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戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
軍師官兵衛「非情の罠」
 荒木村重謀反で、説得に乗り出すことになった黒田官兵衛。
ドラマにも出て来た小寺政職の「官兵衛がそちらに行くから、殺してくれ。」の書状について一考する。
実はこれ、ドラマの創作ではない。
元になった史料がある。
黒田家に伝わる、公式の歴史書「黒田家譜」に記されている話である。
作者は、江戸時代の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん1630-1714)。
黒田藩の藩命により編纂したものである。
貝原益軒は、日本史の教科書でも「養生訓」などでお馴染みである。
益軒は、福岡(黒田家)藩士の子で藩医でもあった。
官兵衛の没後生まれた人で、「黒田家譜」も殿様顕彰の意味合いが強い。
公式の記録だけれども、信憑性があるか、となるとまた別の話である。
問題の「官兵衛を殺してくれ」の記述だが、ありそうな話ではあるが実際そうであったかどうかとなると極めて疑問である。

小寺政職の真意は確かめるべくもないが、とにもかくにも官兵衛は有岡城に捕まった。
幽閉中の史料はほとんどない。
官兵衛が、幽閉され殺されなかった理由についてもまた不明。
荒木村重がキリシタンで、同じキリシタンの官兵衛に手を下せなかった説もあるが、ルイスフロイスがその書簡で、村重を「甚だ強勢なる異教徒」と記していることから、この説は違うと見た方が良い。
高山右近に感化された官兵衛が、どの時点で入信したのかもわからない。
史料はこんな具合である。

次はドラマについて。
村重が官兵衛に、小寺政職が「官兵衛を殺せと言って来ている。」と明かした時の官兵衛の衝撃の度合いが良かった。
ドラマに十分なクライシス(最大危機)だと思う。
これが上手く書けていないと、ドラマ小説のたぐいは全く面白くない。
主人公は苦労してなんぼである。

さて官兵衛は、ほぼ1年間の入牢生活が始まる。
陽が差さないじめじめした場所で、桶にたまった自分の排泄物が床にこぼれ、外も同じ場所で暑い夏も寒い冬も過したことになる。
官兵衛が幽閉された天正6年は、播磨、畿内だけでなく世の中が大きく動いた年でもある。
春3月には、反信長グループの支柱だった越後の上杉謙信が入滅。
官兵衛が幽閉されたのは、秋10月のことである。

【2014.05.13 Tuesday 19:51】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「裏切る理由」

信長は、よく裏切られる。
三木城の別所長治に続き、今度は有岡城の荒木村重である。
秀吉らが三木城を攻めている最中の、天正6年(1578)10月のことである。

荒木村重と言う人物を見てみたい。
当時、日本に来ていたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その書簡の中で、村重は「収入及び所領多く、甚だ強勢な異教徒。」と述べている。
荒木村重の治める摂津国と言うのは、守護が3人もいた。
そのうちの1人池田勝正に遣えていたのが荒木村重である。
在地武士であった伊丹氏を追い出し、伊丹城主になり有岡城と名を改めた。
その村重を、信長が重用し摂津国の支配権を持たせたのである。
そして、苛烈な信長が村重の失敗に対しては寛大だった。
三木城攻めに、秀吉麾下の武将で参加しているはずの荒木村重が、突如戦線離脱して居城有岡城に帰ってしまう。


信長は、明智光秀や松井友閑、万見仙千代を派遣して事情を調べて来るよう命じる。
ちなみに、荒木村重の嫡子村次の妻は明智光秀の娘である。
縁故関係からもこの人選が行われたようだ。

大変優遇していた荒木村重が、裏切るはずはない、これはある時期まで信長の本音だった。
謀反の疑いがあっても、信長公記にも「少しも野心御座なきの通りを申し上げ候。」と、
村重の謀反を否定している。

しかし、荒木村重は信長の召還にも応じなかった。
村重の謀反は、播磨攻め最前線にいる秀吉や官兵衛にとって別所長治謀反以上の衝撃がある。
西から位置を確認すると、秀吉らのいる三木城(城内には別所長治)摂津の荒木村重、安土城の信長と言う順番になる。
これは秀吉らが信長との連絡を断たれ、敵地に取り残されるのを意味する。
戦況を打開するため、誰の案かは不明だが官兵衛が有岡城の荒木村重説得に行くことになった。
黒田家に伝わる公式の記録「黒田家譜」には、驚くべきことが書かれている。

小寺政職は、官兵衛に村重を説得するよう有岡城に行かせた。
「成功すれば、小寺は織田に味方する。」
それとは別に、小寺政職は荒木村重に告げる。
「官兵衛がそちらに行くから、”殺してくれ。”」

官兵衛の進言で、織田に組したことを後悔した小寺政職が、自ら手を下すではなく、村重に官兵衛を始末させようとしたと言う説である。
この記述、否定も出来ないが肯定も出来ない。
黒田家譜とは言え、詮索しすぎを否めない。
記録は、当事者に都合良く書かれるので史料を幾つかあたらないとなかなか真実は見えてこない。

今回、石山本願寺に荒木村重家臣が兵糧を運び込んでいる説を採っていたが、あくまで俗説である。
ここらへんはまあ創作物なので。
もっとも強い理由は、毛利からの調略の手が伸びていたことであろう。
今まで、重用されて来た自分(村重)が信長に冷たくされ(そうでもないんだが)、秀吉が播磨攻めの中心になったことへの焦燥感があったのかもしれない。

荒木村重を謀反へと焚き付けていた中川清秀、最初は村重とともに戦う。(有岡城の戦い)
しかし、織田の大軍が攻め寄せると意を翻し家臣になり、村重を裏切った。
誰が味方か敵か判断が難しい戦国時代、よほど情勢を見極め且つ運もないと生き残れない。
中川清秀、茨木城の城主で高山右近の従兄弟でもある。

PS.地球儀に関心を持った信長、地球は丸いと初めて理解した日本人だとも言われている。

写真は、全て私が今年撮った大坂府伊丹市の有岡城跡。
ここを訪ねた時のことも、おいおい書きたい。

【2014.05.05 Monday 20:16】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「見捨てられた城」
第2次上月城の戦いのキーマンは宇喜多直家である。
抜け目ないのが特徴と言われる播磨人だが、この人物は特に得体が知れない。

上月城を包囲する毛利軍の中には、宇喜多軍が含まれている。
天正6年5月、足利義昭は宇喜多直家に毛利へ人質を出すように求める。「萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)
誰が敵か味方か分からないような中で、毛利が、宇喜多を味方にしておきたかったと思われる。
「萩藩閥閲録」これが凄い史料である。
毛利家氏やその家臣、戦国時代の大内氏、尼子氏など中国地方の豪族の興亡が記され、鎌倉、南北朝期、戦国時代、
織田豊臣時代を含む歴史学不可欠の一級史料である。

織田軍が上月城救援を断念し、兵が引いていった後、毛利軍が以前にも増して激しい攻撃を加え、城は落城。
天正6年7月3日(1578年8月6日)尼子勝久自害。享年26歳。
その家臣の山中鹿介(しかのすけ)は、同年7月17日(8月20日)備後国鞆の浦の毛利輝元の下へ送られる途中、
阿井の渡し(岡山県高梁市)で謀殺された。享年34歳。
これで、尼子家再興の悲願は潰えた。
尼子は潰れたが、山中鹿介の子孫が、鴻池の祖となり〜三和銀行〜三菱UFJと変遷していくのは前回述べた。
※注 今回のお話は第2次上月城の戦い。1次は、光(てる)の姉らが戦った戦である。

天正9年7月20日には神吉城落城、8月には志方城が落ちている

「武功夜話」によると、尼子・山中らの立てこもる上月城救援を秀吉、官兵衛らが断念した時点で新たな展開がある。
備前の宇喜多直家を説得しようとするのである。
蜂須賀正勝、竹中半兵衛が相談し、実際の説得は黒田官兵衛が当たった。
第2次上月城の戦いの時、毛利軍の中にいたのは宇喜多直家本人ではなく、弟の忠家である。
当主の直家は、病。
本当に病かどうか分からないのがこの人。
秀吉がこの頃播磨から安土にやって来て、宇喜多を許すので信長の朱印をいただきたいと言った。
これに信長は、「あるじの許可もなく許すとは何事か!」と怒り、秀吉を追い返してしまった。
これが「信長公記」によると天正7年9月4日の条。
しかし、信長は結局許している。
戦略上、宇喜多直家を味方にした方が有利だと考え直したらしい。
「信長公記」、同年10月晦日には、赦免が決まり、宇喜多直家の甥が織田信忠に礼を述べている。
弟や甥が頻繁に出て来る所をみると、病が真実になって来た頃か。
嫡男秀家は、まだ8歳ほどである。
秀家の母のお鮮(円融院)、そう直家の妻は前回出て来た正室お鮮。さすが下世話に見える直家夫婦。笑
宇喜多直家の没年は、信長と同じ天正10年(1582)である。
下血があった言うから、消化器系の重い疾患と見受けられる。

短く感想。
大きな勢力に頼った、上月、志方が見捨てられた。
自立し抜け目なく動き、味方に付けると得だぞくらいに交渉しないといけない。
現代の政治もそうだが、尖閣を安保に入れると米国に承認させても武力衝突が起きれば口約束に過ぎなかったと言うことがわかるはず。
安倍の国内向けアピールに過ぎない。
毎回感じることだが、官兵衛の妻てるの書き方がつまらない。毎回泣くのも閉口。
司馬遼太郎氏の官兵衛作品「播磨灘物語」のような闊達さがない。
NHK経営委員長谷川氏が、”女性は家庭で子育て、男性は外で仕事”と言っていたがその反映か。

【2014.04.28 Monday 21:49】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「上月城の守り」
市民団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が、籾井会長が4月中に自ら辞任しない場合、半年間受信料不払い運動を視聴者に呼びかけるそうだ。
私は受信料を昨年度内に前払ってしまったが、これに消費税分を新たに徴収すると言う。
違法ではないが、会長籾井、経営委員らの言動を見て払う気になれない。
視聴者は、NHKに意志を示す必要がある。
 
さて、16世紀末の播磨でも織田に反旗を翻す武将続出。
その1人、三木城の別所長治は播磨の中でも格段に大きい43万石の領地を持っている。
別所造反に、官兵衛の妻光(てる)の実家も毛利に寝返る。櫛橋伊則(これのり)である。
この時点で、毛利に近い西側から主な城を並べてみる。
上月(尼子勝久&山中鹿介〔しかのすけ〕主従)、姫路(秀吉)、御着(小寺)、志方(櫛橋)三木(別所)となる。
その隣りはもう、荒木村重のいる摂津(現大阪)である。

三木城攻めを信長から命じられた秀吉は、姫路城を出て、書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)に陣を敷く。
秀吉は、この時、寺の持仏と27000石あった寺領を没収、500石だけ寄進した。江戸時代は833石で推移。
今回、ロケに使っている。
私もかつて訪ねたが、当時の建造物が残っていて大変貴重である。

秀吉は、三木城攻めに当たり、まずは支城のひとつ野口城(現兵庫県加古川)を攻略。
本拠地の三木城はまだ手が出せない。
毛利が、動き出したからである。
毛利は三木城を毛利方に寝返らせることに成功。
そして、毛利元就時代から煮え湯を飲まされて来た尼子&山中主従が上月城でお家再興を果たそうとしている。
毛利にとって、尼子と山中は同じ空気を吸いたくないほどいやな奴。
毛利が播磨攻めに用意した軍勢は5万、毛利総動員と言っていい数字である。

さて、私の注目キャラ、宇喜多直家。笑
宇喜多が何をしているかと言うと、毛利に組していながら、仮病?を使って自らの出陣は無し。
弟の忠家を代わりに出している。
織田とは一戦を交えるつもりはないのか、鞍替えを考えていたのか、実際この後、宇喜多は織田に傾いて行く。
尼子勝久と山中鹿介の守る上月城を、毛利軍5万が包囲。
秀吉は、三木城攻めを保留にして上月城救援に向かう。
しかし、その数1万のみ。
信長や秀吉の戦いと言うのは、物量戦である。
兵の数がそのまま、勝敗を決する。
信長が一か八かの戦をしたのは、生涯ただ一度”桶狭間”だけである。この1回に留めたのが信長の利口な所でもある。
上月城を毛利に取られれば、既に毛利派の別所、櫛橋の他にも寝返り続出が避けられない。
信長にとって、もはや非常事態である。
信長は、援軍を出すことを決めたが、これが豪雨と大洪水で出陣中止になってしまう。
そして、上月城の近くにいて即援軍になりそうな明智光秀や滝川一益がどうもやる気がない。
頑張っても、秀吉の手柄になるのがいやなのか。

業を煮やした秀吉が、なんと陣中を抜け出し京都にいる信長に”豪雨で中止になっていた援軍”を出して欲しいと直接請いに行ったのである。

信長の返答は「上月城を見捨てろ。」
城を明け渡し、脱出しろと言うことである。
しかし、尼子勝久&山中鹿介(しかのすけ)主従は拒否。徹底抗戦を選んだのである。

山中鹿介、生涯のうちで何度か捕まっては逃げると言う危機をすり抜けている。
毛利元就の息子吉川元春に捕まり尾高城(おだかじょう・現兵庫県米子市)に幽閉された時、「赤痢になった!厠に行きたい!」騒ぎ、何度も厠に行った。
そして、頃合いを見て肥溜めにドボーン。
糞尿まみれになりながら逃走しまんまと逃げおおせる。

しかし、上月城が落ち毛利に捕らわれた時はもう逃げられなかった。
毛利輝元のもとへ、護送される途中毛利家臣により謀殺された。
この山中鹿介(しかのすけ)の子孫が凄い。
次男新六は、後の両替商・鴻池(こうのいけ)の祖となり、鴻池財閥となり、やがて三和銀行になる。
いろいろ合併して、今や三菱UFJフィナンシャルグループである。

【2014.04.22 Tuesday 11:20】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「人質松寿丸」 松永久秀
官兵衛に、興味深い人物が出て来た。
戦国の梟雄(きょうゆう)松永久秀(まつながひさひで)。
この前出て来た宇喜多直家に輪をかけて、悪行、悪名で知られる人物である。

国宝・上杉本洛中洛外図屏風(米沢市上杉博物館所蔵)の中に、松永弾正邸が描き込まれている。
 16世紀に、織田信長が狩野永徳に描かせ、上杉謙信に贈った品である。
六曲一双の紙本金地著色の屏風には、室町幕府の三管領の一家として権勢を誇った細川家や、
摂津国半国守護代の薬師寺備後守と、同半国の守護代三好筑前守ら政治的地位や権力に相応して屋敷が描かれている。
そこへ、三好家の家来の松永弾正邸が描きこまれている。
これは、松永が京都で大きな権力を振るっていたことが考えられる。

ある時、織田信長が徳川家康に、松永久秀のことを紹介している。

「徳川殿に紹介する。これが松永弾正である。
この老人は、今まで人がやらぬことを三つまでやりおった。
一つめは、将軍殺し。
二つめは、主君三好家への謀反。
三つめは、奈良東大寺の大仏を焼いたこと。
並みの者ではその一つでも出来ぬ。それを三つやってのけた。
油断のならぬ物騒な老人である。」

信長、家康、松永久秀がいつ面会したかは書かれていない。
この史料は江戸時代中期に書かれた「常山紀談」という逸話集で、信憑性は高くない。
主従関係のしっかり出来上がった江戸時代中期に書かれたものなので、松永久秀にはことさら厳しいのかもしれない。

松永の悪行一つめ、”将軍殺し”だが、殺されたのは室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)である。
この将軍、畿内を牛耳る三好家とその家臣の松永久秀と対立が激化していた。
将軍足利義輝は、関白近衛前嗣(このえさきつぐ)と共に、越後の上杉謙信に接触を図りその軍事力により、三好松永を一掃しようと考えていた。
(義輝、近衛、謙信の接触を散々邪魔したのも松永。上洛した謙信の接待役だった松永は、近江国坂本に謙信を留まらせ、なかなか入洛させなかった。)

松永久秀の主君・三好長慶(みよしながよし)の弟実休(じっきゅう)を、将軍足利義輝が殺害させている。
三好、松永にしてみれば、足利義輝は仇である。

松永の悪行二つめは、将軍殺しを一緒やってのけた主君三好家への謀反である。
ただ、本当に謀反に当たるか真相は不明。
主君・三好長慶の嫡男が、22歳で突如亡くなったので、毒殺の噂が流れたがよくは分からない。
嫡男の死後翌年、父の三好長慶も死去。
長慶の没後、力を持った3人の三好一族(三好三人衆)と松永久秀は争いを繰り広げる。

三つめの、奈良の大仏焼き討ち。
松永と同じ、大和国(奈良県)を本拠地とする筒井順慶は、松永の積年のライバルである。
三好三人衆が、筒井順慶と結託し、松永と戦になった。
永禄10年(1567)決戦の場所は、奈良東大寺界隈。
奈良町に三好三人衆が陣を敷き、松永が東大寺戒壇院に立てこもった。
ドンパチやった結果、鉄砲火薬に火が付き
大仏殿や、ほか伽藍が炎上してしまったのである。

その十年後、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長が最大のピンチを迎えていた。
強大な勢力を誇る越後の上杉謙信が、京に向けて北陸路を進軍して来たのである。
能登、北陸辺りまで上杉軍で充満し、織田軍は手取川の戦いで大敗を喫する。
その時、松永久秀が信長に謀反を起こした。

松永が謀反を起こしたのは、初めてではない。
武田信玄がやはり今日に向けて進軍した時も、謀反に転じた。
その時は、居城で壮麗な多聞城(奈良)を信長に差し出し許された。

今回、謙信が京に迫り、しかも加賀の手取川で織田軍を撃破した時は、松永久秀も信長から離反するのは今!と踏んだであろう。
しかし、松永の読みは外れた。
謙信は、大勝したのにもかかわらず、越後に帰ってしまう。
謙信の留守中、関東で北条氏が動き始めたからである。

謀反を起こした松永久秀に、信長が持ちかける。

「名物・平蜘蛛の茶釜を差し出せば一命を助けてやる。」

永は、断った。
爆薬で、おのれの首も茶釜も吹き飛ばしてしまったのである。

織田信長が、浅井長政の謀反に遭い、九死に一生を得た退却戦に「金ヶ崎の退き口」がある。
信長の退却路賭して確保したい場所に、朽木谷の領主・朽木元綱(くつきもとつな)と言う人物がいた。
彼は、もとは浅井方の武将で、松永久秀が危険を覚悟で説得し信長を無事逃したことがあったのである。

苛烈で非情な信長が、2回までも松永久秀を許そうとしたのは、絶体絶命「金ヶ崎の退き口」のことがあったのかもしれない。

【2014.03.27 Thursday 22:04】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛 「謙信、謙信」

軍師官兵衛「命がけの宴」の回で、「謙信、謙信」と信長、秀吉、柴田らがうちのお屋形さまを話題にしていますな〜。
秀吉「まともに当たって、勝てる相手ではない。」そうなんだけどね。
軍師官兵衛の中で、信長が飼っている鷹、もしや謙信公が鷹匠付きでプレゼントした鷹かしら。
 

【2014.03.21 Friday 19:31】 author : いづな薫 
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戦国のワルモノ君、宇喜多直家
1560年代美作国(みまさかのくに 岡山県北東部)では、宇喜多、浦上、三村の抗争が激化。

永禄9年(1566)突如として、三浦家親(みむら いえちか)が暗殺される。
討ったのは、宇喜多直家である。
直家の命を受けた遠藤河内守と修理兄弟が、酒宴中の三村家親(みむら いえちか)を鉄砲で狙撃して殺害。
酒宴、茶会中に暗殺するのは、宇喜多直家の常套手段である。

当時、鉄砲での暗殺は珍しく且つ、火縄銃にそれほどの性能があったとは考えにくい。
たまたま、命中したのかもしれない。

たまたま当たっちゃったのに、味を占めたのか、今度は鹿狩りで
”鹿と間違えて撃ってしまいました事件”を起こす。

鹿と間違えられたのは(間違えていないが)、備前国・金川城主・松田元賢(まつだ もとかた)の中心的家臣、
宇垣與右衛門(うがき よえもん)。
交通の要所に居を構える松田氏は、宇喜多家が備前で勢力拡大していく上で邪魔だったのだ。

松田の有能な家臣をあげると、横井土佐、橋本、宇垣兄弟。
宇垣與右衛門(うがき よえもん)は、宇垣兄弟の弟である。兄弟とも謀略に優れた。
横井は医師でもあり、敵味方関係なく医療を施す仁愛の持ち主であった。
バランスの良い家臣団に支えられた松田氏は、強力な勢力を保持。

永禄11年(1568)、松田氏討伐を決めた宇喜多直家は、松田氏の城の近く金川で狩をしたと言う。
宇喜多直家は、殿様の松田元賢(まつだ もとかた)の妻の父である。
つまり、義理のお父さん直家が狩をしても、怪しまれない。
しかし狩の最中、鹿を撃つふりをして、松田の家臣を宇垣兄弟の弟の方、與右衛門(よえもん)を撃ち殺す。
狙撃者は不明とされた。

事件をきっかけに、宇垣の兄・市郎兵衛が城を出てしまい家中崩壊のきっかけを作ったのである。
実際、謀反の疑いをかけ、城内に攻め込み城は落城、松田氏は逃亡したとも討ち死にしたとも伝わる。

宇喜多直家は重要人物の暗殺を繰り返したが、大きな戦で兵が大量に死んだり農村が焼かれたりしないので、
庶民はこの方がましだったかもしれない。

人だまし他家を乗っ取り、邪魔者は暗殺、ワルモノ君な直家、畳(床)の上で死ねないと思いきや53歳で
無事病死。
当時の平均寿命からすれば普通、若干長いくらいである。
浦上宇喜多両家記には、「下血の疾」とあるので下血を伴う重い消化器疾患だったようだ。

【2014.03.20 Thursday 19:34】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「命がけの宴」宇喜多直家
 NHK籾井会長&経営委員の暴言だけでも大問題だが、今度は渋谷の放送センター建て直し計画が浮上している。
2008年、NHKは経費流用の不祥事の影響で受信料の不払いが拡大した。
信頼回復のために、受信料収入の10%還元を計画したが、実行せず10%還元どころか、3400億円もの放送センターの建て替えを計画している。
民間の2〜3倍と言う豪華なもの。

政府の御用メディアであることもさることながら、何なのだこの体質。
再度の不払い運動した方が良い。


さて、軍師官兵衛に面白い人物が出て来た。
戦国のワルモノ君、宇喜多直家(うきたなおいえ)。
五大老の宇喜多秀家の父である。
どう悪いかと言えば、暗殺なんて朝飯前、「裏切りの常習犯」である。

舅の城の近くに茶亭を建て、何度も招いたところで暗殺。
舅の居城・沼城(岡山市)も奪う。
直家の妻は自害してしまう。
この舅暗殺でグルだった、直家の主君・浦上宗景も追放。

さて次に潰す獲物は、穝所元常(さいしょもとつね)。
宇喜多直家の姪の婿だと言う。
最初、直家と元経は上手く行っていたがやがて隙間風が吹き始める。
直家は当時、毛利と敵対しており、その毛利に穝所元常(さいしょもとつね)がなびき始めるのである。
毛利が、莫大な恩賞で釣り謀略を仕掛けて来たのである。

直家は、弟忠家に命じて、穝所元常(さいしょもとつね)の居城・龍ノ口城を攻撃させるがなかなか落ちない。
で、別の手を考え始める。

穝所元常(さいしょもとつね)は、若衆好きだと言う。
直家は、重臣の長船と岡と話し合い、美貌で知られ尺八の名手の小姓・岡清三郎を送り込もうということになった。
実に、手の混んだ謀(はかりごと)が始まるのである。

小姓の岡清三郎がある日、あるじ、直家の妾と密通した。
怒った直家は、岡清三郎を城から放逐する。
巷に出た岡は、乞食老婆をだまくらかし、自分の母として仕立て上げる。

そして岡は、須須木豊前守(すずきぶぜんのかみ)と言う領主の城へ駆け込んだ。
須須木豊前守(すずきぶぜんのかみ)と言うのは、宇喜多直家が殺そうとしている穝所元常(さいしょもとつね)と敵対関係にある。
そこで、採用されしばらく仕えていたが、ある時、主君・須須木豊前守(すずきぶぜんのかみ)の愛馬を盗み出し出奔。

そのまま、今度は穝所元常(さいしょもとつね)の龍ノ口城に駆け込んだ。
怒った須須木豊前守(すずきぶぜんのかみ)は、岡の母親を処刑。
が、実母ではなく、やとった乞食老婆である。
処刑は、最初から計算の内。
が、岡は母を殺されてひどく嘆き悲しむふりをし、穝所元常(さいしょもとつね)が哀れんだ。
美男の涙にコロリと引っかかった殿様。
岡は、家臣として仕え、寵愛を受けるようになった。

ある時、穝所元常(さいしょもとつね)が酔って帰城した時、岡は主君の胸をザクリと刺してしまう。

首を持って、真のあるじ宇喜多直家の用意した船で城に帰る。
あるじを突然失った、穝所元常(さいしょもとつね)の龍ノ口城では、戦意喪失。
あっけなく、直家の元に下っている。

【2014.03.19 Wednesday 20:45】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「死闘の果て」「信長の賭け」
都知事選で休んでいた、大河ドラマ「軍師官兵衛」の記事だがその前に、
最近のNHK会長、経営委員の百田尚樹氏、長谷川三千子氏の暴言、妄言に怒り心頭である。

安倍首相と思想を同じくし、極めて近い存在の人たちである。
NHK籾井会長は、「戦争地域には慰安婦はどこにでもあった。
なぜオランダには今も飾り窓(売春宿)があるのか。
日本だけが強制連行をしたみたいなことを言うからややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っているわけだが、日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おかしい。」

経営委員の百田尚樹氏は、都知事戦中選挙カーに乗り田母神候補を応援。
他の3人の候補を「人間のくず」呼ばわりしている。
靖国参拝を安倍首相に勧めた。
憲法改正、軍隊創設論者。
憲法第9条第1項を否定し、「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、こっちには9条があるぞ!立ち去れ!と叫んでもらう。」

同じくNHK経営委員の長谷川三千子氏。
「日本の国柄は国民が天皇のために命を捧げる国体(国の政治原則)。」
「女は家で育児が合理的」、「生活の糧をかせぐ仕事は男性が主役となるのが合理的」
ではなぜ、この女性は埼玉大名誉教授なのか。
女性の社会進出を阻んだ先進国で、出生率が上昇した例はない。

安倍政権ができてから、マスコミを牛耳ろうとする力がより強くなっている。
戦争を始める時、政府がまず統制するのが情報である。
すでに大マスコミは、政府に都合の良い情報しか流さない。
都知事選でも、原発は争点でないとし報道を避け、選挙は盛り上がっていないと報道する。
政府に都合のいい世論調査を出し、報道を使ってその数値に近づけて行くから世論調査通りになる。
もはや、「当たった」なんて言うレベルものではない。数値に近づけるのである。

大河ドラマはここ何年かは見ていたが、今年毎回見るかどうか不明。
官兵衛は好きな題材だが、NHKの体質を考えると非常に腹立たしい。


前々回、前回はともかく見たので簡単に書く。
「死闘の果て」で終盤書かれていたのは、青山の戦と土器山(かわらけやま)の戦
当時播磨(現兵庫県あたり)は、龍野城の赤松政秀と、三木城の別所長治、官兵衛の主君の小寺政職の3人が治めている。
永禄12年(1569)、官兵衛24歳の時、龍野城主・赤松政秀が3000の兵で官兵衛のいる姫路に攻め込んで来た。
官兵衛は手勢300程度なので、姫路に籠城し主君の小寺政職の援軍を待つのが普通である。
しかし、官兵衛は青山と言う場所に布陣し、赤松を撃退。
官兵衛の名は多いに高まった。
ところが、青山の戦に続く戦で多大な犠牲を伴うはめになる。
黒田家に残る「黒田家譜」を見てみる。
青山の戦に続く、「また此比(このころ)」とだけ記されている土器山(かわらけやま)の戦は、赤松政秀を相手に、土器山(かわらけやま)で両軍激突。
官兵衛の叔父・井手友氏(いでともうじ)や、母里小兵衛、武兵衛親子が戦死。
武兵衛は最初の戦で7箇所負傷し、なおも戦に出て討ち死にを遂げた。

「信長の賭け」
そこで、母里(もり、ぼり)家にあらたに養子になったのが太兵衛(多兵衛とも)。長身俳優が演じている槍名人。
ちなみにこの人、「黒田節」のモデル。
母里氏は、尼子氏の末裔で、姫路近郊の妻鹿(めが)城主。
官兵衛のお守役で土器山の戦で戦死した母里小兵衛は、官兵衛の父・職隆の従兄弟である。
職隆は、従兄弟の小兵衛を母里に養子として送り込んでいるのである。
その小兵衛と武兵衛親子ら一族24名が、土器山の戦で戦死。
そこで、家老曽我大隅守一信(1516〜1577)の次男が母里家へ養子に入った。
これが黒田節の人。
友信と名乗り、後には秀吉が直参に欲しいと願い出たほどの勇猛な武者。
後で官兵衛が九州の豊後入国後、栗山、井上、母里それぞれ6000石で家老。
官兵衛が荒木村重の有岡城に幽閉された時、ひそかに忍び込み生存を確認し後に救出したメンバーである。
一老栗山、二老井上、三老母里と呼ばれた、官兵衛の側近中の側近。
頭はいいけれど、敵に捕まっちゃうちょっとトンマな官兵衛をしょうがないな〜と生涯支えた家臣たちである。

酒は呑め呑め〜♪の黒田節、の母里太兵衛友信。
文禄慶長の駅の頃、殿(当時は長政)の使いで、福島正則の元へやって来た。
この時、福島正則が酔っ払っていて、大杯で酒を呑むよう勧めた。
で、太兵衛、「あの槍をいただけたら呑みます!」
福島「おおし、わかった!一献吞んだらくれてやる!」
一献どころか、ぐいぐいと三献一気吞み。
ゲットした槍は、福島正則が秀吉から賜った名槍「日本号」。
翌日、泥酔から冷めた福島正則は真っ青。
返してくれと懇願したが、黒田家ゆかりの宝物として今も、福岡市博物館蔵。

【2014.02.12 Wednesday 15:49】 author : いづな薫 
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軍師官兵衛「命の使い道」
 東京は都知事選挙運動期間真っ只中で、官兵衛の記事を書く間が取れないでいる。
安倍政権の暴走を止められるか否かの大一番なだけに、現代がまさに戦国時代のよう。笑

さて、この回の官兵衛で、私の関心は堺を再現映像で見られたことである。
中世、摂津に存在した自由都市堺だが、大坂夏の陣の延焼で灰燼に帰し史料も多く失われてしまった。
南蛮寺(教会)があったり、珍しい舶来品を扱う商店が並び、活気溢れる様子が活写されていて面白い。

中世まだ民衆による自治が当たり前でなかった時代、堺は会合衆(えごうしゅう・かいごうしゅうとも)と言う
豪商たちによって自治が行われている。

泉州(大阪)堺は、町の三方を濠(ほり)で囲み、残り一方は海に向かって開けている。
東アジア、日明貿易などでまれに見る富を形成した町である。

かつて平清盛の頃から兵庫の港が栄えていたが、応仁の乱で衰退。
代わって、海外貿易拠点として発展したのが、堺である。
イエズス会宣教師・ガスパルヴィレラはこの町を、詳細に描写する。

「堺の町は甚だ広大にして、大なる商人が多数あり。この町はベニスの如く執政官により治められる。
〜この町は住民多数にして富み、且つ好地位を占有せる為、常に平和にして侵すべからず。」

この町は、ヨーロッパから来日したバテレンたちに自由都市・堺と呼ばれ、15世紀後半〜17世紀初頭まで南蛮貿易で繁栄を極めていた。

官兵衛は後に熱心なキリスト教徒になるが、入信を勧めたのは高山右近である。
播磨(兵庫)〜堺(大阪)と言う近さから、若い時堺に遊びに行ったりしたかもしれない。ドラマでは鉄砲を買いに行くことになっていたが。

荒木村重が浪人で出て来たが、この人が後に官兵衛を有岡城に閉じ込める人物である。
画家の岩佐又兵衛は村重の子で、有岡城の戦いの時信長軍に一族皆殺しに遭う中、奇跡的に生き残っている。

秀吉にお城を上げるくらい気前の良い官兵衛、ドラマでも荒木村重にお礼金を沢山あげていた。
官兵衛は倹約家だが、それは家臣に分け与えるためであり、人の良い人物だったのであろう。

竹中半兵衛の名を高めた稲葉山城のクーデターも出て来た。
半兵衛は後に、官兵衛・長政父子の命運に大きくかかわって来る人物である。
永禄7年(1564)、たった16人で白昼堂々城を奪うと言う物だった。
半兵衛は美濃の斉藤龍興(たつおき)に仕え、菩提山城を居城にしていた。
そして、龍興のいる稲葉山城には弟・久作を人質に出してある。
ちなみに稲葉城は織田が攻め取った後、縄張りが取り壊され同地に岐阜城が建てられる。

永禄7年2月6日、半兵衛は病気の弟久作のお見舞いに家臣16名と共に行く。
もちろん、弟とは事前に示し合わせてあり仮病である。
斉藤龍興(たつおき)の側近6名を殺害、城を奪取。
なぜクーデターに及んだかと言うと、龍興とその周りの良くない家臣を諌めるためだったとか言われているが、
真相は不明。
龍興は逃走、後に半兵衛は龍興に城を返すが、齋藤氏はこの事件により衰退が顕著になった。

【2014.01.24 Friday 10:58】 author : いづな薫 
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 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

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