大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 八重の桜 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
八重の桜感想「会津の決意」
 「薪を背負って火に飛び込むが如し
会津藩主松平容保が京都守護職を受けた時、国家老である西郷頼母(たのも)が言った言葉である。

桜田門外の変では大老井伊直弼が暗殺され、京都でも尊皇攘夷派による襲撃、暗殺事件が多発している。
横浜では、オランダ人が殺害されている。
各地で暗殺事件が起こり、治安悪化が著しかった。
幕府は権威の失墜を、公武合体で避けようとするのである。
公武合体とは、朝廷と一体化することにより幕府の権威回復をはかろうとするものである。
まず、将軍家茂と皇女和宮の婚姻を進め、新しい役職である将軍後見職に一橋慶喜、政治総裁職に松平春嶽が就任する。
そして、京都の治安維持を守る京都守護職に会津の松平容保を推すのである。

松平容保ははじめ、京都守護職を固辞した。
襲撃、暗殺事件の多発する京都に行けば、戦乱に巻き込まれる。
大勢の会津藩士を、旅費滞在費持ちで連れて行くことになり、莫大な出費を伴う。
当時、民は重税にあえぎどこも藩財政は苦しく、会津藩も火の車である。
冒頭に書いた、西郷頼母の 「薪を背負って火に飛び込むが如し」の言葉は、以上のような状況から発せられた。
頼母は京都守護職就任に反対し、後には新政府軍との徹底抗戦に反対し、政治的立場を悪くして行く。
先見性があり、会津の利益を心底から考えた頼母であったが、自身も会津を追われ家族一族21名は自刃と言う悲劇に見舞われる。

ドラマで執拗に越前藩主松平春嶽が、松平容保を説得していた。
公武合体が成るかならないかは、容保が京都守護職を受けるか否かにかかっている。
会津藩の祖「土津霊神・保科正之」は、”将軍家に二心を抱けば私の子孫ではない”。と書き残した。
養子殿様・容保は、これでトドメを刺されてしまった。

一方、”二心殿”のニックネームを持つのが一橋慶喜である。
彼は徳川一門に生まれながらとらわれず、大局を読み、薩長相手に高等戦術を展開していく。

老獪な感じを受けたが、春嶽も立場変えれば大変英邁な君主である。
一介の浪人、坂本龍馬に5千両もの大金を貸してくれた傑物である。5千両とは、春嶽の越前藩の年間予算に匹敵する金額である。
松平容保が京都守護職を辞めたあと、この任に就くのは春嶽である。
一橋慶喜の強い要請を受け、春嶽が就任の条件に出したのは外様大名である薩摩など「雄藩諸侯の政治参加」である。
これは、松平春嶽の持論であった。
それまでは、政治は幕府が独裁的に行ってきたため、この意見は権威失墜を恐れる幕府中枢の大変な反感をかう。

慶喜は雄藩諸侯と表面上協調姿勢を取りながら、薩摩が朝廷での会議で中心にならないように工作を行っていた。
京都で勢力を張っている薩摩藩の力をそごうと言う思惑があり、協調ムードのために松平春嶽を守護職に就けるのである。
慶喜は倒れ行く幕府のトップとして、片時も油断せず難しい駆け引きを次々に成功させる。
しかしそれは、自らの足元を崩す幕府終焉への道のりであった。

以前、京都の黒谷・金戒光明寺から真如堂の間にある会津藩殉難者墓地にお参りしたことがある。
容保が守護職に任命された文久二年(1862)から、鳥羽伏見の戦いまでに命を落とした会津藩士352名が
今も眠っている。

【2013.02.11 Monday 15:28】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(0) | trackbacks(0)|
八重の桜感想「松蔭の遺言」
 吉田松陰は安政6年(1859)10月27日に処刑されたが、その2日前の11月25日から26日に自身の門下生たちに
「留魂録」を書き残している。
「留魂録」とは、松蔭が愛弟子たちに宛てた遺書にあたるものである。

16節からなるその文章には、「松蔭が至誠を尽くし、幕府の役人を説得しようとしたが、上手くいかなかったこと、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を襲撃しようとしたことを自ら告げ投獄されたこと。」などを記している。
間部詮勝暗殺計画を幕府は知っていると思ったが、まったく知らなかったとも述べている。
取調べは粗略であり、松蔭が1854年ペリー来航時アメリカに密航しようとした際の下田での取り調べとは
雲泥の差があると書く。
自己を省みて、恥じ入ることはなく、自分の評価は死後下されるであろうと述べている。

松蔭は処刑された時、数えで30歳である。
「留魂録」は松蔭と同時期同所に投獄されていた沼崎吉五郎に託される。
沼崎は、三宅島に遠島になり明治になって釈放された。
明治9年、沼崎は神奈川県令(知事)野村靖が長州出身と知り「留魂録」を手渡した。
松蔭が沼崎に託して、17年の歳月が流れていたのである。

松陰は密航失敗後、長州・萩の実家の庭で松下村塾を開く。
塾で、教鞭を取ったのはわずか2年余である。
松蔭は教育者であり、また革命家でもあった。
彼の門下生たちには、高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、山縣有朋など幕末維新の原動力となったそうそうたる
メンバーがいる。
長州藩は江戸初期領国を大幅に減らされて以来、倒幕を藩是(はんぜ、藩の大方の政策方向性)に掲げて来た。
それを成功させたのは、松蔭の門下生たちであり、松蔭の思想は脈々と受け継がれて行ったと言える。
松蔭の思想とは、いかに国家存亡の危機から国を守ることができるか、独立性を保持できるか考えていたことである。
彼は、尊皇攘夷論(外国を打ち払えということ)を繰り返し唱えながらも、朝廷が海外に目を開くことを促している。
開国し貿易を行うことは、国家の基礎となるものであり、鎖国は弊害を生むと指摘している。
松蔭は、開国派でなぜ攘夷論者なのか理由を明らかにしていない。
しかし、幕府が外国を恐れるあまり侮辱にあっても平身低頭し、国政を省みない有様から、表面的に松蔭が攘夷を主張したとも取れる。
松蔭が恐れていたことは、外国がその優位な軍事力の威を借り一方的に有利な条件で開国を迫り、幕府がそれを飲んでしまうことである。
実際、明治に入ってから、日本の外交担当者は不平等条約改正に多大な苦労を強いられることになる。
松蔭が明治期の外交や条約改正がどのように執り行われて行くかは具体的に考えていなかっただろう。
しかし、漠然とした不安を感じ予見はしていたかもしれない。

松蔭の信念とは、「義を正し、道を明らかにし、功利を謀らない」と言うものである。
山口県(長州)出身の現代政治家が、松蔭の遺訓を唱え国政を語るが、乖離はなはだしく思うのである。

【2013.02.07 Thursday 15:34】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(2) | trackbacks(0)|
八重の桜感想「妖霊星」
彦根藩主・井伊直弼の屋敷にいた白くて太い猫は、ひこにゃん?
大河はデティールに凝り、遊びの演出が面白い。

彦根藩と猫にはいわれがある。
彦根藩2代藩主井伊直孝が江戸で鷹狩りの帰り、古びた小さなお寺の前を通った。
猫が手招きするので寺に入り、和尚の話を聞いていると急な雨と今来た道に落雷があった。
井伊直孝は猫の手招きのおかげで難を逃れることができたと言うお話。
直孝は、お礼に寺再建を約束し立派なお寺が建った。
直孝の戒名のうちの2字をいただき豪徳寺と名乗ったのである。
こうして、豪徳寺は招き猫発祥の地となった。豪徳寺では特にこの猫を「招福猫児・まねぎねこ」と呼ぶ。
彦根城のひこにゃんは、この猫がモデルである。

昨日の八重の桜、一ツ橋慶喜が適役。篤姫の時も良かったが、今回も合っている。
ドラマにもあった、将軍後継者問題について語る。
篤姫の夫、13代将軍徳川家定は、病弱(脳性麻痺か)で継嗣がない。
で、次の将軍の候補にあがったのが、一橋慶喜と紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)である。
一橋慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の7男として生まれている。
周知の通り後の15代将軍で、大変英邁な人物で大政奉還を成した。

英邁、年齢、人望を考えて一橋慶喜を推挙していたのは、島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城らである。
そこへ井伊大老がごり押ししたのが、紀州の徳川慶福。
徳川宗家に血が最も近いと言った血統主義から選ばれ、”利発”であるなしは関係なしとされた。
理由は他にもある。
内外に革新的政治を執ろうとする一橋派は敵も多かった。
その反対派の頭目が、井伊大老である。
政務に実力を発揮する慶喜が将軍になれば、家定は隠居、慶喜の実父水戸徳川斉昭が公家や朝廷をも動かし強力な政権を作ることは免れない。
表向きだけでなく、大奥の権力者たちにも斉昭は大いに嫌われていたのである。

徳川家の伝統を守り大変な保守派の井伊直弼にしてみれば、西南雄藩の外様大名や譜代、幕臣の改革派が公家に働きかけ、慶喜が如何に利発であろうと将軍に画策すること自体、許せないことであった。
天敵である水戸斉昭を制し、井伊大老の推した徳川慶福が14代将軍になった。
徳川家茂であり、就任時わずか13歳。

井伊直弼の生まれた彦根藩井伊家は、5人もの大老を出した家柄である。
徳川家康の時代には、京都守護職を務め、徳川家安泰と発展のために代々尽くして来た。
直弼にしてみれば、血筋が何より大事である。
そして、将軍が無能でも幕臣たちが政治を行えば良く、幕府はそれが可能なシステムとして完成していた。
ただし、平和な時代であれば。

井伊の行った安政の大獄は、幕末維新激動の始まりとなった。
桜田門外で暗殺され、井伊直弼は自らの死をもってあがない歴史を前に進めることになる。

【2013.01.28 Monday 16:36】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(0) | trackbacks(0)|
八重の桜感想「蹴散らして前へ」
八重の1番目の夫、川崎尚之助が会津にやって来た。
明治の歴史家、思想家徳富蘇峰の著書「近世日本国民史」に「川崎尚之助の妻八重子は山本覚馬の妹なり」と出て来る。
初代長崎市長で会津藩家老の息子である、北原雅長の「七年史」にも同様の文が出ている。
川崎尚之助は但馬出石(いずし)藩医の息子で、蘭学や舎密術(せいみつじゅつ、理化学)を学んだ若い学者だった。
会津に来た時、20歳くらいか。
会津では山本家に世話になり、やがて覚馬が開設する会津藩蘭学所の教授となる。
八重と尚之助が結婚するのは1865年頃で、3年後ふたりは会津戦争の鶴ヶ城籠城戦前に離婚する。離婚理由は不明。

八重の兄・覚馬は、江戸で新しい学問を修め、会津で蘭学所設置と兵制改革しようとして反対される。
蘭学は異国の学問であり、保守派の間では好まれない。
当時江戸では、黒船来航で大騒ぎである。
大砲を積載し、黒塗り鋼鉄の軍艦が風もないのに前に進む。
幕府は、急遽、西洋砲術訓令(西洋砲術の訓練をせよ)を出している。
西洋文明に驚かされ、幕府も諸藩も対応に奔走していた。
当時蘭学と言うのは、翻訳が重要な学問内容であり蘭学者の仕事である。
山本覚馬は、江戸の芝浜松町に会った大木塾に通い、そこで西洋式銃の製造、弾丸製造を翻訳をするうちに、知識を得たのだろう。
大木塾の蘭学者は大木仲益(ちゅうえき)と言い、上杉家の米沢藩出身の学者である。

覚馬の言う兵制改革は、今までの槍や刀中心の軍備を洋式銃と大砲中心に変えようと言う物である。
会津藩にあるのは、火縄銃である。
西南雄藩は既に西洋式軍制に着目し、洋式銃を買い入れているのに、会津藩では鉄砲は弓矢に劣る武器とする考え方が主流であった。
八重が、父権八から習ったのも火縄銃である。
そこへ、兄覚馬が江戸遊学からゲベール銃、ミニエー銃などを持ち帰る。

ゲベール、ミニエー銃はフランスで開発された銃である。
ゲベールはドイツ語で銃のこと(オランダ語もか)、ミニエーは開発者ミニエー歩兵大尉の名前から命名されている。
幕府の砲術専門家だった高島秋帆(たかしましゅうはん)が、天保年間に輸入し、幕府が大量に使用している。
そして、英人商人グラバーが薩摩名義で輸入し、坂本龍馬の亀山社中が長州に輸送した銃である。

このミニエー銃は、日本史を変えた銃である。
この銃を以って、長州藩1000人の軍は、幕府軍2万に勝ったのである。
ゲベールは丸い弾丸で、銃口内に螺旋(らせん)が無い。
ミニエーには、椎の実型弾丸に、銃口内に螺旋(らせん)を刻み飛距離は2倍、命中率も高い。

そして八重が会津戦争で使ったスペンサー銃は、アメリカの南北戦争(1861年)で北軍の騎兵が主に使用したものである。
アメリカ式元込め7連発、当時は物頭(足軽大将)以上のみ所持が許された。
ちなみに当時の価格は以下である。スペンサー銃がいかに高価かがわかる。
ゲベール銃    約4両
ミニエー銃    約18両
スペンサー銃   約28両2分

ps.大河感想は、フィクションの多い回はお休みするかもしれません。歴史的観点から見ることに関心があります。
現代政治が大変なことになっているので、そちらの思考に時間を割きたいとも考えます。

【2013.01.23 Wednesday 19:55】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(2) | trackbacks(0)|
八重の桜感想「やむにやまれぬ心」
13歳の時、「四斗俵を四回も肩から上げ下げしました。」と八重は後年語っている。
四斗俵とは、明治時代末以降は60kgに規定された。
しかし、1俵は時代によって重さに差がある。
史料に出て来る最初の記述は、平安時代の延喜式(法律集)で「米五斗為俵」(五斗で一俵とする)とある。
換算すると、30kgである。
江戸時代の俵は、二〜三斗で、籾殻つきの米が入っていたので20kgほどだった。
13歳の八重が持ち上げた俵は、20kgと言うことになる。
会津は、食事も衣類も質素を旨として来た。
飽食の現代人に比べれば当時の人は小柄だが、粗食こそが高い身体能力を作ると言う話がある。
八重は、体力に自信のある女性だったのだろう。

佐久間象山の塾で、豚を逃がして大騒ぎを起こした子供がいる。
新島七五三太(にいじましめた)、後の新島襄(じょう)、八重の2番目の夫である。
上州安中藩士新島民治(たみはる)の長男である。
民治は、安中藩江戸藩邸で祐筆(書記、事務官)を勤めた人物である。
国許をほとんど知らない江戸育ち江戸勤務でいわゆる都会派、新島襄はこうした人に育まれたのである。
新島襄は、日本人として初めて学士を取得した人物である。
幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)で、数学、航海学を学び、尊王攘夷派でも開国派でもなく、1864年幕藩体制の続く
日本からまんまと脱出を成功させた。
留学中に幕府は崩壊し、岩倉使節団訪米の時通訳を努める。新政府のために働かないかと言われたが、拒否。
ほとんど外国人のような新島襄が日本に帰国したのは、渡航の約10年後である。

吉田松陰は、新島襄より10年早い1854年、ペリー艦隊に小船で近付きアメリカに渡ろうとしたが、拒否される。
松陰も新島襄も、幕末維新を大きく動かした教育者である。
松陰は、投獄され、郷里長州萩に帰り実家の杉家敷地内の納屋を増改築して松下村塾を開いた。
そこで、維新の原動力となった高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らが育つのである。
松陰は刑死するが、薫陶を授けた愛弟子たちはやがて、八重たち会津藩と戦うことになる。

PS.八重の兄覚馬が会津に帰国した1856年、殿の松平容保は数えで21歳、家老の西郷頼母(たのも)は27歳。
殿と頼母は6歳違い。頼母も実は若い。笑

【2013.01.15 Tuesday 15:18】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(0) | trackbacks(0)|
「八重の桜」感想 ならぬことはならぬ
さて記念すべき1回目の感想参ります。
来た来た、什の掟(じゅうのおきて)。
会津藩指定の集団活動で「什・じゅう」と言うものがある。
6〜9歳までの藩士の子供は町内ごとに「什」と言う集団に編成されていた。
つまりはこれが遊び仲間グループになる。
1番年上の9歳の子供を什長として、身分家柄を問わず活動する。
子供たちにグループ運営は任されているのである。
その集団の掟が「什の掟・じゅうのおきて」である。

1、年長者の言うことにそむいてはなりませぬ。
2、年長者にはお辞儀をせねばなりませぬ。
3、虚言を言ってはなりませぬ。
4、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
5、弱い者をいじめてはなりませぬ。
6、戸外でものを食べてはなりませぬ。
7、戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。

これを毎日9歳の什長が読み、他の師弟が頭を垂れて聞き入る。
最後に什長が「ならぬことはならぬものです。」とダメ押しする。
 現代人の私には息が詰まる・・・笑。やはり上杉家御家訓の方がいい。

什で6〜9歳まで武士としての下地教育を済ませると、日進館に入学する。
日進館は、敷地面積7200坪、建物面積4000坪の広大な物である。
上士以上の師弟は全員が入学を義務付けられた。
小学校高学年から大学までの教育を、一貫して行うようなものである。
学費は免除、日本最初の給食もあった。大学とある日の給食は、おにぎり、汁、漬
物、時々秋鮭。
履修科目は28科目。飛び級OK。

しかも、会津藩士が行く所には、この日進館の分校があった。
江戸和田倉門内会津藩上屋敷には成章館(せいしょうかん)芝の中屋敷には考興館(こうこうかん)、相州観音崎には養成館(ようせいかん)、相州三崎には集義館(しゅうぎかん)房総にも蝦夷地にも。
藩士が移動する所に藩校を作ったのである。

藩士のうち長男は30歳前後まで、次男は21歳くらいまで藩校での研究が許された。
武芸はもとより、砲術、天文、蘭学、神道、皇学、数学、医学(小児科、痘瘡科、本草科、外科、本道科)などがあった。
水練水馬池(プール)もある。
ここでは甲冑を着けたまま泳ぐ向井流泳法と、激流を乗馬したまま泳ぐ法を教えた。

藩校で特に成績の良い者は、江戸の昌平坂学問所に遊学が許される。
ドラマであったが、日進館に吉田松陰や宮部鼎蔵(池田屋事件で遭難した熊本藩士)、そして佐久間象山も見学に訪れている。

八重の生まれた会津とは、以上のような環境にあった。(什も日進館も男子のみだが)
凄惨を極めた会津戦争では、自身も7連発の新式銃を持って戦う。
そして夫・新島襄が亡くなった直後、日本赤十字社の篤志看護婦として日清、日露戦争の負傷者を看護する。
八重の人生は、戦争と共にある。
会津戦争で、官軍の大山巌(おおやまいわお)を狙撃したのは彼女だと言われている。
後に、大山巌の妻になる山川捨松も会津で育つ。
1回目のドラマで「追鳥狩(おいとりがり)」シーンに、捨松の母が子供たち(八重がいーってやった相手)と少し出ていた。

八重は戊辰戦争後英語を学び、米国帰りの新島襄と2度目の結婚をする。
開国、戊辰戦争、めまぐるしく動く変革期が縁のなかった人同士を結び付けて行く面白さを楽しみたいと思う。

【2013.01.08 Tuesday 21:21】 author : いづな薫 
| 八重の桜 | comments(4) | trackbacks(0)|
過去のページへ

戦国カフェオリジナルグッズショップです。 戦国カフェオリジナルグッズショップへ
    いづなへメール

 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

   当サイトは、コピー、転載、ダウンロード、直リンク、持ち出しは禁止です。
◆ 著作権はすべて、
いづな薫に属します。
 過去のページへ


   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村。
   ランキングはお休み中