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since 2007.5.21 軍師官兵衛 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
軍師官兵衛「中国大返し」
秀吉&官兵衛が、光秀に勝利したのは、勝つための手立てを用意周到に準備したからである。
備中高松城にいた秀吉軍25000のうち、5000は移動途中姫路に残し、全行程210kmほどわずか7日で駆け抜けると言うのが中国大返しである。
驚異的なスピードである。
ちなみ箱根駅伝往復216kmは10人リレーで走る。

しかも秀吉軍は、走った後に戦をするのである。
昔の人の身体能力はすごい。
粗食の方が、身体能力が高いと言うのはうなずける。
兵士は走って行くだけだが(これも大変)、秀吉や官兵衛は勝つための手立てを絶えず実行している。
光秀にはこれがない。
秀吉らは、金と米をすべて、兵に分け与え士気を高め、無傷で畿内まで全軍を召還させている。
この作戦が、摂津の高山右近らを味方に付けることに優位に働いた。

秀吉が、信長の旧臣たちに参陣を呼びかけている文書が1通だけ残っている。
宛先は、摂津の中川清秀。
中川は、高山右近らとともに、摂津の領主で、位置的に秀吉と明智の間にこの時いる。
つまり、秀吉にしてみればどうしても味方にしたい相手である。
しかも、実はこれ「偽書」である。
信長の遺骸が見つからないことを良いことに、「信長公父子は難を逃れ健在、共に明智を討とう!」と書いている。
信長が生きているのと死んでいるのとでは、判断も違って来る。
生きていれば、求心力は失われず、明智へ厳罰も確実である。
事実、中川は秀吉に組した。
中川、荒木村重失脚の時も信長側に寝返り、今度もちゃっかり秀吉側にいる。

官兵衛も抜かりない。
小早川隆景から借りた、毛利の20本の旗を兵庫辺りから先頭に掲げ始める。
黒田家譜によると、毛利家が秀吉軍に味方したことを示すためだったと言う。
この時、秀吉が官兵衛を褒めてこう言ったと家譜にはある。訳してのせる。
「若い者たちよ、これを見て学ぶが良い。 戦は謀にて勝つものである。敵を斬り、首を取るのは匹夫の働きにて、誰でも出来る。官兵衛の謀は凡人の及ぶ所ではない。このような手立てを誠の大功と言うのだ。」

秀吉陣中にいた、占い僧について。
官兵衛が参謀的軍師に対し、彼は呪術的軍師とも言える存在である。
この時代、出陣日を占い戦勝を願い加持祈祷をしたりする。
従軍僧は、医師でもあり負傷者を救護したり死ねば経をあげる。
その僧が、「明日出陣すれば2度と帰れない悪日に当たる。」と言う。
士気が落ちるを恐れた秀吉は、これを逆手に利用する。

「2度と帰れないなら、むしろ吉日。
信長公のため討ち死にする覚悟は出来ている。
再び帰ろうなんて思ってはいない。
天下人になったら、どこでも好きな所に城作っちゃうし。
だからもう、この城には帰らない吉日!」

当時の人は、まだ迷信の世界に生きている。
僧侶の言うことは信用に値するが、秀吉は機転を効かせた。得意の人身掌握術である。

6月6日に備中高松城を発って、13日には畿内の天王山にて開戦。
光秀軍は、安土城や長浜城にも守備兵を当てており、且つ形勢不利と見た厭離者も出て、だいぶ目減りしていた。
天王山東麓にいた、官兵衛、中川清秀、神子田正治に、光秀軍の先鋒部隊が攻撃を仕掛けたが、光秀が頼りにした斉藤利三(春日局実父)が戦死した。
これを機に光秀軍は瓦解した。

感想
サル(秀吉)が猿の屏風の前で、諸将への手紙を用意しているのが面白い。

【2014.07.29 Tuesday 08:36】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「天下の秘策」
 パレスチナ、集団的自衛権など、現代政治がすごくて、官兵衛がかすんでしまいそうだが、少し書く。

天正10年6月4日、正午過ぎ、高松城主・清水宗治が、城前の水面に舟を浮かべ切腹。
この時の場所と様子を、史料のある範囲で書いたので、よろしければこちらをご覧下さい。

毛利は講和交渉の際、人質として小早川秀包(ひでかね・毛利元就の子)と桂広繁を、秀吉は森高政を出している。
この交渉時、近くの猿掛城(岡山県)に毛利輝元が来ていたので輝元も叔父の吉川元春、小早川隆景同様、その場で承諾したかもしれない。

そして、毛利が信長の死を知ったのは、清水宗治自刃の直後である。
吉川元春は、怒り「信長がいないなら、講和はないも同じ。破棄して秀吉を討つ。」と主張した。
小早川隆景は、「誓紙の墨が乾かぬうちに、反故になどできぬ。」
結局毛利は、小早川の言う通りに軍を引く。
家族構成解説:吉川元春は毛利元就の2男、小早川隆景は3男、毛利輝元は元就の孫(父の隆元はすでに他界)。

当時の毛利家は、実質、吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊が動かしている。
中でも知将の誉れ高い小早川隆景は、のちに秀吉から70万石をあずかり、養子に秀吉ねねの甥(ねねの兄の子)をもらいうけ、秀秋としている。
これが、関が原の時の小早川秀秋。

ドラマで出て来た、毛利から旗を借りる話は、後で兵庫付近を通過する時、毛利が味方についたと見せかけるため使われる。

吉川、小早川の軍が引き始めたのが、清水宗治の死の翌日6月5日。
同日午後2時、秀吉の撤退命令が下る。
秀吉の高松城包囲軍は2万5千は、秀吉の家臣もいたが信長から付けられた軍勢が多い
それらが、信長の家臣も含めて、今や秀吉の配下のような形になった。
この大軍勢を、どうやって光秀のいる畿内へ返すか。

兵糧は、信長軍がさらに 備中に下る予定であったので各地に用意してあり、それを利用して帰れば良い。
しかし、ライバルより先に帰らねば意味がない。

ライバルたちは何をしていたかと言うと、
織田家中第一の実力者・柴田勝家は越中富山で上杉勢と交戦中、滝川一益は上州(前橋 市)で交戦中。
丹羽長秀と信長の3男信孝は攝津(大阪)にいたが、信長の死を知り兵が逃走してしまった。
有力武将の徳川家康は、堺で遊んでいたが、伊賀越えで三河に命からがら逃げ帰った。
誰しも仇を討ち、天下を取る状況ではなく、結果的に絶好の機会を掴んだのは秀吉であった

光秀が当てにした、親友で娘の舅でもある細川藤孝が出家してしまい光秀の旗色は悪くなる。
秀吉と光秀の間にいた摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近らも秀吉の援軍に加わった。

全行程200km、最高移動距離・日に55km、驚異的なスピードの強行軍の始まりである。

【2014.07.22 Tuesday 16:33】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「本能寺の変」
 今回、滋賀県知事選の結果を見ようと、官兵衛の画面の上部をじっと見ていた。
なかなか出ないので、はからずドラマをじっくり見てしまった。笑

気になったのが、本能寺の変を伝える密書。
既成作品では、光秀が毛利に宛てたものを使者が間違えて秀吉陣所に持参、なんて言う笑い話のような作品もあったように覚えている。
つまりは、よくわかっていない。

黒田家に伝わる黒田家譜によると、織田信長側近の長谷川宗仁から秀吉に密書があったらしい。
簡単に訳してみる。
「(1582)6月3日夜11時〜1時に、京都にいた信長の家臣・長谷川宗仁より飛脚が来て、孝高(官兵衛)に面会し、昨日2日京都において、信長公、信忠卿を明智日向守が殺してしまったことを、ひそかに書状を渡した。」
宛名は、秀吉であり、官兵衛が先に見ることはないはずである。
明智光秀は、当然毛利に同盟を求めたと推測できるので、信長の死を知らせる密書は他にもあったであろう。
北陸地方で、織田家臣の柴田勝家と覇権を争っていた上杉景勝に書状を書き、提携を呼びかける動きがあったことが分かって来ている。

秀吉が、長谷川宗仁のを1通見たのか、他の密偵のも見たのかは不明である。
密書は、策略としても使われるので、偽手紙であることをまず疑う。
しかし、差出人は信長側近の長谷川宗仁 。
しかも、飛脚は雇い飛脚ではなく、宗仁の家臣であった可能性が強い。

呆然自失となった秀吉を励ましたのが、黒田官兵衛。
黒田家譜では、嘆き悲しみ泣く秀吉に
「信長公のことは言葉を失います。ご愁傷もっとも至極です。しかし、今、あなたが天下人になるチャンスです!」

深夜にも係わらず、官兵衛は安国寺恵瓊を呼び講和交渉を開始する。
しかし、交渉内容も史実はよく分かっていない。
ドラマでは、信長が死んだことを安国寺恵瓊に明かしていたが、後の吉川元春と小早川隆景の記録からも、これはない。
すでに、以前より領土境界交渉は進んでおり、夜分にもかかわらず話し合うのが不自然でない所まで進んでいたと見るべきである。
急に夜呼びつけ、毛利に有利な条件を提示したら、毛利は勘付く。

毛利が信長の死を知ったのは、高松城城主清水宗治の切腹の後である。

【2014.07.15 Tuesday 20:01】 author : いづな薫 
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備中高松城跡 
備中高松城跡(岡山県)に訪ねたので書きたい。
備中高松駅前にある地図、位置関係が分かりやすい。




足守川をせき止めた堤防は、高さ7m底辺24m、堤防の上の幅は10mほど。
そのうち一部高さ3mほどが残っている。
高松城周囲を水没させた面積は、東京ドーム40個分。
まさに、驚天動地の奇策である。



天正10年6月4日、高松城城主清水宗治は、毛利、秀吉軍7万の見守る中、切腹して果てた。享年46。
水攻めにより、湖の様になった高松城周囲の湖面に舟を浮かべた上だった。
秀吉は、清水宗治を「古今武将の明鑑」として称えている。

清水宗治の首塚は、近くの石井山の上にあったが参拝者多く、明治42年高松城跡内に祀っている。
明治42年の発掘時、首甕(くびがめ)には歯3本、短刀3片、土師器の杯が見つかっている。
コンクリート製の室を造り、首塚内に再び埋葬している。
ちなみに胴塚は、近隣住宅地にある。
清水宗治のなきがらは、舟で本丸に戻り、首は秀吉のもとへ送られた。
胴は宗治の家臣らに手厚く葬られた。これが胴塚。
舟の上で介錯した国府市佑は、主君の墓穴の上で自ら首を切り、そのまま落ちこんで自刃した。


自刃の地の建つ供養塔。当時水没していたが、三の丸妙玄寺の庭先。



宗治の家臣らが、後を追って刺し違え殉死した地。


現在の備中高松城跡地、史跡公園になっている。

清水宗治は、大勢の家臣の命と引き換えに自らの命を絶った。
彼は、400年余り前の政治家である。
国民の生命財産を犠牲にし、利権を手にする現代政治家とはえらい違いである。
利よりも義を重んじる清水宗治、同じ仕えるでも毛利ではなく、我がお屋形さまだったら良かったのに。

刀のお話をひとつ。
「名刀、名将を好む」と言う言葉がある、
名刀は、良き武将の鞘(さや)に収まる。
岡山県立博物館で、清水宗治が吉備津神社(岡山県岡山市)に奉納した宝刀を見た。
4m近い巨大な刀で、良くこの大きさの刀が鍛錬できたものだと感嘆した。
数々の名刀工を生んだ備前(現・岡山県)だが、それを所持した清水宗治も相当な名将であったことを伺わせる。

清水宗治の次男は、父の死後秀吉から仕官を誘われたが断り、毛利家に重臣として仕えた。
その子孫は明治期、男爵に序せられている。

【2014.07.13 Sunday 11:33】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「高松城水攻め」
高松城水攻めの川のせき止め工事は、天正10年(1582)5月8日からわずか19日間で完成した。
備中と備前を分ける足守川をせき止めるもので、下流で幅20m高さ7m、長さ2.8kmの大土木工事であった。
寸法、期間に関しては、史料により諸説あり。

ドラマの主人公である黒田官兵衛の発案で描かれたが、秀吉家臣には蜂須賀正勝、前野康長など
川並衆たちのアイディアと見た方が妥当である。
川並衆とは、現・愛知県の木曽川沿いに勢力を張り、川の土木工事に長けた土豪である。

世界で、歴史上水攻めを行った戦いが5つある。
海外は、オランダと中国、日本は備中高松城、武蔵忍城と紀伊太田城の3つで、成功したのは高松城のみである。
自然の地形と梅雨が功を奏した。
大雨が降らなくても、水がたまりやすい地形である。

旧暦5月はちょうど梅雨時であり、連日の降雨により瞬く間に高松城は湖面の浮城になった。
水田や川などの、水面からわずか4mの高さに建つ城である。

後詰軍の小早川隆景も、この水攻めはいかんともしがたく、毛利・小早川の使僧(外交官)である安国寺恵瓊と
黒田官兵衛との和平交渉が開始される。
和平の条件を秀吉か、毛利どちらが先に提示したかは不明である。
毛利方という説では、毛利の領地である備中、備後、美作、因幡、伯耆を割譲を提示したが、
秀吉は清水宗治の切腹を突きつけて来た。と言うもの。
秀吉方から先に条件提示した説では、備中、美作、伯耆と清水宗治切腹と言うもの。
いずれにしても、毛利方は清水宗治の切腹を拒絶した。

交渉はもめにもめ、まとまらない。
難航する秀吉のもとへ、天正10年6月3日夜とんでもない知らせが届いた。

前日2日早朝、主君信長が本能寺で横死、したと言う。

【2014.07.08 Tuesday 11:11】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「長政初陣」
備中と備前の国境線に、「境目七城」と呼ばれるものがあった。
・宮路山城
・冠山城
高松城
・鴨城
・日幡(ひばた)山城
・庭妹(にわせ)城
・松島城

今の、岡山県を流れる足守川の流れに沿って7つの城はあった。
この足守川と言うのが、備中高松城水攻めの際せき止められた川である。
上記、3つ目にあるのがその高松城である。

しかも、高松城の近くには重要幹線道である山陽道が走っている。
まっさきに秀吉軍の攻撃にさらされるのが、この備中高松城であることを毛利側も読んでいる。
高松城城主清水宗治だけでなく、近隣の常山城の城主中島元行を援軍に行かせている。

秀吉は、まず官兵衛と蜂須賀正勝に清水宗治を調略させた。
備中・備後をやるから、織田につけと。

忠義と武功で毛利から信頼の厚い、高松城城主・清水宗治は一蹴。
宮路山城城主・野見七郎も調略失敗。
日幡城城主・上原元将は官兵衛らの工作に乗り、城を開城した。

官兵衛らは、開城しない残りの城を武力で攻め落とすことにする。
次々と城を落とし、残ったのが高松城である。

これが一筋縄で行かなかった。

城は、海抜が低い低湿地に建つ平城である。
沼や水田と城の比高はわずか4mしかなく、馬や兵士が進軍しにくい天然の要害である。

秀吉軍が攻めて来ると、ぬかるみに足を取られた所を、城から鉄砲で狙い撃ちされた。
かなりの犠牲者が出したと思われる。

官兵衛らは、攻めにくい低湿地を逆手に取り水攻め作戦に出るのである。

私も、今年岡山県にあるその備中高松跡に行って来た。
奇しくもその日も雨。
そのときの様子を書きたいが、現在繁忙期+出張中のためそのうちまた。

次、快川和尚。
甲斐国、恵林寺の高僧で武田信玄の葬儀も勤めた。
和尚の一句、「心頭滅却すれば火もまた涼し」の額が今も恵林寺の重要文化財の三門にかけられている。
(”三門”は、仏殿前にあって仏殿を法空・涅槃とし、そこへ入る入口の三解脱つまり
空門、無相門、無願門の三解脱門を略したもの。)

信長は、宿敵六角氏が潜伏庇護する恵林寺に対し引渡しを命じる。
しかし、恵林寺側は拒否。
怒った信長は、三門に快川和尚ら100人を閉じ込め火を放った。
壮絶な最期を遂げた、快川紹喜和尚の一句である。
快川和尚、伊達政宗の師・虎哉宗乙(こさい そういつ)の師である。
恵林寺は信長に焼かれた後、家康の寄進により再建されている。

官兵衛に二男・熊之助が生まれているが、この子、朝鮮に攻め込む慶長の役の時に、母里太兵衛の子らと共に溺死してしまう。
しかも、戦闘ではない。
父の官兵衛に城で留守居役をしているように命じられたのに、父や兄の後を追いかけたのか、船を仕立てて朝鮮に向かい嵐に遭い水死している。
黒田熊之助、わずか16歳である。

【2014.06.30 Monday 09:13】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「帰ってきた軍師」
 三木城落城あっさり終わってしまったが、実は3年ごし20ヶ月にも及ぶ戦いである。
竹中半兵衛は途中で没し、官兵衛は有岡城の牢に捕らわれた。
秀吉は、2人の参謀を欠いた状態で播磨攻めを強いられたのである。
  
官兵衛が係わる戦と言うのは、三木城の干し殺し、鳥取城の渇え殺し、備中高松城の水攻めななど敵にとっては惨憺たる戦法である。
秀吉軍が、はじめ高松城を攻めた時、低湿地帯にある高松城のまわりのぬかるみに兵士が足をとられ城から狙い撃ちされ多く被害を出した。
そこで味方の被害を最小限にするため編み出されたのが、水攻めである。
だがどのような形態であっても、戦は悲惨極まりない。

三木城開城時の、惨状を書き記した記録がある。
筆者は前野長康と言う人物である。秀吉の家臣で、のちに豊臣秀次に仕え秀次切腹時に同じく自害している。
その記録を現代語訳してみる。
「城中の士卒は幽鬼の様である。草の根、木の根を食べたため、城中に草はない。
顔色を見れば肉は落ち、声は衰え、何か聞いても答えることはなく、体にぼろきれまとい、具足はちぎれ、杖を頼りにそろそろと出て来た。
あるいは、這って出て来る者もあった。
これも武者であろうか。
意地も料簡もなく三々五々連れ立ち落ちて行った。」

官兵衛は、主君小寺政職が出奔したのであるじからもらった”小寺”姓をこの頃使うのをやめている。
本来の、”黒田”に戻しているのである。
いつそうしたかは不明だが、天正7年(1579)末に有岡城の牢から出て来て、現存する天正8年(1580)7月24日の秀吉宛書状には”黒田”と記している。

三木城の、別所長治が自害したのが天正8年(1580)1月17日である。
播磨が、信長の手に落ちたのである。
秀吉は、信長から播磨と但馬の2ヶ国を与えられている。
蜂須賀正勝には5万3千石(3万5千とも)、冒頭の三木城の記録を書いた前野長康は3万2千石(3万1千)を与えられ三木城も与えられた。
浅野長政に2万石、官兵衛にも1万石が与えられ晴れて大名の仲間入りをしたのである。

さて、出奔した小寺政職について。
各地を転々とした後、天正10年備後鞆の浦(広島県福山市)で天正10年(1582)に亡くなっている。
本能寺と同じ年である。
嫡子氏職が遺されたが、これを引き取り育てたのがなんと官兵衛である。子孫も代々福岡藩士となった。
黒田家に残る『黒田家譜』には、「恩をもって仇を報ずとはかかることなるべし」とある。
主君に裏切られたのに、どこまでも義理堅い官兵衛である。

感想。
古文書や本だけでなく、大河ですら見て思うのが、集団的自衛権行使容認なんて絶対やめるべきである。
実際の戦争は娯楽ではない。
後方支援などと言ってもそこは戦場、物資運ぶ人員を攻撃するのは当たり前である。
官兵衛たちの戦国時代と違い、現代の兵器は無人爆撃機で大量殺戮をする。
米国が金のために引き起こす戦争に、日本が自腹参加して血を流すなんて狂っているとしか思えない。

明けて深夜1:00、W杯ドイツ・ポルトガルがあります。
見たいけれど1:00は無理・・・。眠い頭では仕事の精度が落ちるので録画しまする。

【2014.06.16 Monday 19:55】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「有岡、最後の日」「半兵衛の遺言」
 出張やら、重要会議などで先週は怒涛の一週間だったので、2回まとめて官兵衛のお話をする。
 
まずは、名前すら出ていない有岡城の牢番”加藤重徳"(かとうしげのり)について。
ドラマでは描いていないが、敵方でありながら官兵衛に親切だった人である。
世間から隔絶され、狭い牢の中に己の排泄桶とあるような生活を送れば肉体ばかりか精神に異常を来たす。
精神崩壊の危機にあった官兵衛を救ったのは、牢番加藤と官兵衛の家臣井口吉次の姉であったのは想像に難くない。
この様子を前回も記述したので、ご覧になりたい方はこちらへ。

官兵衛は加藤重徳の数々の温情に報いるため、彼の子供(次男)を預かる。
ドラマ中、加藤は有岡城の戦いで倒れていたようだったが?
加藤重徳、もとは摂津の名族・伊丹氏と同族である。
荒木村重に仕え有岡城落城の時、次男を官兵衛に預け長男と共に姿を消した。
後に小西行長に仕えたと言う。小西行長は関が原の戦いで敗れ小西家は断絶。
浪人した後、次男のいる黒田家に迎えられている。
官兵衛は、加藤の次男に備前景光の短刀を与え、わが子として育て黒田姓を名乗らせる。
名は、黒田一成(かずしげ)となった。
官兵衛の興味深い所は、武家社会にあって血にこだわらない所である。
血がつながらない子供でも、わが子として育て黒田家繁栄につなげている。
後に黒田長政(松寿丸)が福岡藩拝領の後には、三奈木に居城を構え16000石を有している。
 
官兵衛死後のお話だが、「黒田騒動」が起きこれに黒田一成が関係しているので書く。
官兵衛の死後約30年、福岡藩2代藩主黒田忠之と言う人物がいる。
これが官兵衛の孫なのに、暴君で、重臣と軋轢を起こし奢侈を好むどうしようもない奴。
藩主忠之は、重臣・栗山大全(善助の子)と藩政をめぐり対立し、栗山が幕府に「忠之謀反の疑いあり。」と訴え出た。
これが、黒田藩改易の危機を呼んだのである。
しかし、逆に栗山大全が「乱心した」とされ、黒田藩は改易をまぬがれる。これを「黒田騒動」と言う。
黒田一成(かずしげ)は、井上之房(九郎衛門)と共に、栗山大全とは反対側の立場に立った。
幕府の裁定で、栗山大善(善助の子)は陸奥盛岡藩お預かりとなる。
この時、栗山大全は、父・善助が主君官兵衛からもらった赤合子兜を抱えて、火縄銃に点火した状態で城下を出て行くのである。
このような経緯で、官兵衛の赤合子兜は今も盛岡にある。

 
黒田一成の黒田三奈木家は、藩内で唯一、大老職を明治になるまで勤め、明治には男爵に列せられた。
この、三奈木黒田家と本家黒田家の子孫に、近世屈指の名君上杉鷹山が生まれている。
黒田一成は、島原の乱平定にも参加する。
島原の乱、激戦の舞台となった原城内には小西行長の遺臣が多くいた。一成は、実父重徳のかつての同僚たちと
戦ったことになる。
一成の墓は、福岡市博多区の崇福寺と朝倉市三奈木の清岩寺(清岩禅寺)。
遺髪が2束残っている。
 
荒木村重の妻だしと一族について。
妻子と一族37名は、有岡城の戦いの後、磔(はりつけ)になり郎党500余名は焚殺されている。
ドラマ中、前代未聞の戦後処理だとしていたがそうではない。
叡山、伊勢長島では凄惨な大量殺戮を行っており、官兵衛の妻の姉が嫁いだ上月城の戦いなどでも磔、串刺しにし
見せしめに国境に並べるなど、信長のみならず秀吉もやっている。
国境に並べるのは、歯向かえばこうなるとの隣国への脅しである。

一方村重は、尼崎の花隈城で長男村次とともに戦い、天正8年(1580)3月7日落城。村重は毛利領内に落ち延びた。
晩年は、千利休の高弟にもなり天正14年(1586)5月4日死去。享年52。
1582年に、49歳で死んだ信長より長生き。
ドラマで、だしが赤ん坊を侍女に預けていたがこの子供は後の岩佐又兵衛だろう。
ただし、母親が”だし”と言う確証はなし。
「豊国祭礼図屏風」などで著名な、江戸時代の絵師である。
 
竹中半兵衛について。
説話が多く実像が見えにくい半兵衛だが、史実から見てみる。
色白で女性的な容姿であったと言う。
主君斉藤龍興(さいとうたつおき)を諌めるため、居城金華山(稲葉山)ををわずか十数人の手勢で乗っ取る。
この時、半兵衛21歳。
この城は、信長も落とせなかった城である。
しかも、主君を諌めるためだったので、獲った城は主君龍興に返してしまう。

一口メモ
金華山城、稲葉山城、岐阜城は同じ地に立つ城。
斉藤道三、義龍、龍興の3代のち、信長の城になり、岐阜城と改名されている。
”岐”は、古代中国の周の文王が”岐山”で天下統一したことにちなむ。
”阜”は孔子の生まれた「曲阜」の一字から。
岐阜城への改名は、信長の天下統一への意気込みが感じられる。

義の厚さ、斬新な戦略、半兵衛を獲得したいと思ったのが信長。
信長に美濃半国をやると言われたのに、あっさり蹴る半兵衛。
それを、三顧の礼の如く熱心に口説いたのが秀吉である。
三顧の礼どころか、半兵衛説得に3年もかかっている。
それまでにして、迎えた名参謀である。
なぜ、これほどまでに半兵衛が秀吉に望まれたか。
秀吉は、目標にばく進するエネルギーはあるが、何分農民出身のため武将としての知識が足りない。
秀吉に武将としての知識、政治、経済、手紙の書き方、マナーまで教えたのが竹中半兵衛であった。
秀吉にとって、半兵衛は参謀であり若き先生でもあったのだ。
 
天正七年(1579年)6月13日、竹中半兵衛は三木城攻めの最中陣中で没した。享年36。
三木城に程近い山中に墓が築かれ、長き間地元の方々に大切に守られ続けている。
もうすぐ、ご命日。合掌。
半兵衛が亡くなり、今年で435年である。

【2014.06.09 Monday 15:10】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「松寿丸の命」
今年行って来た、大坂府伊丹市にある有岡城跡をご紹介したい。
まずは、奥の土塁と井戸を含む有岡城跡の様子。


現存する土塁


石垣。


加工された石が石垣に再利用されている。


有岡城跡に残る井戸は2つ。


有岡城は、官兵衛が幽閉されてから織田信長が攻めるが、攻防に10ヶ月も要した城である。
畿内には珍しく、城壁の中に城も町も抱える総構えの城である。
堀を掘って土塁を積み上げ(これを惣構えと呼ぶ)、自給自足が出来、守りが堅い。
中国やヨーロッパの城にはこの形式が多くある。
信長軍は、総構えに阻まれ大動員しながらなかなか攻め落とせないでいた。
今、有岡城跡地の大部分は市街地になり、JR伊丹駅前に一部遺構が残っている。
1893年に鉄道が開通し(川辺馬車鉄道、現JR宝塚線・福知山線)、城郭の中心部が壊され、東側が削られている。
1975年から発掘調査が行われ、1979年に国史跡に指定された。
石垣は、現存する戦国時代の最古の遺構である。

官兵衛が、幽閉されていた土牢の場所は不明である。
大正時代になって、筑紫出身の金子堅太郎が『黒田所水伝』の中で「有岡城西北の隅 うしろに水深きため池 三方は竹やぶ」と記しているが、明確な根拠は無い。
金子堅太郎、『坂の上の雲』にも出て来る政治家・官僚である。

官兵衛入牢中、官兵衛に味方してくれる人が少なくとも2名いた。
ひとりは、牢番の加藤重徳、のちの黒田家筆頭家老の父になる人である。
そのいきさつを前回書いたので、よろしければこちらのページの文末にあるのでどうぞ。
もうひとりは、官兵衛の家臣で井口吉次(いぐちよしつぐ)の姉である。
井口吉次(いぐちよしつぐ)は、黒田二十四騎のひとりで、勇者しか許されない目立つ高貴な色とされた朱色の槍と具足を与えられた人である。
吉次(よしつぐ)姉弟の父は播磨国赤松氏の分系で、戦を嫌い、小寺氏のもとで農業をしていた。
吉次には、姉の他に兄もいて官兵衛に仕え戦死を遂げた。そして姉は有岡城に仕えた。
弟が弟なら、姉もつわもの。
吉次の姉は、敵方に仕えながら衣類洗濯など官兵衛の面倒を見てくれた。
すべて、牢番の加藤の目こぼしに寄ると言う。
加藤は、官兵衛家臣の栗山善助や母里太兵衛をも官兵衛に会わせている。
普通なら考えられない行動である。よほど腹のすわった人物だろうか。
荒木村重の家臣でありながら、官兵衛との深い交流が推測できる。

【2014.05.26 Monday 15:42】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「囚われの軍師」
NHKの籾井会長に対し辞任を求め、受信料不払いが激増している。
ところが、NHKは辞任どころか不払い件数把握をやめたそうだ。
把握しないので(もちろんしているだろうが)発表しない。
不払いに拍車がかかるのを避けようとのねらいと見える。
視聴者(国民)を舐めきっている。従うのは安倍政権のみと言うことだ。
不払いは激増している。この運動が継続されることを望む。



官兵衛が有岡城に幽閉された。
信長は、官兵衛の子で人質の松寿を殺せと命じる。たぶん次回。
これを、竹中半兵衛がかくまうのだが。
播磨がぞくぞく毛利に寝返る中、織田方で頑張っている家が黒田家である。
あるじ官兵衛は行方不明、嫡子松寿は人質に出されている。
殿様がいても、家臣が下克上で取って代わり、裏切るのが日常茶飯事の戦国時代である。
黒田家ほどの小規模領主だと、強者についていかないと存続は難しい。
その強者は、利用価値があれば利用し、なければ見捨てるのが常である。

そんな中、黒田家家臣団の結束の固さは特筆すべき物がある。
頭も人も良いけれど敵に捕まるトンマな官兵衛だからこそ、有能で仲間意識の強い家臣たちが彼を守り、助けたのだろう。
竹中半兵衛だったら捕まるようなことはしない。

重臣の栗山善助、井上九郎右衛門、母里太兵衛らの貴重な起請文が残っているので簡単に訳してみる。

起請文のこと

官兵衛様が思いがけず捕まり、本当に大変です。
このような時、当城においてはみんな覚悟がなくてもとにかく御本丸様に従います。
もしも嘘だったら、その人はいろんな神様の罰を受けます。神様の名前ずらずら〜。

天正六年(1578)
喜多村六兵衛尉 母里
十一月五日 勝吉(花押)
長田三助 衣笠久衛門
  助次(花押) 景(花押)
喜多村
  甚左衛門(花押)
藤岡
  甚兵衛(花押)
小川 
  与左衛門(花押)
上原 
  右助(花押)
宮田
  治兵衛(花押)
栗山
  善助(花押)
後藤
  右衛門(花押)        御本丸
母里太兵衛           まいる
  友(花押) 

起請文は誰に当てたか。官兵衛の父職隆か、妻光(てる)に宛てたと見るのが妥当である。

感想
官兵衛入牢中、親切にしてくれた牢番・加藤重徳は次回出るのだろうか。
創作で村重の妻だしが兵衛脱出作戦に加担するエピソードを入れているが、これはどうでもいい。
それより、牢番加藤に時間を割いて欲しい。
加藤重徳は、囚われの官兵衛に影響を与え、栗山、母里らが有岡城潜入した時手引きし、後の黒田家筆頭家老の父になる。
官兵衛は良くしてくれた加藤の恩に報いるため、その次男・一成(かずしげ)を預かりわが子同然に育て、黒田姓を継がせる。
三奈木黒田家の一代目となり、その子孫と本家黒田家の間に、なんと近世屈指の名君・上杉鷹山が生まれている。

【2014.05.19 Monday 13:36】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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