大河ドラマ 龍馬伝 幕末 古代 上杉
since 2007.5.21 旅 | 戦国カフェ
   
 
戦国特に上杉家、幕末、古代、歴史を愛する日記です。時事問題も多いです。
 
鎌倉 光明寺

鎌倉、光明寺の裏山から見た海です。
花見と古寺めぐりに鎌倉を逍遥しています。
波の音が聞こえます。

【2017.04.05 Wednesday 11:46】 author : いづな薫 
| | comments(4) | trackbacks(0)|
佐倉の順天堂



千葉県佐倉に歴史探訪に行って来た。
東京から行ったので、千葉県佐倉は旅と言うほどのものではないが、遠足くらいかな。
佐倉と言えば、順天堂大学医学部の前身、順天堂があったところである。

順天堂を創設したのは、佐倉泰然(さくらたいぜん)、1804〜1872年。

1843年、佐藤泰然は、佐倉藩の藩主・堀田正睦に招かれ佐倉に順天堂を創る。
泰然は、長崎で蘭学を学び江戸で蘭学塾を開き、外科の開業医をしていた人物である。
泰然は、門人の一人林洞海に塾を譲り、堀田の招きに応じた。
今は、さほど広くないが、泰然の時代は1000人もの門下生がいた。
藩主・堀田は、西洋びいきで学問、武術に熱心な人物で、泰然を招いて藩内の学問向上を図ろうとしたのである。
佐藤泰然は、天然痘の予防に西洋式の人痘接種(じんとうせっしゅ)を広めています。
しかし、人から人への天然痘ウィルス接種は、危険を伴うため、牛痘接種が1849年長崎に伝わると同じ年に 早くも佐倉藩で採用されている。

近代医学の発展に寄与した佐倉泰然、実子の松本良順は東大医学部の前身を作り、
泰然の子孫たちは順天堂大学の医師となっている。

私は見ていないドラマだが、JINで使われた医療器具は、こちらの展示物を参考にしたと書いてあった。


【2016.10.15 Saturday 13:26】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
京都の旅 養源院血天井



商用が出来たので、京都に行き養源院に立ち寄る。
秀吉側室・淀や、その妹で徳川秀忠夫人の江与、徳川家康家臣・鳥居元忠ゆかりのお寺である。

関ヶ原の戦いの3カ月前、徳川家康は上洛して来ない上杉景勝を逆臣として征伐すると言い会津の上杉攻めを始める。
秀吉、前田利家はすでになく、家康は天下の覇権をかけて戦に乗り出したのである。
家康は、上杉攻めにあたり、伏見城に畿内を守るためと称し、鳥居元忠ら1800名の家臣を残す。
家康の大軍勢が上杉にかかっているすきに、伏見城を攻めたのが石田三成である。
実際の総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋である。
4万ともいわれる大軍勢を相手に、1800名の鳥居元忠軍は死を覚悟しての防戦である。
伏見城は落城し、鳥居元忠らは討ち死にして果てた。

その時の血にまみれた床板が、この養源院の天井に供養のために張られた。
養源院はもとは、浅井長政の菩提を弔うため長女の淀が造ったものである。
しかし火災で焼失し、再建したのが長政3女の江与である。
豊臣がこしらえたものをすぐに徳川が再建することは出来ない。
江与は、鳥居元忠ら伏見常駐軍供養のため再建し、伏見城の床板を天井に張るということにしたと言う。

血天井は、養源院のほか京都に源光庵、正伝寺などいくつかある。
私はすべてお参りしたが、養源院のが一番形としてわかる。
没後、1カ月ほど放置されたため、手や足、顔など血の跡が床にしみついたのである。
鳥居元忠の倒れた甲冑姿、目鼻だちもうっすらと分かる。

だいぶ前、初めて見た時、鳥居元忠大将はかのようなお顔だったかと思った。
風化が進んだのか、以前来た時よりも薄くなっているように感じた。
合掌


【2016.09.23 Friday 19:40】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
京都の旅 国家安康の鐘

京都東山の方広寺の鐘。
鐘の厚さ27cm、重さ82トン

1599年秀吉の子、豊臣秀頼は京東山方広寺の大仏と大仏殿そして鐘を造り始める。
ところが、1602年大仏に流し込んだ銅が漏れて大火災になった。
大仏は溶け、建設中の大仏殿も灰燼に帰す。
もう一回作り直し、大仏に金箔を貼る所まで来た。
梵鐘も完成。
跡は大仏に目を入れる開眼供養である。
そこへ家康から待ったがかかる。
梵鐘の表面一面に刻まれた細かな文字の中に、家康を呪う言葉あるといちゃもんを付けられる。
「国家安康」「君臣豊楽」である。


家康の家と康を分断し、豊臣を君主とし栄えると言うのである。
良く見つけたな、この小さな文字。白い四角がその部分。

豊臣は滅んだが鐘は残った。

ちなみに大仏の方は、1662年寛文地震で崩壊、寛永通宝に鋳造され直した。
銭形平次がドラマで投げるのはこの金。
平次は創作上の人物だが。


本物の方広寺大仏は、5年後の1667年に木造で再建されたが、1798年落雷で焼失。もう作るのやめた方がいいのにまた作る。
天保年間(1830 - 1844年)、尾張国の人が、上半身だけの木造大仏を寄贈。
しかしこれも、1973年火災で焼失。

【2016.06.17 Friday 16:52】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
京都の旅 八坂の塔と建仁寺

八坂の塔、絵になる一枚。
この角度の絵葉書も多いです。


京都もずいぶん来たが、ここ最近の混みようはものすごい。
写真は、清水寺から降りて来て三年坂に曲がる所。
この前にある七味屋(唐辛子屋)さんの出汁を買うのが、京都に来た時の楽しみ。
ティーパック入りで、忙しい時も簡単に本格的な出汁が味わえる。



建仁寺の門。


建仁寺は、800年前源頼家発願で、栄西禅師により開かれる。
栄西は、宋の国から日本へお茶の種を伝えた僧侶である。
境内にはお茶園と、お茶の石碑がある。



 

【2016.06.12 Sunday 11:06】 author : いづな薫 
| | comments(2) | trackbacks(0)|
京都の旅 西本願寺の唐門


秀吉好みのきんきらきんの唐門。
でもよく残った、現在国宝である。


アップにするとさらに極彩色。


これも、伏見城の遺構である。
勅使を迎えたので勅使門、またはずっと見ていると日が暮れてしまうので日暮門とも呼ばれる。


御影堂門にかかる灯篭


御影堂門

【2016.06.10 Friday 11:15】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
お屋形さまを巡る旅 日吉大社

滋賀県坂本にある日吉大社。
上杉謙信には、河田長親(かわたながちか)と言うイケメンで切れ者の重臣がいます。
謙信公が上洛の折、坂本の日吉大社に参詣し、そこで稚児をしていた少年の河田長親に逢ったと言われます。
利発な河田少年は、謙信公にスカウトされて家臣になりました。
のちに、魚津城主になり謙信時代の上杉家を支えました。


境内を流れる大宮川。


日吉大社には、昔から猿がいます。
日吉大社の祭神は山王神、猿が神のお使いなのです。


野猿もいるそうですが、境内おりの中に神猿が2匹、仲良く蚤を取っていました。


西本宮楼門。重要文化財。


西本本宮本殿。


西本宮本殿から出て来たところ。


葉書の語源になった多羅葉(たらよう)の木。
肉厚の葉にとがったもので傷をつけると、黒く線が残り文字が書けます。
”葉に書く”で葉書(はがき)の語源になりました。
葉に経文やあぶって占いに使ったので神社仏閣に植えられていることが多いです。
あと、「郵便局の木」とされているので、郵便局に植えられています。
私の住む東京の郵便局にもあります。




東本宮の社殿。

東本宮の楼門。

【2016.06.08 Wednesday 16:17】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
お屋形さまを巡る旅 比叡山延暦寺

滋賀県坂本から、ケーブルカーで11分で比叡山山頂に着きます。


ケーブルカーで登って降りた駅から、なぜか下る比叡山。
昔は、もちろん徒歩。
越後春日山からやって来たお屋形さまも、いくら名馬を持っていても、当然自力で登った。
比叡山焼き討ちの時、信長軍も甲冑着て上る。
甲冑着て登山なんていやもうなんだかすごい。それから戦うんですし。

塔頭群より先に見学することになる、比叡山延暦寺専用消防自動車!
信長叡山焼き討ちの時に欲しかった!
ナンバープレートをご覧下さい!





延暦寺根本中堂。
お堂の中では、最澄が延暦寺を開いた1200年前から消えない、「不滅の法燈」が今もともされています。


お屋形様も、「不滅の法燈」をもちろんご覧になったと思います。
この時24歳。
潤沢な経済力、軍事力、幕府再建の強い信念、すべてを持ち合わせた若き戦国大名は、3年後27歳で家出をします。
家出して向かったのは、高野山ではないかと言われています。
24歳の時、密教の聖地であった比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺を訪ねることは謙信にとって大きな意味を持ちました。
そしてこの経験が、27歳の家出決断につながったのではないかと推測します。
家出理由は、家臣たちの争いがやまないためです。
「もう好きにしたら?私がいなくてもいいんですね?」
謙信が置手紙を残して、家出してしまったことに家臣が慌てふためき争いをやめ、謙信を迎えに行っています。
謙信の家臣の争いを収めるための計画家出でだったのでしょう。
当時の戦国大名は、家臣の争いは力づくで抑え込むのが普通です。
謙信には、その力も十分あったのです。
それなのに、家臣たちが自ら解決して自分を再びお屋形さまとして迎えるようにしたと考えられます。
これにより、謙信の統率力はさらに高まりました。
軍神と言われ、信玄のような合議制ではなかったと言われる上杉謙信、実はトップダウン式でない一面も持っています。




戒壇院。



東塔。

【2016.06.06 Monday 15:46】 author : いづな薫 
| | comments(2) | trackbacks(0)|
お屋形さまを巡る旅 坂本 

城の石垣で有名な穴太衆(あのうしゅう)と言う石職人たちがいる。
穴太衆は、近江の国穴太(あのう)村の人々である。
坂本は、比叡山の物資調達の町である。
比叡山延暦寺は、信長に焼かれたことで有名である。
実際発掘調査によると、延暦寺根本中堂や大講堂は火災で焼失したことが分かっている。
他にもたくさん塔頭はあったが、寺の荒廃で僧侶たちは麓の坂本に住む人も多かったらしい。
日本海を通じて日本各地から集められた物資が敦賀で陸揚げされ、琵琶湖を通り坂本で船から降ろされ、京に向かう。
人も物資も多く、中世この町は繁栄を極めた。

穴太衆の石積み。
実は穴太衆、今でも会社として存続している。
地震で壊れた熊本城に関しコメントを出していた。


この坂本の町は、上杉謙信上洛の時、宿に使った町である。
家来は5000人も同行したと言われているのでさぞや上杉だらけになっていただろう。
謙信は、京洛(京の中心街)を抑えている松永久秀により上洛を邪魔され京都に入れないでいる。
京都では、崩壊寸前の室町幕府再建の助けを求めるため、関白の近衛前久が京都からひそかに抜け出した。
向かう先は、坂本にいる上杉謙信である。
莫大な財力と軍事力、幕府立て直しの信念、世の中を変えるすべての条件をこの若き越後国主が持っていた。


これは滋賀院、境内は写真を撮れないので外からの撮影。
滋賀院とは、比叡山延暦寺の長・天台座主(てんだいざす)が隠居して住んだ場所。
猿があたりいるので、建物内の見学する折、扉は必ず閉めて下さいとのこと。
お供えものありますものね、笑。


遠目に撮ったこの鐘。
比叡山延暦寺に信長が攻め入って来る危機を伝えた梵鐘。
あまり叩きすぎ、ひびが入ったため音色が変わってしまった。

坂本に攻め入り火をかけた信長、素晴らしい石垣を見て、自分の城に取り入れた。
安土城は、穴太衆の石垣である。

【2016.06.04 Saturday 11:23】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
京都の旅 朝ごはん


ホテルで朝ごはん。
目の前で焼いていただけるオムレツと、カリカリベーコンは特別美味でした。
私は、家では朝パン食なので、旅先ではごはんとお味噌汁をいただきます。

【2016.06.02 Thursday 11:15】 author : いづな薫 
| | comments(0) | trackbacks(0)|
過去のページへ

戦国カフェオリジナルグッズショップです。 戦国カフェオリジナルグッズショップへ
    いづなへメール

 仕事(技術・研究系)と環境に優しい生活、家族を愛する普通の人。
時事問題、歴史、環境、料理、欧州サッカー、クラッシック、登山、茶道、語学、刀剣鑑賞。
かつてはドイツ黒い森地方に学究のため在住、今東京/Tokyo

   当サイトは、コピー、転載、ダウンロード、直リンク、持ち出しは禁止です。
◆ 著作権はすべて、
いづな薫に属します。
 過去のページへ


   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
   にほんブログ村。
   ランキングはお休み中