大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 篤姫 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
篤姫お墓公開。
 明日16日と、28、11月20、26日、篤姫のお墓公開するそうです。
東京上野・寛永寺奥、徳川家の墓所内にあります。
 夫家定と、仲良く並んでいます。
抽選でお参りできるのですが、いづなは外れました悲しい
篤姫のお墓だけでなく、15代将軍・徳川慶喜が維新の時2ヶ月間謹慎した、「葵の間」も公開だそうです。
こちらは、以前から抽選で公開してましたが、これも当たったことないんだよね。すごい倍率なんだろうな〜。
寛永寺隣り、谷中墓地の慶喜のお墓は、自由にお参りできます。
案内プレートも、建っているし。

篤姫のお墓は、東京国立博物館と上野中学校に近い寛永寺境内にあります。
しょうがないから、また壁の外からお参りして来るか。
外から合掌している妙なヤツがいたら、いづなかもしれません。笑

寛永寺の黒塗りの表門には、薩長と幕軍(彰義隊ら)が闘った、上野戦争の弾丸跡が残っています。
 門は、現在隣の輪王寺に移築されています。(国重要文化財)
先日触れた新撰組、原田佐之助も彰義隊に入ったんだっけね…。
この辺りで、戦ったのでしょうか。

左:扉が開いた所。             右:その扉に空いた弾痕。

 話変わって、いづな今週はそんなに仕事が忙しくないのですが、重大な決定をしなきゃいけない企画があります。
 週明けの昨日から悩み中。
 うーん、うーん、助けて篤姫様。 

【2008.10.15 Wednesday 20:29】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(10) | trackbacks(0)|
篤姫感想 「薩長同盟」
篤姫、ようやく、時代が動きだした感じです。
篤姫×和宮より、薩長同盟の方が面白いですな。
坂本龍馬を、いづなは謙信くらい愛していた時期がありました。
龍馬は、書きたいことが山盛りなので、また別の機会に。
 
 今日は、長州征伐と薩長同盟について触れる。

1864年7月の蛤御門の変で、御所に向かって発砲した罪を問われ、朝廷は幕府に長州を討てとの勅状を出す。
その8月、長州藩は、英、米、仏、オランダの連合艦隊に下関を砲撃され、窮地に陥る。これを下関事件と言う。

下関事件とは、そもそも何だったかを述べたい。
その前年1863年、長州藩は、攘夷が理由で下関を通過する英、米、仏、オランダの船を攻撃している。
攘夷の急先鋒である長州藩を叩き、スムーズに貿易したいこの4国が報復したのある。
長州は、4国に砲撃され、その力の差に、攘夷は無理だと悟る。
 こんな窮地にある所を、幕府に攻められたのでは、長州はたまらない。
長州藩内の攘夷派は勢いを失い、保守派が尊皇攘夷派の3家老を切腹させてしまう。
 藩主も幕府に恭順の意を表し、幕府もこれを受け入れた。
これが、2回あるうちの第1次長州征伐である。

 しかし、歴史は逆戻りしないのが常である。
長州藩内で、保守派がクーデターにより追い落とされ、倒幕派が実権を握った。
クーデターを成功させたのは、奇兵隊を率いた高杉晋作であった。
 高杉ら倒幕派は、西洋軍事学に明るい大村益次郎を登用し、西洋式の軍隊を整え始める。
 幕府は、1865年4月第2次長州征伐を決定するが、
兵庫港に英、米、仏、オランダの軍艦が通商条約の勅許を求めて、集結し、
思うように軍備が整えられなかった。
 
 幕府がもたついている隙に、歴史の歯車は回転速度を速める。
1866年1月、長州は、かつての敵・薩摩と倒幕のための密約を交わすことに成功したのである。
 密約名は、「薩長同盟」。
坂本龍馬により、倒幕を成功させた”奇跡の同盟”が、ここに締結された。
 この同盟がなかったら、明治維新はありえず、列強国の植民地になっていたといっても過言ではない。
 近代日本は、この同盟なくしては成立しない。
長州は、京都で薩摩に破れ、4国連合艦隊に破れ、家老3人が切腹と言う、まさに満身創痍であった。
 豊作だった長州米を薩摩に渡し、薩摩は武器を長州のために融通した。
そして、薩摩側から歩み寄ることにより、同盟は成ったと言う。
薩摩でも長州でもない、自由な立場の龍馬がいて、彼の策と仲介あってこそである。

 この頃の薩摩は薩英戦争後で、英国に傾倒し、英国に留学生を送り込むほどになっている。
その英国が、長州をも援助し始めたのである。
長州の軍備はたちまち優位になり、幕府を脅かす。
1866年7月、徳川家茂が死去し、朽壊する幕府に追い討ちをかけた。

 同年8月、幕府は第2次長州征伐を中止したのである。

【2008.10.12 Sunday 21:23】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(8) | trackbacks(0)|
池田屋事件後の新選組
新選組は池田屋事件が最盛期で、その後しばらく入隊者が増え、幕臣に取り立てられている。
しかし、新選組の活動時期は6年あまりにすぎない。
1867年、京都の伏見街道で局長近藤勇は、肩を銃撃され、翌年の鳥羽伏見の戦いでは陣頭指揮が取れなかった。
 幕臣になった新選組は次第に、崩壊して行く。
彼らは、大坂〜江戸を船で行き、甲府を目指した。
しかし勝沼で敗戦を喫し、近藤は江戸板橋(JR板橋駅近く)で斬首。
板橋は江戸へ入り口の一つであり、近藤は江戸に入ることが許されなかったのである。
首は、京に送られた。
近藤と別れた土方歳三は、東北〜函館へと転戦する。
東北を転戦中、従軍した医師医松本良順を、次の世に役立つ人材だとして土方は江戸に帰している。
散り逝く土方の、日本の未来を見据えた判断、カッコいいですな。
松本良順は元々幕府の御典医だが、新選組の治療もし、戊辰戦争では奥羽列藩同盟の軍医もしている。
近藤&土方、沖田総司ら皆、彼から治療を受けた。

ちなみに、奥羽列藩同盟、米沢の上杉家も参加している。
弱き者を助ける謙信の遺訓で、崩壊していく幕府を助けちゃったわけである。

 話を新選組に戻す。
土方は、攻め寄せて来た官軍に破れ、1869年5月、戦死。
共に闘った幕臣榎本武揚の兵800名と、函館に散っている。
最期の場所も埋葬の場所も、はっきりとは分からないと言う。

 出張で札幌に飛ぶ時、左側の窓から函館が見える。
地図通りの渡島半島のくっきりした線と、函館空港がわかる。
あの土地のどこかが、土方の終焉の地である。
取り引き先からいただいた、歳三ワインを見てふと思い出した。

【2008.10.10 Friday 19:54】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(8) | trackbacks(0)|
篤姫感想「息子の出陣」と、蛤御門の変
篤姫はエライですな、人を非難することを知らないです。
和宮母が篤姫に優しくなったと思ったら、もうすぐ死にそうですね。
小松の殺陣は、珍しいもの、見ましたなー笑。
一瞬、誰?と思ってしまいました。笑
坂本龍馬シーン、いづなスタパで見ました。6/26に見学日記があります。
琴花も見ました。こちらは6/27に少しだけあります。

今日はお話にもあった”蛤御門の変“について書きます。
8・18の政変と池田屋事件の後、長州は京都を追われます。
堺町御門の警備職を解任され、朝廷を守る職を失った長州は、武力で京都における地位を回復しようとしました。
長州は、王政復古(天皇中心の政治)の考えが盛んであり、京都を武力で奪還しようとする勢いが高まって行きます。
1864年7月19日、長州の来島又兵衛の隊は一度、蛤御門で会津軍を打ち破ります。
しかし駆け付けた薩摩軍に撃破され、総督来島は胸に銃弾を受け戦死。
ちなみに来島又兵衛の子孫には、作家の永井路子さんがいらっしゃいます。
(永井さんの旧姓は来島さん。)
同じ御所の中立売門で長州別動隊が筑前軍を破り、さらに蛤御門に進撃します。
そこにいた会津軍+援軍の薩摩軍と、長州軍は激突し、最大の激戦となりました。
蛤御門は、もともと新在家門(しんざいけもん)と言い、1708年宝永の大火の時、めったに開かないこの門が開いたので、この名がつきました。
篤姫でも最後に紹介していましたが、いづなも、“蛤御門の変”時の弾痕、見ましたよ。

PS.メールや拍手下さった皆様、どうもありがとうございます。
  残業中のいづなでした。

【2008.10.05 Sunday 22:02】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(2) | trackbacks(0)|
近代医学史 麻酔
数日前、何かの番組で華岡青洲のことを放送していた。
1804年、世界初全身麻酔がん手術をした医師である。
麻酔を使った過去の例には、中国三国志時代の華陀がいる。
しかし、その製法は伝わっていない。
華岡青洲は麻酔薬の開発にあたり、妻と母が実験台になっている。
ただ、感染症の知識もなく、難しい手術には相当無理がある。
医師の功績は立派だが、勇気があり偉いのは患者の方である。

それから65年後の1869年、倒幕の最大功労者に麻酔が施されようとしていた。
長州の軍事総司令官、大村益次郎である。
彼自身、もとは長州の片田舎の村医者である。
医者でオランダ語が読めたため、西洋の兵学書を翻訳し、当時最先端の軍事専門家にもなってしまった。
彼は倒幕に成功した後、刺客に命を狙われた。
足に受けた傷が悪化し、大坂の病院でオランダ人医師ボードウィンらの手術が行なわれている。
しかし、敗血症のため2ヶ月後死去した。
同時期同病院で、私たちのお馴染みの人が入院している。

薩摩藩家老、小松帯刀である。
彼は、足痛でボードウィンの治療を受けた。
しかし、思うように回復せず、ボードウィンは小松をヨーロッパまで治療のため連れて行こうとしたらしい。
小松の病名は諸説あるが、脚気、糖尿病、亡くなる間近の記録、肺病(結核)が残っている。

拍手やメールを下さる皆さま、どうもありがとう〜。
いづな、とっても感謝しています。


【2008.10.02 Thursday 12:46】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
篤姫感想「薩摩燃ゆ」
薩英戦争の薩摩側指揮官が、小松って言うのが笑えましたな。
だから、負けたのか〜。笑
あの方(篤姫)と約束したのに、薩摩を守れなかったと騒ぐ小松、好きです。
 まだまだ、おかつさんが好きなんだねぇ〜。

 今日はその薩英戦争その後について、語ります。
薩英戦争から4ヵ月後の、1863年11月小松帯刀は大久保を通じて、横浜のイギリス公使館に、被害者遺族に賠償金を払うと申し出ます。
今まで、賠償金2万5千ポンドを拒否していた薩摩が、一転して払うことにしたのです。
生麦事件でリチャードソンを殺害した犯人を、死刑にするという約束もしましたが、これは実行されていません。
 なぜなら、リチャードソンを斬ったのは、島津久光の意思が大いにかかわっていたと思われるからです。
 (当時、大名行列を横切れば斬られても仕方ない、のは日本のルールでした。)
 しかし、英国も犯人捕縛を、それ以上追求はしていません。
 薩英戦争で、生麦事件とは関係のない一般の薩摩人を死なせた上、賠償金も得、それ以上の要求は正当ではないとの判断です。
ちなみに、薩摩が払った2万5千ポンドは、幕府からの借用金で、薩摩が倒幕に成功した結果、返済はされていません。
踏み倒してます。笑
 薩摩は、英国と実戦を交えた事により、その科学技術の高さを初めて知ります。
 もはや攘夷論(外国を打ち払え)をしている場合ではない事を、悟ったのです。
 方針を180度転換し、薩摩は留学生を送ったり、その技術を学ぼうとします。
 
1865年薩摩藩は、国禁を犯し総勢19名もの留学生を英国に送り込みます。
 この、頭の柔らかさ、向学心の高さは特筆すべきものがあります。 
 随行員であった寺島宗則は、イギリス外相と交渉し、英国を薩摩寄りの政策転換に成功するのです。
 そして、イギリス公使パークスが薩摩に来て、久光と会い、
「薩英戦争の禍根を残さず、仲良くやっていきましょう。」との合意に至っています。
 パークスは初め薩摩嫌いで、久光との会見に至っては、薩摩藩家老・小松帯刀が大いに尽力しています。 
 まずは、薩摩の英国留学を援助した英商人グラバーに頼み、やはり好意的でなかったシーボルトを招待し、歓待。
それを聞いたパークスは、薩摩に行く事を決心します。  
 祝砲、イギリス海軍の市中行進、宴会と、驚くような親密ぶりだったと言われています。
 当時、世界ではイギリスとフランスが覇権を争っていました。
幕府にはフランスが付き、薩摩にはイギリスが付くのは、そんな理由もあったのです。 

【2008.09.28 Sunday 21:29】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
篤姫感想「友情と決別」 生麦事件
天璋院と帯刀の再会、じ〜んと来ましたな。
このふたりって、今後会うんでしょうか。
小松、一段と顔黒になっています。笑

さて、今日は、「生麦事件」について語ります。
この頃、尊王攘夷論は机上論ではなくなります。
開港により、外国人との交渉が増え、外国人居留地問題をめぐり、襲撃事件が目立ち始めるのです。
1862年8月21日、生麦(神奈川県)を島津久光の行列が差し掛かります。
そこへ、上海から横浜に避暑に来ていたイギリスの商人、リチャードソンら4人が、対向してやって来ます。
「下がれ」と声を荒げる、薩摩側。
次第に騒ぎになり、リチャードソンらが馬を引き返そうとした時、行列の中に入り込んでしまい、薩摩藩士が彼らを斬り付けます。
 リチャードソンは死亡、2名が重傷を負いました。
 ちなみに斬ったのは、奈良原喜左衛門、とどめを刺したのは有村俊斎。
有村は桜田門外の変で、井伊の首を獲った、有村次左衛門の長兄です。
 怒ったイギリスは、幕府と薩摩藩に、巨額の賠償金10万ポンド(百億円前後か?)と犯人引渡しを要求します。
 幕府は支払うが、薩摩藩は応じず、翌年薩英戦争になります。

 薩摩藩が起こした事件なのに、なぜ幕府が巨額賠償金支払いに応じたか?
幕府は、日本の政治を司る唯一の機関であり、それにはもちろん外交権も含まれます。
 薩摩が起こしたのだから、薩摩だけがイギリスと交渉し賠償金を払えば良い、と言えないのです。
 そうすれば、幕府にしかないはずの外交権を他の大名にも認めてしまいます。
 今日篤姫が、島津久光になぜ、「幕政に口を出すのか!?」と怒っていましたが、まさにこの問題なのです。
 幕府の権威を守るため、財政が傾いているにもかかわらず幕府が金を支払う羽目になりました。 

【2008.09.14 Sunday 22:04】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
篤姫感想 「薩摩か徳川か」
 篤姫、江戸城で四面楚歌、辛い立場ですね。
あくまで、徳川の人間として生きようとする篤姫の覚悟は壮絶です。
予告で和宮が、故郷は捨てられない、と言っていたようですが、ええそうですとも。
 どこに住んでも、故郷と家族は大事にしたいです。
大切な品々を燃やす篤姫に駆け寄る、家茂は天使に見えたぞ。笑
 
 寺田屋事件は、薩摩人同士が斬り合うと言う、何とも不運な事件です。
意見が違うだけで武力衝突していたら、命がいくつあっても足りないです。
 でも、死を恐れないように教育しないと、武士は成り立たないからね。
 慶喜、久々に明るい所に出てきましたね。
数年雨戸閉め、髭も剃らず謹慎していたわけですよ。 
 慶喜がその間何してたかは、7月30日のブログで解説しておりますので、よろしければご覧下さいませ。
 
雷夕方の雷雨、凄かったです。
皆様は、大丈夫でしたか?
雨が降ってきたのでガラス戸を締めようと思った途端、凄まじい豪雨が降りました。強風
 いづなの家は、ひさしが長く容易には雨が降り込まないんですが、今日は特別でした。
 開いていた窓近く、テーブル上の、謙信新聞が水浸し。
雨のヤツなんてことしくさる、折らないように大事に上越から持って来たのに!
 んなわけで、今、部屋の中が干した新聞だらけ。
足に引っ掛け破きそうで、怖いです。汗

【2008.09.07 Sunday 21:50】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
井伊直弼の墓碑銘
東京世田谷区に豪徳寺と言う寺がある。
NHKでも紹介した、井伊家の菩提寺である。
井伊直弼はここに、いかっている。
いづなも行ってみたが、3月3日に死んだはずの井伊直弼、墓には、 

 閏三月二十八日歿

と刻まれている。

大名の不慮の死は、お家断絶である。
大老が江戸城の前で殺されるという大事件に狼狽した幕府が、苦肉の策で病扱いにしたのである。
 井伊直弼は急病を発しその後、死んだとされ、墓に刻まれた命日は28日である。
 しかし井伊は、大勢の見物人の目の前で、斬殺されたのである。
その情報は、またたく間に江戸中に広まった。
 こうして形骸化した幕府の権威は、急速に失墜していくのである。
 
井伊直弼は、豪徳寺にいかっている。
彦根には、襲撃現場の血染めの雪が四斗樽4つに詰められ、運ばれた。
豪徳寺の近くには、松蔭神社があり、井伊によって斬首された吉田松陰の墓もある。

 水戸と彦根の争いは、まだ続く。
1864年天狗党の乱が起こると、彦根藩士は「旧主の敵討ち」と称し、降伏した水戸浪士352人を処刑してしまう。

 水戸と彦根が完全和解するのは、「変」から110年後の1970年を待たねばならない。
 数年前、いづなが彦根城のお堀近くに立っていた時のことである。
せんべいを取り出し食べようとしたら、遥か向こうから黒鳥が大急ぎで水を掻いて来て、よこせと言う。
 せんべいを美味そうに食べる鳥は、かつての敵・水戸から贈られた友好の使者であった。
 
                             いづな版、『桜田門外の変』 終

赤りんご 桜田門外の変、映画になります。平成22年の正月、全国公開の予定。

【2008.08.14 Thursday 06:05】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(8) | trackbacks(0)|
桜田門外の変 その3
いづなは桜田門外の変を知って以来、衝撃を受け続けて来た。
 事件現場になった江戸城桜田門にも、井伊屋敷跡にも、水戸そして滋賀県の彦根城にも何度も足を運んでいる。

周到に練られた井伊大老暗殺計画は、大勢の命と引き換えに成功した。
明治維新は、ここから始まったと言っていい。
井伊直弼は、その死によって世の中の役に立った。

実行部隊18人中16人は、傷つき自害し、または自訴し死罪になっている。
明治まで生きたのはたった、2名であった。

 以下、18名の列士のその後である。数字は年齢。

関鉄之介   37 郡奉行与力   潜伏後逮捕、1861年死罪。
稲田重蔵   47 町方同心    彦根藩士により斬殺される。
森五六郎   23 使番      負傷し自訴、死罪。
岡部三十郎  42 書院番組の子  1861年逮捕、死罪。
斎藤監物   39 神官      負傷し自訴、傷死

鯉渕要人   51 神官      負傷し、自害。
海後磋磯之介 33 神官      潜伏し明治36年(1903)没
増子金八   38 藩士弟     潜伏し明治14年(1881)没
杉山弥一郎  37 鉄砲師     負傷し自訴、死罪。
森山繁之介  26 属吏      負傷し自訴、死罪。

蓬田市五郎  28 町方同心    負傷し自訴、死罪。
大関和七郎  25 大番組     負傷し自訴、死罪。
広木松之介  23 評定所傭    潜伏し1862年逮捕、自害。
佐野竹之介  21 小姓      負傷し自訴、傷死
黒沢忠三郎  31 大番組     負傷し自訴、死罪。

山口辰之介  29 目付      負傷し、自害。   
広岡子之次郎 21 小普請組    負傷し自訴、死罪。 
有村次左衛門 23 薩摩藩士    負傷し、自害。

18名の実行部隊を援護した、暗殺起草者の金子孫二郎、高橋多一郎、連絡役だった有村の兄、そして指揮官・関鉄之介をかくまった芸妓まで、幕府は死に追いやった。

 一方、彦根藩にとっても、代償は高くついた。
彦根藩は、35万石から25万に削られる。
これだけなら、まだましである。
行列に従った60名ほどの彦根藩士は8人が死亡、13人負傷。
軽傷および無傷で生きて藩邸に戻った者は、切腹または斬首となった。
家名を断絶され、処罰は家族にまで及ぶ。
藩主を守れなかったとして非情な処分を、井伊藩自身が藩士に下したのである。
これには、激しい憤りを感じる。
幕藩体制、終わってしかるべきである。
  
 井伊を襲撃した18名の志士たち、仕える家に処分された彦根藩士たち、
皆自分と同じ、血の通った一己の人間である。
 戦争や、法もなく理不尽に処罰されたりする世ではいけないと、改革した結果、今日の私達の幸せがあるのである。

 世の中を変えるために、ひとつしかない命を散らして行った先人達を思い、心痛む思いである。 

【2008.08.13 Wednesday 18:28】 author : いづな薫 
| 篤姫 | comments(6) | trackbacks(0)|
過去のページへ

戦国カフェオリジナルグッズショップです。 戦国カフェオリジナルグッズショップへ
    いづなへメール

 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

   当サイトは、コピー、転載、ダウンロード、直リンク、持ち出しは禁止です。
◆ 著作権はすべて、
いづな薫に属します。
 過去のページへ


   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村。
   ランキングはお休み中