大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
映画「のぼうの城」見て参りました。
「のぼうの城」、礼節を重んじ、人に対して愛情がある作品である。

私は礼節や愛情は、人間のみならず生命、環境全般に対して必要なものだと思っている。
政治、文化、社会、いずれの分野でも不可欠である。
これが損なわれれば社会、コストと利益だけですべてを乗り越えていく経済ですら、やがて上手く回らなくなる。
礼節に欠ける卑怯者が増えれば、社会秩序が乱れるからである。

封切られたばかりの、この映画を見て来たので、その感想を書きたい。

主人公、のぼう様は、忍城(現、埼玉県行田市)城主・氏長(うじなが)の従兄弟である。
智も勇も武もないが、人徳だけはものすごくある。
そして、平和に暮らしていた忍城下に侵略者して来た三成軍を赦さず、誇り高い。

時は、秀吉の小田原攻めの時であるから1590年6〜7月のことである。
成田家は、小田原・北条家の支配下にある。
北条に味方するため、殿様の氏長(うじなが)は小田原に出向くことになった。
「北条に見方するのはうわべだけ、実は秀吉に内通する。」と、城主・氏長(うじなが)は家臣たちに言い含め
忍城(おしじょう)を発つ。

しかし、忍城の家臣たちは殿様の命に叛き、攻めて来た秀吉が差し向けた石田三成軍と戦になる。
殿様は秀吉に内通しているのに、国許の家臣たちは三成軍となぜか戦になり、しかも勝っている。笑

角はあるが勇敢な家臣&有能な農民を、人望でまとめ上げている、のぼう様。
のぼう様の、のぼうはでくの坊の意味。
本名は、成田長親(なりたながちか)である。
トップに立つ者は、特技に秀でている必要はない。
人臣をまとめあげる人望こそ、大事なのだ。

成田家一の家老、正木丹波守利英(まさきたんばのかみとしひで) 、この武将が素敵。
戦法がまるで、ミニ謙信公なのだ。
上杉家と成田家は、その30年ほど前に戦をしている。
忍城とは、小田原の北条氏と越後の上杉氏の国境最前線の地域なのである。
小説に、丹波少年と謙信公の出会いのシーンがある。
丹波少年は、忍城に攻めて来た謙信を塀越しに見ていたのである。
鉄砲の達人に謙信を狙撃させたが当たらず、”予を撃ってみよ”とばかりに逆に謙信公に胸を張られる。
弾は、みな謙信を避けて通った。
これは、”いくさがみ”だと子供の丹波は思う。
弾を当てれば、祟りがあると。

「謙信のようにはなれない」と丹波少年は思うが、成長した丹波の獅子奮迅の働きぶりが大スクリーンで見るのが
実にふさわしい。

さて、のぼう様。
殿様の従兄弟だが、農民の農作業を手伝いをするのが大好き。
赤子をあやし、武士なのに馬にも乗れない。
ひょろろん、ひょろろんと踊っては、つかみどころのないキャラだが、農民たちの彼に対する愛情は
子が親に対するそれと似ている。
忍城が水攻めに遭い大ピンチに陥った時、水攻めの巨大な池の上に舟を浮かべ、自らを敵に狙撃させる。
のぼう様が敵に葬られた?らどうなるか。
農民の行動は、親を撃たれた子らの行動に似るだろう。
戦国時代の農民は戦があれば兵士に変貌する。従順にばかり生きているとは限らない。
これからご覧になる方が多いので、それ以上は詳しく書かない。

22歳の若き家老酒巻靭負(ゆきえ)、豪傑・柴崎和泉守、大武辺者の甲斐姫。
敵役の三成がりりしくて素敵なんだ、これが。ベストオブ三成かもしれない。笑
慈父のような秀吉、良友の大谷吉継、三成の周りの人間関係も心地よい。
設定がわかりやすく、キャラが立っている。
作者の人間に対する深い愛情が感じられ、小説で読んでよし、映画で見てよしの素晴らしい作品である。
ただ、すごい津波シーンがあるので、3.11で被害に遭われた方はご覧にならない方がいいかもしれない。
あと戦闘シーンが多く、セリフが聞き取りにくいので原作もお読みになるといいと思う。

こちらは、今年春、のぼうの城の舞台、忍城、石田堤、丸墓山古墳を訪ねた時の様子。
東京からほど近い。また行きたい。

【2012.11.04 Sunday 16:08】 author : いづな薫 
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利休忌
千利休が切腹により生涯を閉じたのが、天正19年(1591)2月28日であった。
太陽暦で4月21日、利休が亡くなった日は陽春うららかなる日ではなく、寒冷前線通過で雷が鳴ったようである。
毎年ひと月後れの3月28日に、裏千家家元では利休忌の追善茶会を行って来た。表千家は27日。
利休忌には、菜の花を生けるのが恒例である。
菜の花は、利休が特に好み、最後の茶室に生けられた花だと伝わっている。
今日はあいにく菜の花写真は用意できていない。

開花を待つ桜のつぼみ。


馬酔木の花


上杉鷹山公の奨励したうこぎの新芽。

【2012.03.28 Wednesday 13:50】 author : いづな薫 
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お屋形さまのお誕生日
今日は、わがお屋形さまの482回目のお誕生日。
内幸町のレストランで祝った後、東電本店の近くと言うことで友人かめこさんと行ってみることに。
寒そうな警察官が、門で警備している。
余剰人員が山ほどいる会社にしては、入り口は小さく地味。

門近くにある江戸絵図を見ると、東電の建っているところは、肥前小城藩(佐賀)鍋島加賀守直亮との表示あり。
隣りには、「薩摩守斉彬・なりあきら」の文字が見える。
ここには、明治期に鹿鳴館が建設された。

電力幕藩体制の将軍家に位置する東電、旧大名屋敷の上で君臨か。

【2012.01.21 Saturday 20:58】 author : いづな薫 
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博物館に初詣
友人と 東京国立博物館で新年特別公開を見て来た。

お気に入りのラーメン屋が近かったため、正月早々、まずはラーメン屋にて腹ごしらえ。笑
厚さ1cmはあるチャーシューを、嬉々として写真を撮る。

そして、博物館へ。

左:ウエスタンハットのような帽子をかぶる縄文時代の土偶。前2000〜前1000年。
右:友人曰く「この羽子板、厚さ3cmくらいある。重過ぎ。負ける!負ける!」笑


いづなの目当ての刀剣コーナー。
国宝・長船長光。
織田信長が愛した刀工長船光忠の子・長光が作者。
美しい地金(じがね)に、華やかな刃文が冴え渡る作風。謙信公が愛した刀工でもある。
鳥取県の池田家に伝来した品。
同行した友人は歴史に興味はないが、なぜ、刀は刃が下に展示してあるのと上向きのがあるの?と聞いてくる。
鋭いな、友人。
刃が上のは打刀で袴や帯に挟んで差す。
刃が下のは太刀。携行する時は、太刀緒を太刀に取り付け腰に巻き、吊るした状態にする。
太刀は、おおむね長さ2尺(60cm)以上のものを指す。


こちらは、国宝・粟田口吉光。作者の吉光の通称は、藤四郎(とうしろう)。
藤四郎は、鎌倉時代、京都・粟田口派(あわたぐちは)の名工で、特に短刀作りに才能を発揮した。
室町時代にはすでに、名物として有名で、小ぶりで短い刀身しかしその厚みが極端に厚い。
”鎧通し”と呼ばれ、元重ねは1.1cmもあり、「厚藤四郎」(あつしとうしろう)の呼び名を持つ。
地鉄(じがね)、刃文ともに美しく、迫力のある短刀である。
足利将軍家に伝来され、黒田如水、豊臣秀次、豊臣秀吉、毛利輝元、徳川家綱に渡った。




国宝・秋冬山水図 雪舟等陽(1420-1506?)筆
右が秋、左が冬。
雪舟は10歳の頃、京都の相国寺に入った禅僧画家である。その後、現在の山口県あたりの守護大名大内氏の 庇護で周防国に暮らし、その後、 遣明船で明 (中国)に渡り、中国画法を学んだ。
相国寺に移る前、少年の雪舟は備中の宝福寺(岡山県)にいたが、経を読まず絵ばかり描いていたため、和尚さんに怒られて、寺の柱に括り付けられた。
その時、床に落ちた涙と自らの足の指でネズミを描いたという逸話がある。

この山水図は、雪舟以前の水墨画にはなかった、理知的な構築性、堅固さが見られる。
かさかさとしたしかし力強い筆致、安定感ある構図など雪舟独自の作風が出ている。
明に渡り、周文(しゅうぶん)や如拙(じょせつ)、南宋の諸大家、明の浙派(せっぱ)の画風を学び、各地を写生した。
そして、中国画でもない、日本独自の水墨画風を確立。

同博物館で開催していた故宮博物院展の清明上河図(せいめいじょうかず)は世界の至宝だけあって、なんと140分待ち。
じゃあ、あんみつ屋さんに行こうと言うことになって行ったら、こちらも長蛇の列。
あきらめて、アメ横でドライフルーツをしこたま買って帰宅。

【2012.01.03 Tuesday 20:27】 author : いづな薫 
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法然と親鸞 ゆかりの名宝


東京国立博物館にて、「法然と親鸞ゆかりの名宝」展を見て来た。

法然と親鸞は40歳差の師弟関係で、それぞれ浄土宗、浄土真宗の開祖である。
まず、法然は平安末期の1133年、美作国(みまさかのくに・岡山県)に押領使(おうりょうし・地方の治安維持にあたる
地方官僚)漆間時国(うるまのときくに)と母秦氏(はたうじ)の子として生まれる。

今回展示の、法然上人の伝記、国宝「法然上人行状絵図」(知恩院)、重文「法然上人形状絵図」(当麻寺)に興味を引かれた。
知恩院の絵巻を元に作られたのが、当麻寺のものである。

大事件が、法然9歳の時に起きた。
土地争いで父に恨みを持った明石定明(あかしさだあきら)が、夜討ちで攻めて来るのである。
甲冑をつける暇もなく父は応戦し、頬や頭に大怪我を負い、屋敷には火が放たれる。
9歳の法然も矢を放ち、明石定明(あかしさだあきら)の眉間に当たり明石は失踪したと言う。

法然は敵討ちを誓うが、重傷を負った父は9歳の法然にこう言い聞かせる。

「われこのきずをいたむ。人また いたまざらんや。われこのいのちを惜しむ。人あに惜しまざらんや。」

私は傷が痛い。他人もまた痛いのだ。私は自分の命が惜しい。人もまた惜しまないことがあろうか。」
そして、法然の父は息子に告げる。
「敵をうらんではいけない。どうか早く俗世を離れ、私の菩提を弔ってもらいたい。」

法然の父・漆間時国(うるまのときくに)は、重い傷がもとで亡くなる。
あだ討ちが当たり前の時代、このお父さんはすごい。
非業の死、この受け入れ難い状況の中、偉大な遺訓を遺している。

父を失った法然上人は、当時の仏教の最高峰で比叡山に登って一人前の僧侶になることを、母に告げる。
おそらく法然は、母と今生の別れとなることを覚悟して比叡山に行くことを決めたのであろう。
法然、この時15歳。

法然は、叔父で僧、観覚(かんがく)に引き取られ、僧侶として教育を受ける。
そして当時の仏教の最高学府であった比叡山に行くことを勧めたのもこの叔父観覚 (かんがく)である。
その後、法然はひたすら学問と修行に精進し、日本仏教界に革命を起こす。

展示品に、阿弥陀如来立像(重文)がある。
法然の一周忌・建暦2年(1212年)12月24日に法然の弟子が作らせた仏像である。
1974年滋賀県甲賀市の寺で発見されたが、その胎内から驚くべき文書が出て来た。

文書は記す。
「法然上人の弟子である私、勢観房源智(せいかんぼうげんち)が、上人より受けた恩徳に報いるため大勢の人と縁を結び、この像を一周忌に造る。」
この勢観房源智(せいかんぼうげんち)と言う人物、法然上人を看取った弟子で、平清盛のひ孫に当たる。
文書の他にも、仏と縁を結んだ4万6千人もの名簿・結縁交名(けちえんきょうみょう)が収められていた。
名簿には、後鳥羽上皇、平清盛、源頼朝、頼家、そして東北地方の庶民らしき名前も見える。
当時の貴賎を問わない、”仏との縁”の考え方が垣間見えて、興味深い。

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」、これは親鸞の言葉として有名だが、もとは法然上人殻受け継いだ言葉である。
善人は迷いから離脱できる人のことである。
悪人とは、欲望、恨み、怒り、妬み、迷いがいっぱいのどうしようもない人間を指す。
いや、人間の脳の構造がこれらを思考するようになっているから、大方の人間は悪人である。
法然はこれらを凡夫と呼び、自分も凡夫だと言う。
法然の生きた中世、悪人と言えば、欲で武力行使をした武士だろう。
法然もまた武家の出身であった。


さてもうひとりの主役、親鸞は、法然の40歳年下の弟子である。
共にいたのは、6年余りのことである。
1207年法然、親鸞師弟に事件が起きる。法然ひきいる教団が、従来の仏教教団より弾圧されてしまうのである。
後鳥羽上皇によって念仏を禁じられ、、法然の門弟4人は死罪、法然と親鸞ら門弟7人が流罪になった。
35歳の親鸞は、越後に配流となる。
越後・春日山城下の新潟県上越市を歩くと、親鸞の史跡が今も残る。
親鸞は、越後で妻恵尼とともに、一般庶民のように暮らしながら常陸国(茨城県)に旅立つまでの7年間を、この地で仏道探求した。
戦国時代、極めて繁栄した越後が鎌倉時代、配流の地だったことも興味深い。

古くは律令国家の時代、仏教は国家鎮護のための思想であった。
親鸞は法然に対し絶対的な信頼を置いていたが、師匠法然の浄土宗に対し、浄土真宗をおこす。
2宗の違いは、国家鎮護を目的とした仏教で救われないとされて来た「悪人をも往生できる、と説いた法然の悪人往生説」、「悪人こそ往生できると説いた親鸞の悪人正機説」に分かれる。
親鸞の教えは、善人も悪人も念仏を唱えさえすれば救われ、念仏は、煩悩に苦しむ人にこそあると言う思想である。


展示のラストにあった、国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が印象的だった。
「早来迎」とも言われ、阿弥陀様がいっぱい雲に乗っかって急峻な山を降りて来る。
行き先は、往生予定の信者のいる家。
阿弥陀様の方から来てくれる、革命的な教えである。
しかし、雲がバビューンと引き千切れそうなくらい速い。早来迎だから。
こんなスピードで、お迎えに来てもらっては困る。苦笑

展示会は12月4日まで。


【2011.11.29 Tuesday 10:43】 author : いづな薫 
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生ける運慶
先日、NHKでサッカーの川島選手の特番を放送していた。
スタジアムで彼を何度も見たが、体格、動き、平安鎌倉期の著名仏師が彫った仏像に似ているといつも思う。
この時代の仏師の作品に出会うと、川島さんを思い出す。
例えば、日本彫刻史上の最高峰、天才仏師・運慶。

今日は、運慶と川島選手のお話。
そんなテーマで、書く人はそうそういないだろう。笑
運慶は、12世紀の半ば奈良興福寺を拠点に活動した仏師康慶(こうけい)の子として生まれた。
正確な生年は、伝わっていない。


運慶は、奈良東大寺仁王像の製作者として有名だ。
盛り上がる筋肉、浮き立つ血管、悪霊を追い払う、凄まじい気迫が見る者を圧倒する。
鎌倉時代初期、運慶が解剖学を学んだはずもないが、人間の身体の構造、骨格、筋肉を徹底的に分析して作られたのではないかと思わせる写実性に富む作品だ。
最高芸術のひとつは、人体であると私は確信する。

運慶には、理想とする”モデル”が現実にいたのだろうか。
平安末期〜鎌倉と言う戦乱の時代に生きた武者たちか、それとも汗水流して働く労働者たちか。

運慶の父康慶(こうけい)は、奈良東大寺周辺で、古い仏像修理をする仏師であった。
運慶は、従来の手法に飽き足らず、新たな仏像製作を模索する。
この頃は、優美な貴族文化の仏教感を表現して来た京都派の仏師たちの停滞期と重なる。
貴族から武家への政権交代で、関東武家政権を顧客に持った運慶らの台頭が始まるのである。
武家好みの力強さ、目に水晶をはめ込み、にらみを利かせ、生きているかのような眼差しの仏像を運慶は作ったのである。
ダイナミックで写実的、武士の世界観を体現する芸術、運慶の革命的作品はこうした背景を持って生まれた。

南大門の仁王像は、運慶工房の仏師たちによって、分割され製作されたと考えられている。
仁王像は8.4m重さ6t、1本の腕だけで25のパーツからなる。全体では、3000ものパーツで出来ている。
古文書に寄れば、運慶たちに許された仁王像・製作日数は、わずか69日。
驚異的なスピードを可能にしたのは、慶派(名前に慶のつく仏師が多いので)の高い技術力と、運慶のたぐい稀な統率力だろう。
運慶が孤高の芸術家だったら、こうは行くまい。
緻密な計算の末、大勢の仏師により彫られ組み立てられ、運慶は優れた総合プロデューサーでもあったのだ。
最後の最後まで、「これは違う、作り直せ。」と、細部に至るまで微調整する運慶の声が聞こえて来るようだ。



運慶には、仁王像のような躍動感あふれる作品の他、静寂を表現した作品もある。
奈良興福寺北円堂の「無著(むちゃく)菩薩立像・世親(せしん)菩薩立像」。
力強さとは違う物静かな、しかし今にも動き出しそうなリアリティーを持った仏像がある。
無著(むちゃく)世親(せしん)とは、紀元5世紀頃北インド・ガンダーラで生まれ、法相教学(学問仏教の一つ)を確立した偉大な学者兄弟である。

運慶工房では多く仏師が働いており、運慶の指導により、無著(むちゃく)を運助(運慶6男)、世親(せしん)を運賀(運慶5男)が製作したと伝わる。

学問を探求し、厳しい修行によって得た深い精神性と、慈悲がその彫刻に表現されている。
肖像彫刻として、日本彫刻史上最高傑作と言われる所以(ゆえん)である。

運慶の、静と動を刻み分ける圧倒的な技量。
運慶は特に、人間的魅力にあふれた仏像を作ることに長けている。
仁王像、無著(むちゃく)世親(せしん)像ともに、正面、側面、背面のどの角度から見ても完璧なのだ。
筋肉、髪、姿勢、一瞬の風に吹かれた衣の襞、どれも最も美しく見える瞬間で時を止めている。
そう、すでに800年もの間。

優れた芸術作品には、黄金比が存在する。運慶作品にもある。運慶比という、文言さえある。
ただ、それは後世美術批評家の言葉で、作者にしてみれば、己の理想を木の中から彫り出すに他ならない。
手伝う弟子達のためまたは自らの理論を裏付ける計算はしても、物体が最も美しく見える比率は、芸術家なら
直感で分かるものだ。
 
芸術を仕事にした者には日常から乖離した、究極の表現を追い求めるための激しい格闘がある。
スポーツも同じだろう。

川島さんの番組で、完璧を追い求めるゴールキーパーと紹介していた。
芸術家も、スポーツ選手も1代限りの才能である。
受け継ぐ者がいたとしても、同じ才能は二度と表現されることはない。

私は、アートとスポーツは実は同じ次元で感動している。
スポーツ選手の躍動感と、慶派の仏師が800年も前に製作した仏像を同じマインドで感動している。
ナマの時はさすがに試合に夢中だが、録画を見ると、川島選手がピッチを歩く姿を見て、仏神が動くような不思議な感動を覚える。

と言うわけで、11日18:00にW杯予選タジキスタン戦、15日15:50に北朝鮮戦がある。
長々と続いた繁忙期後なので、サッカーにうつつを抜かすつもりでいる。

キャンプ地の暑いドーハから移動し、積雪のタジキスタンで戦う日本代表を応援したい。

【2011.11.10 Thursday 13:31】 author : いづな薫 
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武田信玄の柿
 
武田信玄公のお膝元、甲斐の国のあんぽ柿を見つけたので買った。
すごく柔らかい干し柿で、甘みも十分。
スプーンですくって食べたいゼリーのような食感。
干し柿は、戦国時代のおやつである。

信玄の重臣、高坂弾正が書いたと言われる、甲陽軍艦にこんな逸話がある。
ある夜、信玄がこう言った。

渋柿を切って甘柿に接木するのは小心者のすることである。中より上の侍、ことに国の主ともなれば、
人工的に手を加えず、渋柿は渋柿のまま用いてこそ、上手く行く。しかし、接いでしまった柿を切る必要はない。


これは、武田信玄の人材登用術である。
国の主たるもの、家臣の性質を見抜いて登用すべきと言う考えを信玄は持っていた。

柿はもちろんのことブドウ栽培も始まっており、甲州上岩崎の住民雨宮織 部正が、信玄にブドウを献上した記録も残る。
ちなみにブドウは中国から輸入され自生化して、鎌倉時代初期に甲州勝沼付近で栽培開始になったと伝わる。

【2011.11.07 Monday 21:41】 author : いづな薫 
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明智光春の甲冑


明智光春の所用の南蛮具足です。東京国立博物館蔵。
明智光春は、光秀の従兄弟で家臣。通称、左馬助。
しかし、信頼すべき史料に「光春」の名は見当たらないので、光秀家臣・明智秀満と混在してしまった可能性もある。



兜の背面すその向かい龍が、美しい。
胸に打ち出しで「天」の文字。
舶来品の南蛮具足にならって製作されたものである。
兜の前たては、半月、足が速いの武将に好まれたうさぎの耳が付いている。


胴体右胸の部分にはどくろが、1つ打ち出されている。
豪華で華やかで、そして常に死と隣り合わせの武将の死生観が表れている。

【2011.10.02 Sunday 10:15】 author : いづな薫 
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大久保利通、巨大官僚組織
 昨日、NHKで大久保利通の番組(さかのぼり日本史)を見た。
私は、近代日本を作った大久保利通と言う政治家に大変な関心がある。

国家にとって、不利益なことは断じて許さない。」大久保の、政治姿勢である。
しかし彼が不利益な存在として戦った相手は、幕藩体制であり、古い武家社会であり、今で言えば利権グループである。

明治6年、大久保は内務省を設立し、自ら長官になる。
内務省とは、今の経済産業省、国土交通省、厚生省、警察庁などが合体したような巨大な官僚組織である。
昭和22年、GHQによって「力を持ちすぎる。」と、解体された。

明治初期、大久保は、日本の近代化のモデルを探るため、欧米視察する。
あまりに進んだ文明に驚愕しながら、「日本を近代化したい、国民ひとりひとりが力をつけなければ、国も力を持てない。」と
判断する。
大久保は、ドイツに日本が向かうべき近代化の模範を見出す。

産業を興して国を救うべく帰国した大久保を待っていたのは、朝鮮に出兵すると言う意見だった。
朝鮮派兵を唱えていたのは、大久保の盟友・西郷隆盛。
幼馴染で、血よりも濃い縁で結ばれた革命の同志である。

「今、命を失い、国家予算を使えば、国は疲弊する。」
大久保は、いかなる時も助け合って来た西郷に、真っ向から異を唱える。
西郷は下野し、大久保は政府の中心的人物に収まった。
当時の主力輸出商品であった生糸の生産を拡大。道路を整備し、輸送を支えた。
前島密(まえじまひそか)ら、新政府に有用なら幕臣でも分け隔てなく登用した。
政府の援助により産業は発展したが、多大な出費を伴うものだったのである。

予算を確保しなければならない。
大久保は、国家予算の4分の1を占める、旧士族の家禄に目を付けた。
士族は、特に仕事を持たずとも、禄で食べている。

家禄停止。
士族にとっては、経済的困窮とともに、死よりも重い”名誉”を失うことである。
言うまでもなく、士族の反発を呼んだ。
各地で、士族反乱が起き、九州では西郷隆盛率いる不平士族と政府軍との間に西南戦争が勃発した。
大久保は、政府軍6700人を派遣。
それでも西郷らの薩軍は強い。幕末最強と言われた武士団である。
戦況が悪くなる政府軍に追加されたのは、抜刀隊と呼ばれる警察官中心の部隊である。
彼らの中には、会津藩出身者がいた。
なぜか。
会津藩主が京都守護職時代、会津によって薩摩は京都でかなり藩士を斬られている。
戊辰戦争の時、薩摩は会津に攻め入り壮絶な戦になった。
西南戦争は、薩会の報復感情があったとも言える。

西南戦争の中、大久保は上野で「内国勧業博覧会」を開催する事となる。
資金のない人には出資し、運搬費用持つ。
優秀作品は、パリ万博へ出品を約束した。
西南戦争で戦費が拡大し、批判も多かったが、大久保は新聞に「博覧会は絶対開催する。」と発表する。
国の力を形で示し、それを内務省が牽引していることのアピールを含んでいた。
博覧会は、成功を収めた。

大久保はこの半年後、皇居近くの紀尾井坂で、不平士族の凶刃に倒れた。その理由は、
・大久保は政治を私物化している。
・国の金を、いたずらに費やしている。

大久保の死後、憲法改正、議会制民主主義が生まれる。
これがやがて、自由民権運動へと発展するのである。
民衆は、大久保とは違う形の近代化を選択した。

大久保は官僚主導の政治を目指したが、彼はもともと薩摩の下級武士出身である。
薩摩藩のお家騒動で、父とともに謹慎処分になり、大久保家は困窮を極める。
やがて、盟友西郷隆盛と共に倒幕し、西郷と離反してからは、不屈の闘志で近代化をまい進させている。
彼は、国を支える新たな産業に金が必要ならば、かつての特権階級であった士族から禄を奪った。
戦が日常茶飯事の中で、大規模な政策転換すれば、命がいくつあっても足りない。
不平士族から、私腹を肥やしていると非難されたが、大久保が死んだ時、多額の借金が残った。
ポケットマネーで、公共事業したからである。

彼は、暗殺されることを覚悟していたはずだ。
”自らの命より”、「日本の近代化」を重んじたとも言える。
西郷もそれを知り、大久保の作る新しい世のため、不平士族と心中したのかもしれない。

明治11年5月14日朝、大久保利通は不平士族により暗殺された。
その死の時、盟友・西郷隆盛の手紙を持っていたと言う。

幕末の状況、今の電力問題と似ているとしばしば思う。
利権を離すまいとする勢力と、新たな方向へ向かおうとする勢力。
昔は衝突すれば戦になり、多数の犠牲を出す。
この点今とは違うが、政治的には次に何が起きるか、何をなすべきか、想像が付く。

昔も今も変わらず、言えることがある。
猛烈な反対に遭いながら、犠牲を払いながら、「歴史は決して後戻りしない。」、のである。

【2011.07.20 Wednesday 19:08】 author : いづな薫 
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災害と文化遺産
ニュージーランド地震により、耐震性の低い古都クライストチャーチは、被害がひどいと言う。
エジプトのデモでは、略奪されたカイロ博物館所蔵のツタンカーメンなどの宝物が、ゴミ箱にうち捨てられていた。

災害や紛争は人命だけでなく、文化財も危機にさらされる。
今日は災害と文化財について、少し書いてみたい。

昨今歴史研究のための立ち入り調査が初めて行われた、応神天皇陵は、以前より地震による崩壊が指摘されている。
日本では、地震による文化財的建築物、文物の破損は頻繁に起きて来た。
文化財に亀裂が入ったり崩落させるだけでなく、火災を起こしたりするので被害は甚大だ。

2004年10月23日に起きた新潟中越地震は、山間部に強い揺れがあり、最大震度7を記録した大地震であった。
私はこの日の新聞を、その頃の居住地であるフランスとドイツの国境地域で見ていた。
地震が極めて少ない彼の地でも、記事の取り上げ方は大きく、私の親しい人々はかなり心配してくれた。
後で日本に帰って来ていろいろ調べると、地盤が大きく破壊されたため、山間部にある中世の山城がかなり破壊されたと言う。
山岳地帯のため、重機などの修復機材が入れず、そのままになっているのも多い。
博物館内に展示してある、土器や陶器製品は倒れ破損し、その後は免震台に載せ、テグスで固定するなど、地震対策を図っている。

2007年3月25日能登半島地震では、七尾城の貴重な野面(のづら)積み石垣が崩落した。
戦国時代の石垣は、石一つ一つが貴重な文化財である。
レーザー計測を元に、元通り丁寧に積み上げられている。

 奈良の興福寺の阿修羅も、耐震対策が今月採られている。
特殊加工鋼板を2枚重ねした装置を、台座の下に敷き、地震が発生すると、上板が緩やかにスライドする。
阿修羅は長い歴史の中で、人の力で火事からも逃れて来た。
乾漆造(かんしつぞう)のため軽く、火事など災害の際には、僧侶たちが容易に運び出すことが出来たのである。
乾漆造(かんしつぞう)とは、麻布を漆で固めことを繰り返し、漆と木粉を混ぜ、像に塗りつけ形作る、東洋で見られる彫像製作法。
その乾漆造(かんしつぞう)のため、軽く、火事など災害が起きた時は僧侶が容易に運び出すことが出来たので、今日に残った。
それでも、明治期には、6本の腕のうち2本が折れ、痛々しい姿をさらしている。

文化遺産をこわす要因は、地震や暴動だけではない。
空襲や雷で城や塔が焼けてしまった例も多くある。
塔は、その傘の様な構造から、耐震構造となり揺れには弱いが、落雷により焼けているものが多い。
名古屋城や広島城など、空襲で焼けてしまった城も数多い。
名古屋城は、金のしゃちほこが焼け落ちて、現在金の茶釜が出来ている。

 最後に、雷で焼けた美しい城を語る。
青森新幹線開通で、話題になる、青森・弘前城である。
桜の名所として全国的に知られ、堀に散り注ぐ桜の花びらで水面がピンクに染まる頃はえもいわれぬ美しさである。
 その弘前城は、1627年9月、しゃちほこに雷が落ち五層の天守閣は焼失してしまった。
その時の火事である。雷はしゃちほこに落ち、三層目が燃え上がり、天井に吊るしてあった時の鐘が2階に落ちた。
この2階はなんと火薬庫で、大爆発を起こし、五層の天守城は完全に失われてしまった。
再建されたのは、1810年、三層の天守閣が完成した。
しかし、城建設が庶民への重税になり、一揆への引き金となって行くのである。
幕末東北には、奥羽列藩同盟があり、津軽藩も加わったが、早い時期に脱会し、1868年新政府側に参加し、天守閣、南門、辰巳櫓(たつみやぐら)、丑寅櫓(うしとらやぐら)は破壊されずに近代を迎えている。
私も何度か見ているが、南門は慶長期の、日本で数少ない現存する城郭建築であり、大変貴重である。

【2011.03.02 Wednesday 08:52】 author : いづな薫 
| 日本史  | comments(2) | trackbacks(0)|
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