大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 古代史 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
「大仏開眼」前編 感想
「帰った〜!」吉備真備のセリフ、しょっぱなからじーんと来ます。
17年ぶりの日本!

 渡航自体が大変危険で、海難事故続出の中、日本〜唐の往来を、吉備真備は2回もやってのけた人物である。

 1回目は、百人一首の「天原ふりさけみれば〜」の阿倍仲麻呂も一緒に渡航している。

 遣唐使船は「四つの船」と言われ、4隻に400〜500人を乗せる。
大使、副使、留学生、留学僧、安全な航海を祈る祈祷師、船が破損した時を直す船大工など技術者もいる。
 
 なぜ4隻か?どれか1隻でも着くことを願う、極めてデンジャラスな理由。
 遣唐使船の通る東シナ海は荒れるし、フカだっている。
漂流した先で、言葉が通じず殺されたり、病死したり、まったく以ってシャレにならん。
 遣唐使は大事にされたが、もちろん遣唐使になること断る人もいたと言う。
 吉備真備も帰国時2回とも、種子島と屋久島に漂着している。
早ければ3〜4日で着き、長ければ1週間以上、難破する場合ももちろんあり。
 8世紀に往来した5回の遣唐使船のうち、全船往復できたのは、たった1回である。
 
 今みたいにメールも電話もなく、数年に一度日本からの情報があるのみ。
行っている間に家族は亡くなったりするだろうし、本人は命がけ、送り出す家族も大変な思いをしたことだろう。

 吉備真備、帰国して17年後にまた唐に行く。今度は遣唐副使である。
唐の政府高官となった阿倍仲麻呂と再会している。
 そしてなんと帰国時は、高僧・鑑真を伴っているのである。
 遣唐使の歴史を語れば、古代史スーパースター続出。
空海、最澄、山上憶良などもそうである。

 遣唐使は当時の先進国・唐で学び、日本文化を変えるほどの文物をもたらした。
 天文学、儒学、音楽、兵学を学び、お経、天文暦書、日時計、楽器を持ち帰る。
 穏やかな青年に書かれている吉備真備、実は兵学の専門家である。

 食べ物では、小麦、きゅうり、なす、にんにく、大豆、れんこん、ちしゃ(レタスの一種)などである。
 日本の食生活は、遣唐使が変えたといっても過言ではない。

 吉備真備は学者としては、破格の出世をする。
古代・中世において、皇室藤原氏など有力勢力以外で学者から右大臣にまでなったのは、吉備真備と菅原道真だけである。

 さてドラマ感想だが、生きている吉備(まきび)を見たことに感動した。笑 絵巻や本の中の人だったので。
 この真備さん、普通の青年だが、権力闘争に巻き込まれていくのを演じるのが、実に上手い。
野心的な仲麻呂と玄掘覆欧鵑椶Α法∪長途中の誇り高い安倍内親王も良い。
 髪型、衣装など、古代ファッションも見ものです。
 前後編2回でなくて、もっと長くやっていただきたい。

 家族思いのマキビ一家、お母さんが亡くなり可哀相じゃった。
優しく頭の良いマキビと、武力で政治をしようとするイケメン仲麻呂の対立が圧巻でした。
 安倍内親王とマキビの恋?の行方も、面白そうです。
安倍内親王は後の孝謙天皇だが、彼氏にするなら道鏡でなくて、マキビにすりゃ良かったのに。

PS.吉備真備の故郷吉備の国(岡山県)に、現在、「吉備真備駅」ってあるんですね。面白いです。

【2010.04.03 Saturday 21:51】 author : いづな薫 
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太安万侶(おおのやすまろ)の墓
BS45日間奈良時代一周で、また面白いものをやっていた。

日本最古の歴史書古事記の編纂者に、太安万侶(おおのやすまろ)と言う人物がいる。

 かつては伝説上の人物と言われたが、31年前、墓が発見されたことにより、歴史は覆る。
 1979年、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から太安万侶(おおのやすまろ)の墓は発見された。

 茶畑にあった小さな穴に黒い炭片が見えていて、なんと古代墳墓につながっていたのである。
 発見者の方は当時60才代でいらっしゃったが、今もお元気で明瞭に発見当時のことを語って下さり楽しかった。

 墓は、直径4.5mの円墳で墓穴の床は炭が敷き詰められていた。
その上に置かれた木櫃(きびつ)中からは、火葬された遺骨と、真珠が出て来ている。
 木櫃(きびつ)の四周と上面は木炭で覆われていたと言う。
炭の上に置かれた銅板製墓誌には、被葬者の住所、位、名前、命日、埋葬日が刻まれていた。
 
住所 左京四條四坊
位  従四位下勲五等太朝臣
名前 安萬侶
命日・埋葬日 以癸亥年七月六日卒之 養老七年(723年)十二月十五日乙巳


 古代の高級官僚の墓が、規模、構造、遺物出土で明らかになり、貴重な遺構である。
 テレビ内容はこのあたりまで。

 さて、彼が編纂した古事記序文には、なぜ古事記を作ったかが書かれている。
昔からある、天皇の系譜や伝承の伝え間違いを心配した天武天皇が、稗田阿礼(ひえだのあれ・性別未確定)に命じ、それらを暗記させた。

稗田阿礼(ひえだのあれ)当時28歳、舎人。
舎人(とねり)とは、古代、天皇皇族の身辺で働いた役人である。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は一度見聞きしたことは絶対覚えている、超人的な記憶力の持ち主だった。
この、稗田阿礼(ひえだのあれ)の言うことを、書き取ろうとしたが失敗。

 なぜ、音読を文字に出来なかったか。
これが、面白い。
 当時の文字は、漢字である。しかし、古事記は漢字伝来前の言葉が多いのである。
 
 時が経て今度は元明女帝が太安万侶(おおのやすまろ)に命じ、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記内容を話すのを安万侶(やすまろ)が苦労して書き取ったのが、古事記。
 稗田阿礼(ひだのあれ)が老齢に差し掛かり、編纂を急いだか? 
 
 しかし、漢字伝来以前の日本の言葉を、漢字で写し取るのは大変な苦労であったろう。
 そんな偉業を為し遂げた、太安万侶(おおのやすまろ)さんのお話でした。


PS. 食事 昨日BS風林火山は、川中島じゃった。
   家族で夕食の支度をしながら見ていたが、上杉が映るとテレビの前に集まり、
   武田になるとこそこそ用事をこなすいづな一家。
   きつつきの戦法を謙信に、「読まれた〜」と、うなる勘スケの顔は楽しかったぞ。  
   こんなにも、主人公サイドに感情移入しないドラマも珍しい。笑

【2010.03.17 Wednesday 18:30】 author : いづな薫 
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45日間奈良時代一周と、お水取り
BSで、「45日間奈良時代一周」と言う番組があり楽しんでいる。
関西地区は4月4日からだそうだ。

今日は平城京の役人の話。
下級役人は、朝4:30に家を出て、1時間半かけて通勤、もちろん徒歩。
昔は街灯もないから、冬は真っ暗である。
奈良時代の役人に扮した若い俳優が、自販機で温かい飲み物を買っていたが、これはありえない。笑
夕方まで働き、時には深夜に及ぶことがあったと言う。
年収、230万円位。平城京で働く役人は7000人ほど。

貴族は、平城京の近くに住み、昼ごろ帰ってしまい、最上級の役人だと、年収3億円を超えた。
ものすごい格差社会である。

役人平城京で何をしているかといえば、戸籍、税金管理、宮内の事務などを行っていた。
 で、書類は紙でなく、薄く平たい木で出来た木簡。
木簡に墨で書き、間違えたら小刀で削って消す。
紙は貴重なので、重要文書にしか使わない。
勤務年数や勤務評価が書かれた木簡が出土していて、何ともすごい。
1200年前の公務員の査定表である。
 
 テレビでは言っていなかったが、平城京は今の皇居+霞ヶ関のような所である。
 働いている人は、皇族貴族と国家公務員である役人。
彼らの他にも、宮中に勤めるキャリア系女官、僧侶、天文学薬学など学問する学生もいる。
 平城京南側には、大内裏につながる朱雀門が復元されているが、朝は通勤通学ラッシュでごった返したのかもしれない。


 いづな画
 本日は奈良東大寺の1259回めのお水取りである。
毎年やって1259回、一度も休んだことはないそうである。
 この日から、奈良には春が来ると言われている。
1ヶ月くらいお坊さん達は寺にこもり行(ぎょう)に励む。
3月12日深夜(13日午前2時)、二月堂下の閼迦井屋(あかいや)の中の井戸・若狭井(わかさい)から観音さまにお供えする、お香水(おこうずい)を汲み上げるのである。
 若狭の国(福井)につながる井戸と信じられていて、この名がある。

 今夜12日は、「お松明」と呼ばれる6mもの松明に火をつけ二月堂の回廊を歩く。
火の粉が落ちてとても勇壮、火の粉を浴びると無病息災に過ごせると言われています。

【2010.03.12 Friday 19:15】 author : いづな薫 
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ツタンカーメンの死因


先日、「戦国時代にオリンピックがあったら」で、流れてしまった(流すな、笑)
ツタンカーメンの死因」について書きたい。

王家の谷にあるツタンカーメン王墓は、1922年11月4日イギリス人考古学者
ハワード・カーターによって発見されている。
 発掘は資金難でもうやめようかと言う時、土砂をどけたら、地下に向かって階段があった。
 階段を降りると、道は地中に向かって進むが、棺のある部屋に続く道は次々に壁で遮断されている。
 途中の2枚目の壁には、ツタンカーメンを表す紋章が押してあった。
 棺のある玄室の封印壁の前には、一対の番人の人形が立っていて、3000年以上も王墓を守っていたのである。
 
 3300年の時を経て、わずかな盗掘にあっただけで、王のミイラ、黄金のマスクなど豪華な副葬品が発見されている。
 遺体の上には、彼の死を悼んで載せられた矢車菊の花束があった。
 エジプトで矢車菊が開花するのは、4〜5月頃で、ミイラ製作期間を考えると、王の逝去時期は、2〜3月と推測される。

 カーター博士の著書『ツタンカーメン発掘記』に詳しく書いてあるので、ご興味のある方はぜひ!
 自分が発掘しているかのような気分になり、本当にわくわくする。
 私が初めて読んだのは小学校5年くらいだったが(たぶん子供用)、その後も何度も読んだ本である。
 
 最近のニュースで、ツタンカーメンのDNA調査結果、死因はマラリアと大腿部骨折だと結果が出た。
 マラリア原虫のDNAが見つかり、死ぬ数日前、足骨折をし、死を招いたらしい。
 足の骨は縦に砕け、破片が皮膚を突き破るほどで、古代医療ではいかんともしがたい。
 バイク事故に、よく見られる傷だと言う。
 ツタンカーメンがバイクに乗っていたわけではなくて、
2輪戦車に乗っていた?とか、以前推測されていたが、元来虚弱で、戦車を乗り回せるような体躯ではなかったと言う。

 何でそこまで、虚弱か?
ツタンカーメン、ものすごい近親婚である。
なんと、DNA調査から父と母が、同父母の“きょうだい”であると判明。ヒョエエエー
 古代エジプト王族では、珍しいことではなかった。
ちなみに、ツタンカーメン母のミイラを見たが、なかなかの美人である。
 
 しかし、近親婚により、ツタンカーメンは遺伝疾患を患い、右足は指が欠損し、死亡時の大腿部骨折とは別に、
左足が変形し、無血管性骨壊死(血流不良で骨が死ぬこと)も患っていた。
 墓からは、杖がいくつも見つかっているが、杖なしでは歩けなかったようだ。
 
 さらに、ツタンカーメンの妻アンケセナーメンは、ツタンカーメンの異母姉か、同母姉と推測される。
 これでは、生物学、遺伝学において、良い生体を作るのは無理である。
 移植は近いほど良く、生殖は遠い程良い。

 いろんな遺伝子が組み合わさりバリエーションが増え、さまざまな免疫を持つことが出来、環境への適応力が増す。
 病気疾患にも強くなり、進化の速度が上がるのである。


 雑種は生物として、優秀である。思わず、庭に座っている雑種猫を見た。猫

 3300年前、若き王を死に至らしめた、マラリア原虫のDNAが分かったのも興味深かった。
 しかもDNAは複数で、ツタンカーメンは何度もマラリアに感染したことが分かる。
 今回、ツタンカーメンおよび家族の11体のミイラが調査されている。
 そのDNAは、何重もの近親婚を証明する。

  歴史特に考古学は、科学と切り離せない。
 DNA解明など科学発展と共に、歴史も解明されていく。
  新たな、発見をまた楽しみに待ちたいものである。

 

【2010.02.27 Saturday 09:50】 author : いづな薫 
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桜井茶臼山古墳から、81枚の銅鏡
奈良県桜井茶臼山古墳から、81枚もの銅鏡が出てきましたね。

 今回出土の三角縁神獣鏡(さんかくぶち・しんじゅうきょう)の破片には、「」の一字が見える。
 これは蟹沢古墳(群馬県高崎市)で出土した鏡の、「正始(せいし)元年陳”是”作」の「」と、
文字形がぴたりと一致するのだ。
 つまり、同じ鋳型。

 正始(せいし)元年とは、西暦240年。

 この240年という年、極めて重要である。
卑弥呼が魏の国に使者を遣わしたのが、景初三年(239年)、使者が帰国した年が翌240年と考えられるのだ。
 卑弥呼が、銅鏡100枚や金印、太刀を受け取った年と思われる。

 贈答品はたくさんあり、一部抜粋だが、魏志倭人伝に、魏王は卑弥呼の使者にこう言ったと記述される。

五尺の大刀二口(二振り)、銅鏡百枚・・・etcを与える。持ち帰って汝(なんじ)の国中に示せ」 

  卑弥呼の鏡100枚のうち、1枚の可能性が高いのである。
 邪馬台国の場所特定に、一石を投じるかもしれない。

 三角縁神獣鏡は、東京国立博物館の「皇室の至宝展」でも展示してあったが、日本国内で500枚以上見つかっている。
 しかし、配布元と思われる大和地域では今まで発見されていなかった。
いやいや、陵墓を掘ればざくざく出るのかもしれないが。笑

 今回出て来た、計13種81枚の鏡の内訳は、中国産10種41面、国産が2種14面。
 三角縁神獣鏡は26面。
 三角縁は、魏が卑弥呼のために、特注したとの説もある。
 中国では発見されないため、国産か中国産で以前から議論が続く。

 桜井茶臼山古墳は盗掘され、被葬者の遺体はないが、防腐剤の水銀朱が200kgも確認されている。
 鏡がたくさん副葬されていることは、絶大な権力の大王級の人物であることは間違いないだろう。

 大和政権の国家戦略において、為政者は鏡を地方豪族にあげることで、支配していた。
 茶臼山古墳の被葬者が、卑弥呼から鏡をプレゼントされ、卑弥呼と同盟関係を結んだことも考えられる。
 例えば、240年に被葬者はまだ若く20歳代くらいの時、卑弥呼に会い、直接鏡をもらった可能性もあるという。
 桜井茶臼山古墳の築造年代は280年くらいとも、3世紀初頭とも言われる。
長生きして、その頃埋葬されたかもしれない。
 80歳位まで生きた卑弥呼をはじめ、穀類に、魚、新鮮な生野菜、仏教伝来前なので肉も食べ、ゴマや胡桃など、良い食材を食べていた古代人は意外と長生きである。

 今回の鏡、ばらばらに壊れていて、おびただしい量の破片が見つかっている。
 盗掘に遭った時、踏み潰されたのか、もしくは埋葬した時すでに壊れていたのか。
 銅鏡が、いつどのように破損したか不明である。
 年代を経た銅鏡は、ぼろぼろで壊れやすいと、仕事で触ったいづなの歴友ゆきさんから聞いた。
 ゆき殿、良かったら補足してくだされ。

 おととい、こんなニュースも流れた。
奈良県の東大寺山古墳から出土した剣の文字が、純金だという。
 刻まれた文字は「中平□年五月丙午〜」、西暦184〜189年に当たる。
卑弥呼が、生きた時代である。ちなみに曹操もいる。
 純金は、当時日本にはない。
 魏志倭人伝にあるように、「卑弥呼が、倭国の大乱を収めた頃」と合致し、卑弥呼が魏に使者を送り、譲り受けた剣と推測も出来る。
 純金文字の剣を誇示し、権力の象徴としたのではないか。

魏志倭人伝にある言葉、

五尺の大刀二口(二振り)、銅鏡百枚などを与える。
持ち帰って汝(なんじ)の国中に示せ
」 

 これが、日本古代史最大の謎・邪馬台国を解き明かす、暗号に思えてきた。


PS.鏡の破片は2010年1月13〜31日、橿考研付属博物館(橿原市、近鉄畝傍御陵前駅から徒歩5分)で展示。
 東大寺山古墳の剣は、東京国立博物館で、6月6日まで展示します。いくぞ〜。 

【2010.01.08 Friday 18:38】 author : いづな薫 
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纏向遺跡(まきむくいせき)


 またもや、目の覚めるような古代史記事を新聞で読んだ。
奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)で、大規模建物跡が見つかったと言う。
南北19.2m、南北12.4m、面積238屐△泙弔蠅瓦箸判擦泙い鮃腓錣擦慎榲造里茲Δ雰物が建っていたらしい。
 この建物は、1700年くらい前の物で、その前の弥生時代の物とは、完全に一線を画す遺跡である。
 建っていたと思われる建造物は、この時代珍しい一列に並び、祭壇を意味するとされている。
 出雲大社や伊勢神宮に似ている建物が、混在しているのも珍しい。
大変な水準の文化が、この時代畿内にあったことになる。

 では、この宮殿に住んだ権力者は誰か?
真っ先に名前が挙がるのは女王卑弥呼である。
  
 卑弥呼の存在を語る文書は、中国歴史書で3世紀に書かれた「魏志倭人伝」である。
 そーなの、魏とは三国志の曹操の子孫の国なのさ。
 あのカッコいい諸葛孔明だって、卑弥呼と同じ時代を生きているのさ。
 この時代、中国と日本は、そのくらいの文化レベルの差がある。笑

 2世紀後半の西日本は小さな国が対立して戦っていて、やがて30あまりの国が邪馬台国と言う国にまとまる。
その王が、卑弥呼である。
 卑弥呼は魏に使者を送り、魏からは鏡や金印を贈られたりしている。
 「魏志倭人伝」には、邪馬台国への行き方が書いてある。


 しかし、その通り行くと、太平洋にどぼん汗してしまう。
 つまり、地図の説明がまちがっている。笑

で、邪馬台国はどこだ?!と言う論争が湧き上がった。
どこにあったのかは、今も謎である。

 北九州と畿内には、大規模な遺跡と遺跡から分かる進んだ技術が分かっており、早くから有力候補に上がっている。
 今回の発見は、邪馬台国畿内説を押し上げるかもしれない。
 
 奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)の範囲内に、箸墓と言う前方後円墳がある。
古墳時代初期のもので、全長280m。
 箸墓の建設時期が、古墳及び周辺出土の土器・付着物から放射性炭素年代で測定し、西暦240〜260年頃と絞り込んだのだ。
 ちなみに、箸墓本体は陵墓(宮内庁管轄)のため調査できない。
おのれっ、また陵墓の壁か!

 「魏志倭人伝」から、卑弥呼が247年に死去したと推測される。
卑弥呼が生きていた時代、高度な土木技術を要する大規模な墓建設をなし得た権力者、それは卑弥呼本人に他ならない。
 卑弥呼自身が、自分の墓を建設させていた可能性が高いのである。
近年、考古学の世界は年輪年代測定と放射性炭素年代測定の照合により、1万年位さかのぼって対応表ができている。

ケーキ さて、放射性炭素なんちゃらとは何か。
動植物は生きている間、炭素があるが、死ぬと体内の炭素が増えも減りもせずそのまま残る。
これを、はかっちゃおうと言うわけ。
 その動植物が、いつまで生きていたか分かる。


ケーキ 年輪年代なんちゃらとは何か。
木は気候が良ければよく成長し、悪ければ年輪の幅が狭い。
 それを何十年〜200年くらいの幅で見ると、木の種類によって規則的な繰り返しが見られる。
 気候が年輪に刻まれ、歴史年代のものさしが出来ているのである。


 そこで、古い建造物や遺跡から出土した木材を照らし合わせると、
伐採された年が1年単位どんぴしゃりとわかる。
 例えば、滋賀県の紫香楽宮(しがらきのみや〕の柱根を測定し、建設年および季節まで特定している。
しかもそれが、古文書『続日本紀』の記述と合致したのである。
 歴史が現代の科学で精緻に証明され、鳥肌が立つような感動を覚える。

 この測定法の日本における第一人者の光谷氏が、先日の「天平を駆け抜けた男と女たち」にもご出演されていた。
 ドラマはつまんなかったが、光谷先生登場で、思わず身を乗り出して見た。
 解体修理中の唐招提寺の材木で、樹皮近くの年輪が残る柱を嬉々として探されていた方である。
 考古学者でいらっしゃるが、もとの専門は植物である。
 私はかつてこの方の論文が好きで、読んでいた。
違う分野からも歴史は、解明されていくのである。

 歴史は過去のものだけれど、新たな発見の連続で、科学の進歩でどんどん本来の姿を現していく。

 邪馬台国に関しては、鏡・剣など王権を裏付ける決定的な物の出土が待たれる。
 纏向遺跡(まきむくいせき)はまだまだ調査途中で、新たな発見がまたあるかと思うとわくわくする。

【2009.11.11 Wednesday 20:11】 author : いづな薫 
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唐招提寺1200年の謎
「天平を駆け抜けた男と女たち」の感想〜。
僧と戒律の世界である唐招提寺に、男女の愛憎って何よ、と思って見ていたが、なんと言うことはなかった。
 孝謙天皇と道鏡は、史実どおり怪しかったが。笑
独身が定めの女帝、ちっと位いいじゃないかと思ったが、この彼氏、政治に口出すし、うーん相手が悪かったな。

 鑑真の5回にも及ぶ日本への渡航失敗、6回目の成功、戒律を広めるための苦難、鑑真没後60年にわたる愛弟子如宝の努力、人とは凄い事をなし得るものだと思う。

 孝謙天皇や藤原仲麻呂ら、泥仕合する連中もいれば、鑑真と如宝の神のような
高潔な精神を持つ人間もいる。

 仲麻呂に、刷雄(よしお)のような英邁で清廉な息子がいることに、面白みを感じる。
 父・仲麻呂が乱を起こし妻子郎党が斬られても、遣唐使だった彼だけは隠岐へ島流しになった。
 当時遣唐使は大切に扱われ、罰を軽減された。


 いづな、書棚の古代史料を引っ張り出してみた。
写真の「続日本紀」「日本後紀」には、鑑真や唐招提寺、鑑真亡き後如宝の生きた桓武天皇時代のことが記録されている。
 鑑真に関しては1300年近く前の人なのに、生没年、経歴が克明に記録され、彼がいかに高僧だったかがわかる。

 ドラマとは違い、歴史学は極めてドライで、残された史料をもとに仮説と想像力で実証を重ねていく学問である。
 俳優が演じるような喜怒哀楽はなく、どちらかと言えば科学に近い。
 だが、みな現代のニュースを見るようにそれらは実際あった事で、1300年近い時を経てもリアリティーをもって伝えてくる。

 しかし、古代史となると史料が格段に減り、ドラマを作ろうとすると、創作部分が圧倒的に多くなる。 
 その創作部分をいかにドラマティックに見せるかが、脚本家の腕である。
今回のドラマ、ドキュメンタリーとドラマを分け、当時の国際色豊かな様子もあると良かった。
 遣唐使の刷雄(よしお)や如宝が、語学堪能な所なんかも見せると面白い。 

 嵐で船が遭難する以外にも、高僧鑑真が、日本に行ってしまうのを惜しみ、密告で渡航出来なくなったり、鑑真の苦難は12年も続く。
 鑑真が66歳、6回目にして初めて成功し、鹿児島県坊津に到着する。
 到着しても、政治抗争、疫病流行に悩まされながら、鑑真は唐律招提(とうしょうりつだい)と言う、私寺を建て亡くなる。
 唐招提寺となり発展したのは、弟子如宝の時代で、現在ある金堂は彼の尽力により建てられたものだ。
 
 如宝は、鑑真没後60年あまりを日本で生きた。
唐の宝と言われた鑑真の高潔な精神は、84歳の長命を保った如宝によって、日本に伝えられていくのである。

【2009.11.05 Thursday 11:46】 author : いづな薫 
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