1月中旬、曹操のお墓だと中国の研究機関が正式発表していた。

 「三国志ミステリー 覇王・曹操の墓は語る!」と言う番組の録画を見た。
今回の番組、写真でなく、映像で墓を見られたのは興味深い。
番組では、曹操に断定していたが、本当に被葬者は曹操なのだろうか?
 解説役の素敵な先生に、ぜひ、ご見解を伺ってみたいものである。

曹操の墓?発見の経緯はこうである。
まだ誰の墓とも言えない数年前、墓泥棒が入り、宝物が盗まれる。
泥棒は捕まった。
盗掘品を没収した所、その中に「魏武王」と刻まれた石版があった。
魏武王とは、曹操のことである。

墓の500mの所に、魯潜(ろせん)と言う人物の墓から墓誌が出た。
墓誌:被葬者の生前の記録を書いて、墓に納める物。
墓誌には、「墓は魏の武帝稜の西北43歩の所にあって・・・」と刻まれていた。
曹操は、生前「印」を墓に入れないよう遺言していた。
政敵によって、墓が暴かれないようにするためである。

紹介されていた墓の内部は、6室に分かれている。



墓の主と思われる骨は、本来棺があるべき後室ではなく、前室にしかも散乱した状態で見つかった。
 墓の上部から墓内部に、縦坑(穴)が開けられている。盗掘時、遺骨を散らばされたか。
番組概略は、以上である。

墓前室に転がっていた、56歳以上の男性の頭骨は、あの曹操なのか?
頭痛持ちで、名医華陀(かだ)に治療させると楽になったと言う、あのなのか?
 華陀(かだ)はその後、曹操によって殺害されている。

50代の女性とは、卞(ベン)王妃なのか、違うのか?
彼女は、魏朝の初代皇帝曹丕(そうひ)の母親である。
曹操の時代の皇帝は、後漢の献帝(けんてい)。曹操は後漢の丞相(総理大臣みたいなもの)。

 中国の身分の高い人のお墓には、墓誌が納められている。
いつ生まれたか、親が誰だとか、人生の記録が事細かに書かれている。
日本も少ないが、たまにある。太安万侶の墓にも短い文の墓誌があった。

曹操の場合、その墓誌が見つかっていない。
墓の中からの盗掘品、石版に書かれた「魏武王」(曹操)は没後の”おくり名”の可能性がある。
もう少し、決定的な物証発見を待ちたい所である。

 と言うのも、三国志の曹操の墓となれば、多大な経済効果が見込まれる。
曹操墓の盛り上がりで、経済活性のため「劉備の墓も発掘しよう!」、と言う意見が出る国なのだ。
 明代(1368−1644年)〜清代(1644−1912年)の墓から、スイス製と刻む腕時計型指輪?が出て来たこともある。
ちなみにスイス製腕時計が中国に来たのは、数十年前。
 考古学ではないが、自然緑化運動で、林業局が山をペンキで緑に塗ったこともある。
 気を遣って言えば、日本とは価値観の全く違う国である。笑

 話を曹操に戻す。
曹操は、三国志演技では悪役に書かれるが、史実はそうでもない。
黄巾の乱で離散した農民を集め食料や住む所を取り戻させ生活を安定に導いている。
北方の烏桓(うかん)民族、鮮卑(せんぴ)族を征服して、民が安全に暮らせるようにした。
 真の曹操の生涯が分かれば、ことの外興味深い。
今月12日に再発掘したらしいが、どうしただろうか。発掘法がまた心配な国である。

【2010.06.24 Thursday 11:00】 author : いづな薫 
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奈良時代、日本人は牛豚を食べていた。
奈良時代、日本人も牛豚を食用していたことが、寄生虫の卵発見で科学的に裏付けられたと言う。

 平城宮の便槽の遺構から、土壌化した人糞に付着した寄生虫の卵が、籌木(ちゅうぎ)と共に見つかった。
(便槽の遺構:人糞を埋めたと見られる7つの穴・直径50〜70cm、深さ20〜80cm)

籌木(ちゅうぎ)とはなんぞや?

うちのブログでも紹介したことがあるが(どんなブログだ)、トイレットペーパーの代用品である。
http://cafe.kenshingen.fem.jp/?eid=1357236 
 薄い木のへら状で、大をしたあとお尻を拭くのである。
古代から中世、いや地域によっては近代まで使われていた。
 国宝「餓鬼草子」と言う、平安時代の絵巻物が 東京国立博物館にある。
この絵の中に、高下駄を履いて大便をしている人物がいるが、この人が籌木(ちゅうぎ)を手にしている。  
 出した”モノ”をいただこうとする餓鬼がとなりで待ち構えていて、グロテスクでユーモラスな絵である。

 で、今回出土したのは、平城宮の官庁が集中していた一角である。
木簡から推測するに、天皇や宮を警護する「衛府」と言う役所があった所らしい。
  
 676年天武天皇の時代に、「肉食禁止の詔」と言うのが出ている。
牛、馬、犬、鶏、猿を食べてはならぬと言っている。涅槃経の教えが影響している。

牛は農作業に役立つし、馬は人を乗せたり荷物運搬が出来るし、犬は猟犬番犬になる。
鶏は朝起してくれるし、猿は人に似ているから食べない。
が、これは4〜9月の農繁期間の禁止で、禁止事項に該当していない、猪(豚)、鹿その他は食べていたと思われる。

 日本書紀には、朝廷に献上する猪(豚)を飼う人たちの猪飼部(いかいべ)の住居地名や、職業名・猪使連(いつかいのむらじ)なんてのも出て来る。

以前、牛豚肉の寄生虫卵は、福岡の鴻臚館(こうろかん・8世紀)のトイレ跡でも見つかっていたが、外国人接待のための迎賓館であるため、外国人が食肉したと考えられていた。
 今回の、平城宮「衛府」址での発見で、日本の役人も豚や牛を食べていたことが証明されたのである。

1300年前の日本の食生活を知らせてくれるとは、寄生虫は偉い。
 そういや、さゆりちゃんと言う名前をつけて、ご自分のおなかの中で寄生虫を飼う学者さんがいらっしゃいましたね。笑

ランチタイムの話題じゃないですね、どーもすみません。笑

【2010.06.18 Friday 11:43】 author : いづな薫 
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卑弥呼の剣?
卑弥呼の剣だったかもよ?、東大寺山古墳(奈良県天理市)出土の剣を見て参りました。
東京国立博物館、6月6日までです。
剣の峰の部分に、金象嵌で24字の文字があります。
非接触の非破壊検査(蛍光X線)で、調べた所、象嵌された文字は、混じりけは極めて少ないほぼ純金の値を示しています。
当時、日本では純金製造は極めて難しいです。

名称は、花形環頭飾金象嵌銘太刀(はながたかんとうかざりきんぞうがんめいたち)です。

刀身86.4cm、幅2.2〜2.9cm、なかご(柄が被さる部分)15.5cm、環頭部163.5g、刀身部458.5g、総重量622g。
目釘孔(刀を柄に固定する穴)は、2つ。

文字を追ってみます。□部分は、不明な箇所。

中平□□ (中平は、西暦184〜189年)


五月丙午造作


□□ 百錬清 ‐縢羸院、□□□□


中平は、西暦184〜189年に当たり、銘文の年代と剣の製作年代が一致するなら、後漢・霊帝の頃に当たります。
三国志のチョイ前です。
□文字を推測し読み下すと、中平に五月丙午に、文刀(銘文入り刀)を入念に精錬し造った。の意味。

銘文は、隷書体。中国・秦時代(紀元前778〜206)、既に公文書に使われていた字体です。
成分分析では、剣はX線調査の結果鉄製分がほとんど失われ、年代測定は出来ませんでした。

柄の頭の部分に、4世紀製造の、花形で青銅製の環頭部が付けられています。
←環頭部

2世紀に剣を造り、花形環頭部を4世紀に作り取り付け、東大寺山古墳に埋納されたと考えられます。
東アジアで、別個に造った環頭部を取り付けた例は中国や朝鮮半島あたりでもありますが、
2世紀も間が開いたのは極めて珍しいです。

卑弥呼が女王になったのが、180年頃とされます。
彼女が、中国から権力のシンボルとしてこの剣を譲り受け、東大寺山古墳の被葬者に与えたものと推測できます。
現在、重要文化財。


さてもう一振り、古代の刀をご紹介。
熊本の江田船山古墳から明治6年に出土した、銀象嵌の剣です。
剣は、中国・魏(曹操の国)の頃の製造。
長さ91cm、幅4cm、なかご(柄が被さる部分)6cm、重さ1975g。
目釘孔(刀を柄に固定する穴)は、3つ。

銀象嵌で描かれた、お魚と鳥と馬がすごく可愛いでしょう?
このデザインに、見惚れました。


こちらも峰に、小さい文字が刻まれています。75文字確認できます。
冒頭、□□□□で始まる、銀象嵌文字の意味に興味を引かれる。


 見えない□の文字は、「獲加多支歯」であろうと言われています。
獲加多支歯なら、古代の大王(おおきみ)ワカタケル雄略天皇を意味します。
 素材の鉄、銀の産地は、現代の非破壊検査技術では限界があり不明。技術向上を求む。絵の意味も、不明。
 現在、国宝。

【2010.05.25 Tuesday 19:19】 author : いづな薫 
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キトラ古墳
現在、奈良県でキトラ古墳壁画が公開されている。

 キトラって何?

 キトラは直径14mの円墳で、キトラの名前の由来は以下が考えられている。
近所の土地の名前「北浦」がなまった。
または盗掘穴から、亀(キ)虎(トラ)の絵が見えたから。
本当の所は、まだ不明。

九州、茨城、福島に装飾古墳はあるが、中国伝来の四神(朱雀、白虎、青竜、玄武)を描く古墳は、
キトラと高松塚だけである。 
昭和47年、高松塚古墳が発見され、その11年後キトラ古墳が発見されている。
 
 1998年、ファイバースコープの調査で、青竜、白虎、天文図、日像、月像が発見される。
2001年、天文図の星は、金箔張りと判明。
2001年には、デジタルカメラの調査で、朱雀が発見される。
2002年には、十二支の寅と見られる、獣の頭で体が人間の像が発見される。
 
 キトラは、前述のごとく中世に盗掘に入られ、南側の壁が壊された。
南側に描かれた朱雀が破損しているのではと思われたが、絵は破壊されておらず、朱雀も無事確認されている。

さてキトラは、中国文化の影響を強く受けている。
中国は、前漢以前にも、四神図がある。
(前漢とは、2200年ほど前、始皇帝の秦滅亡後、項羽との争いに勝った劉邦が建てた国である。
虞美人草の由来となった、虞美人は項羽のガールフレンド。)

高句麗にも百済にも、天文図がある。特に、高句麗は天体、四神を描くのが得意である。
新羅には、十二支があった。
7世紀後半、これらの文化と絵画技術が日本に伝わり、描かれたと考えられる。
 710年に出された、養老律令(奈良時代の法律と命令)に、当時、描線担当のスケッチ職人と、
指定された色を塗る、彩色職人がいたことが記されている。
5番は紅色とか、7番は8番は黄色などと指定するのである。

 ちなみに被葬者は、熟年男性、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)とかなんちゃら皇子とか推測されるが、不明。
 あべのみうし、もしかしたら、安倍清明のご先祖様かも?なんて言われている。

 絵の特徴をちょいと述べると、唐の玄宗皇帝(楊貴妃の夫)のお兄さんに、李憲と言う人物がいて、この人のお墓に朱雀が描かれている。
 大陸の朱雀は、飛びそうな勢いがある。
しかし、日本の朱雀は、1万円札のキジみたいに見える。

 なぜ、墓内に絵を描くか?
これは好みらしい。古代墓の1割程度に絵がある。
何で、描き始めたかもわからない。
 今でも、カラフルな骨壷を買う方がいらっしゃるが、趣味の問題か。笑
とある人が生前に買って、おせんべいなどお菓子箱として使っているのを見た。

 中国は身分の高い人のお墓には、墓誌が埋葬されている。
親とか生まれた年、人生の記録が克明に記されるのである。
日本では、あまりない。
 太安万呂(おおのやすまろ・古事記編纂者)とか、行基(渡来系僧)はあったが。

日本の古墳壁画は、中国、高句麗、新羅の特徴で、好みのものを選択しているようだ。

 やがて日本は、火葬の時代を迎える。
 火葬になった最初の日本人は、持統天皇である。702年没。
これより先に、日本で火葬になった道昭(どうしょう)は、渡来人である。
 仏教思想伝来で、土に帰すのが流行り始めたのかも知れない。

火葬になると、墓室は不要になり、壁画の時代も終わるのである。

注:道昭(どうしょう)の師匠は、あの三蔵法師、弟子は行基と言う、超セレブ?なお坊さん。
師匠と一緒にいた、河童とブタと猿を見たか?

【2010.05.17 Monday 21:11】 author : いづな薫 
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「大仏開眼」後編 感想
ドラマに出て来た、優婆塞(うばそく)とは、出家しないで、仏教に帰依して五戒を守り修行する男性のことである。
女性は優婆夷(うばい)。ともに、サンスクリット語。

ちなみに五戒とは、殺生禁止、泥棒禁止、不倫禁止、うそつき禁止、お酒禁止、の5つ。

行基、弟子の優婆塞(うばそく)750人を聖武天皇により僧にしてもらえて、大仏建立に参加。

朝廷はかつて、行基を「小僧」(つまらぬ僧)と呼び、当時の法律・大宝律令の違反者としていた。
しかし、大仏建立にあたり、行基信者の労働力、渡来系の進んだ土木技術の力を借りねばならなくなったのである。

さて、感想です。
玄掘怪しくていいな〜。
安積(あさか)親王暗殺の場面は、迫力ありましたね。血まみれの親王に掴まれる玄掘⊆われそう〜。
玄靴砲蓮怪異の匂いが付きまとう。
彼の政敵の藤原広継が、大宰府で死んだ後の話である。
大宰府の観世音寺の落成供養の日に、広継の怨霊が空から降りて来て玄靴鬚気蕕ぁ後日、
玄靴亮鵑奈良の興福寺に降って来るという、ぞくぞくするような話がある。ふふ。

 元はと言えば、仲麻呂がけしかけたんだが、手を下した玄靴鮑E戮話臻穗い葬り去る。

 謀略に次ぐ謀略で、このあたりは実に面白い。謀略と怪異はこの時代の魅力か。笑
仲麻呂が、悪くて魅力的で、敵役として際立っています。
あのひらりとしたマントが、またかっこいい。
 言葉一つ一つが”はかりごと”、不遜な態度、三国志の曹操みたいじゃ。

 仲麻呂に、遣唐使にやられたり大宰府に左遷されるマキビー。
「何度でも戻って来てやる、誰も討たなければ自分があなたを討つ。」
マキビーは柔和で優しい人物だが、やるときゃやるぜ、のところがかっこいいです。
 孝謙天皇とマキビーの恋?また、せつないの〜。
孝謙天皇とマキビー、身分低く生まれれば恋も成就したかもしれないが、互いの立場に生きる二人が良かった。
 
 後半特に、バタバタとあらすじになっていたが、2回しかやらないのでは、如何ともしがたい。
 古代史は、長丁場の大河じゃ難しいのか?

 大仏開眼で目を入れたインドの僧・菩提僊那(ぼだいせんな)とか、唐で吉備真備が阿倍仲麻呂と再会するとか(ドラマでは会ってもおらん)、鑑真とか、やって欲しい〜。

ひらめきプチ情報2つ
大仏開眼の目を描いた筆が、奈良正倉院に現存してます。でかいです、長さ65.2cm 。
菩提僊那(ぼだいせんな)没後1250年法要を、5日前くらいに東大寺でやっていました。

【2010.04.10 Saturday 22:51】 author : いづな薫 
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行基の偉業と骨壷
ドラマ「大仏開眼」にも出て来た、行基さんの偉業と骨壷について語る。

行基(668年〜749年2月23日)
百済系渡来人の子孫で、高志(こし)と言う一族に生まれる。
行基の出身地は、現在の大阪府堺市だが、高志(こし)と言えば、越(こし)。
越は、古くは高志と表記された。
行基のお父さんは、越の国(越後)から移住してきた一族らしい。
こっここにも越後ハート 笑

行基さん、何をした人か?
重機もない古代に、橋、寺、ため池、用水路、無料宿泊所を、驚異的な速さで作り
社会に貢献した偉い人である。
行基の教えに賛同した千とも万とも言う人達が、労働力となり、渡来人系の一族が持つ進んだ土木技術で、工事は急ピッチで進んだと言う。
本来、政治の力で為すべき事業を、盛んに行っているのである。
  
 日本各地には現在も彼の発見した「温泉」があり、行基が民と作った「ため池」は現在も使われている。
  行基に集まる民衆、高度な土木技術が、聖武天皇の目に留まり、行基は奈良大仏建立に協力することになるのである。
 聖武天皇は、行基に大僧正の位を授ける。

 さて、行基発見とされる温泉を幾つかあげる。
草津温泉(群馬)作並温泉(宮城)渋温泉、湯田中温泉・鹿教湯かけゆ温泉・野沢温泉(長野)
東山温泉・芦ノ牧温泉(福島)、山代温泉(石川)etc
いづなもこれらの温泉行っているので、行基さんには感謝しなければならん温泉温泉

 行基の骨壷について、興味深い話がある。
古代人で、確実に墓が分かっている人は多くない。
しかし、行基は確実に分かっている。
奈良県生駒市有里町竹林寺の、行基の墓から、鎌倉時代に銅製の骨壷が出土している。
壺の表面には、文字が書かれ、行基の物だと判明している。
 戦国時代荒らされたりして、現在骨壷は一部のみ残る。
奈良国立博物館が、保管している。
 
 行基82歳で入寂(逝去)、長く偉業を為し続けた、生きた菩薩である。 
事実、菩薩の称号を贈られている。

【2010.04.09 Friday 22:04】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、サッカー日本代表、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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